2013年 04月 13日
『本当ですか』
「油注がれた方に手を下してはならない」という言葉は、権威主義の牧師が保身のためによく用いる聖句である。この言葉に縛られている教会員がどれほど多くいることか。宗教カウンセリングでよく取り扱う内容でもある。
サウルがダビデを何度も殺そうとした話は有名である。ある時、ダビデの部下はサウルに仕返す時が来たと思い次のように進言する。「『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』」(1サムエル24:4)しかし、ダビデは「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」(1サムエ24:6)と言って部下の進言を拒否する。
権威主義の牧師はずうずうしくもダビデ王と自分自身を同一視する。「手を下す」ということは「殺す」ことである。牧師の意見に反対したり、罪を指摘したり、裁判に訴えたりすることを禁じているところではない。サウル王とダビデは上下関係だが、牧師と信徒は上下関係ではない。神の前に平等であり、支配と服従の関係でもない。権威主義の牧師は、教会員の聖書の学びの不足を利用して、牧師の権威を王の権威に等しいところまで高く上げている。これは高慢の罪である。教会は王制でも、神権政治でもない。
権威主義の牧師が引用したくない聖書箇所は、ダビデ王がバテ・シェバと性的問題を起こした時、預言者ナタンから「貧しい人の雌の子羊」のたとえをもって罪を指摘されたところである。その時、ダビデ王は心から悔い改める(詩篇51篇)。預言者ナタンは油そそがれた王の罪を指摘した。教会員もまた牧師の罪を指摘することができる。なぜなら、私たちの信じている神は正義の神だからだ。神は罪をそのまま放置しておかれるお方ではない。イエス・キリストは教会に「天の御国の鍵」(マタイ16:19)を授けられた。教会は教会内で起きた罪を取り扱うために三段階のプロセスを踏んで裁くように教えられている(マタイ18:15~20)。
サウル王とダビデのところで見落とされているのは「ダビデはサウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた」(1サムエル24:5)という表現である。「上着のすそ」を切ったぐらいで、なぜそんなに心を痛めるのか、不思議に思われることだろう。しかし、イスラエルの民にとって上着のすそは大切な部分である。「着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え」(民数15:38)実は、ひもの網目の数はモーセの律法の数を表し、神の聖さと権威を表している。12年間長血をわずらった女が「イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった」(ルカ8:44)は、彼女が、「義の太陽(メシア)が上り、その翼(着物のふさと同じ単語)には、癒しがある」(マラキ4:2)と信じた出来事である。彼女はイエスの着物のふさを最も権威ある部分として理解した。さて、ダビデがなぜ心を痛めたのか。サウルの上着のすそを切ることは、神とサウルの関係を切る象徴的行為と見做される。神の権威によって王とされたことを否定するような行為なのである。このことを後悔したダビデはこれ以上の「手を下す」(殺すこと)ことを思い止まった。
牧師は神の権威によって立てられている。しかし、神の権威と等しくあるわけでない。牧師の油そそぎは、彼が一生涯罪を犯さないという保障ではない。神の権威を利用して、罪を犯すことが現実に起きている。神が裁かれるから、人が裁く必要はないというなら、彼の罪を助長させることになってしまう。神は復讐を禁じておられるが、人の裁判権を取りあげられてはおられない。牧師に権威があるのは、神の言葉に仕え、正しい聖い生活を過ごしているときであって、罪を犯しているときまで神の権威を帯びているのではない。罪を犯していたら、一人の罪人にすぎない。教会には裁く権威が与えられている。それは「天の御国の鍵」(マタイ16:19、18:18)である。教会は共同体の浄化のために罪を犯した牧師を正し、あるいは解任し、教会の秩序を維持しなければならない。神は牧師個人に裁きの権威を与えられたのではなく、教会に裁きの権威を与えられたのである。
B教会で「使徒」と自称し、権威主義的教会運営をしている女性牧師がいる。その教会で私の文書「OR教会の問題」が読み上げられた。途中、夫の牧師が破り捨てたが、自分の教会に類似していることに気づいた教会員たちから相談を受けた。何回か話し合いの時を持ち、牧師の違法性が明るみに出てきた。そして、教会総会で教会を良くしていこうとする人々が役員に過半数分選ばれ、運営の主導権を握り改革を進めることになった。これは画期的な出来事である。「カルト化」が今日的問題となっている中で「教会の健全化」も進んでいる。良い模範である。これは権威主義的教会運営をしている牧師が読めば膝頭が音をたてるような出来事である。大切なことは、正すべきは正す、ということである。私たちの神は正義の神なのである。
サウルがダビデを何度も殺そうとした話は有名である。ある時、ダビデの部下はサウルに仕返す時が来たと思い次のように進言する。「『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』」(1サムエル24:4)しかし、ダビデは「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」(1サムエ24:6)と言って部下の進言を拒否する。
権威主義の牧師はずうずうしくもダビデ王と自分自身を同一視する。「手を下す」ということは「殺す」ことである。牧師の意見に反対したり、罪を指摘したり、裁判に訴えたりすることを禁じているところではない。サウル王とダビデは上下関係だが、牧師と信徒は上下関係ではない。神の前に平等であり、支配と服従の関係でもない。権威主義の牧師は、教会員の聖書の学びの不足を利用して、牧師の権威を王の権威に等しいところまで高く上げている。これは高慢の罪である。教会は王制でも、神権政治でもない。
権威主義の牧師が引用したくない聖書箇所は、ダビデ王がバテ・シェバと性的問題を起こした時、預言者ナタンから「貧しい人の雌の子羊」のたとえをもって罪を指摘されたところである。その時、ダビデ王は心から悔い改める(詩篇51篇)。預言者ナタンは油そそがれた王の罪を指摘した。教会員もまた牧師の罪を指摘することができる。なぜなら、私たちの信じている神は正義の神だからだ。神は罪をそのまま放置しておかれるお方ではない。イエス・キリストは教会に「天の御国の鍵」(マタイ16:19)を授けられた。教会は教会内で起きた罪を取り扱うために三段階のプロセスを踏んで裁くように教えられている(マタイ18:15~20)。
サウル王とダビデのところで見落とされているのは「ダビデはサウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた」(1サムエル24:5)という表現である。「上着のすそ」を切ったぐらいで、なぜそんなに心を痛めるのか、不思議に思われることだろう。しかし、イスラエルの民にとって上着のすそは大切な部分である。「着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え」(民数15:38)実は、ひもの網目の数はモーセの律法の数を表し、神の聖さと権威を表している。12年間長血をわずらった女が「イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった」(ルカ8:44)は、彼女が、「義の太陽(メシア)が上り、その翼(着物のふさと同じ単語)には、癒しがある」(マラキ4:2)と信じた出来事である。彼女はイエスの着物のふさを最も権威ある部分として理解した。さて、ダビデがなぜ心を痛めたのか。サウルの上着のすそを切ることは、神とサウルの関係を切る象徴的行為と見做される。神の権威によって王とされたことを否定するような行為なのである。このことを後悔したダビデはこれ以上の「手を下す」(殺すこと)ことを思い止まった。
牧師は神の権威によって立てられている。しかし、神の権威と等しくあるわけでない。牧師の油そそぎは、彼が一生涯罪を犯さないという保障ではない。神の権威を利用して、罪を犯すことが現実に起きている。神が裁かれるから、人が裁く必要はないというなら、彼の罪を助長させることになってしまう。神は復讐を禁じておられるが、人の裁判権を取りあげられてはおられない。牧師に権威があるのは、神の言葉に仕え、正しい聖い生活を過ごしているときであって、罪を犯しているときまで神の権威を帯びているのではない。罪を犯していたら、一人の罪人にすぎない。教会には裁く権威が与えられている。それは「天の御国の鍵」(マタイ16:19、18:18)である。教会は共同体の浄化のために罪を犯した牧師を正し、あるいは解任し、教会の秩序を維持しなければならない。神は牧師個人に裁きの権威を与えられたのではなく、教会に裁きの権威を与えられたのである。
B教会で「使徒」と自称し、権威主義的教会運営をしている女性牧師がいる。その教会で私の文書「OR教会の問題」が読み上げられた。途中、夫の牧師が破り捨てたが、自分の教会に類似していることに気づいた教会員たちから相談を受けた。何回か話し合いの時を持ち、牧師の違法性が明るみに出てきた。そして、教会総会で教会を良くしていこうとする人々が役員に過半数分選ばれ、運営の主導権を握り改革を進めることになった。これは画期的な出来事である。「カルト化」が今日的問題となっている中で「教会の健全化」も進んでいる。良い模範である。これは権威主義的教会運営をしている牧師が読めば膝頭が音をたてるような出来事である。大切なことは、正すべきは正す、ということである。私たちの神は正義の神なのである。
by maranatha
| 2013-04-13 00:45