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村上 密 Blog

和解のための4段階

「謝っているのだから、赦してあげなさい」こんな言葉の押し付けを受ける人が多い。「とても赦せる気持ちになれません。赦さない私が悪いといいますが、本当でしょうか」これはほとんど2次被害の状況である。「赦し」が強調される余り、正当な怒りと被害事実の認識が曖昧なままで抑え込まれ、被害を公にすることさえ困難にしている。加害者が責任追及されないため、真の問題解決がなされない。このようなことがいたるところで起きている。このような対応では被害者をキリスト教信仰から離れさせる結果になり、加害者の深い反省なき生活が繰り返され、さらに被害者をつくる結果になりかねない。知ってほしいのは次の4つの段階である。

1、加害者は罪の認識を持っているか。
 罪の認識が不十分なのに、謝れば済まされると思うのは身勝手である。どんな実害を与え、被害者へどんな精神的ダメージを与えたか、被害者への視点が必要である。

2、加害者は心から罪を悲しんでいるか
 良心の痛みを感じただろうか。眠れぬ夜を過ごしただろうか、謝ろうとしてそれが出来ずに悩んだだろうか、心から悲しんでいるかどうかは被害者と出合った時に表情に表れる。気まずさと、申し訳けなさ、何と言ってよいかわからないもどかしさ、思わず頭を下げるしぐさ。被害者の前で謝罪していないのに、「赦してあげなさい」を第三者に言ってほしくない。

3、加害者は口で告白しているか。
 どんな罪を犯したのか、その告白によって被害者は赦すかどうか迷う。いつだったのか、どこでだったのか、だれだったのか(複数の場合)、どんなことだったのか、被害者は全体像を知りたい。その手がかりを与えてくれたら、赦したいという気持ちが与えられる。

4、加害者は罪の償いをしようとしているか
 謝罪を言葉だけで済ませるのではなく、実害を与えているのであれば、それに相当する金額と慰謝料を添えることは常識である。しかし、この常識がしばしば欠けることに驚く。教会の中で償いが欠けるのは、牧師がしっかりとこのことを教えていないためである。加害者は償いを実行すべきである。それを受けるか受けないかは被害者の判断であって、第三者がどうこう言うべきではない。

 「赦しなさい」は御言葉の乱用である。本当は人を救う言葉が人を傷つけるという結果にどうして人は思い及ばないのだろうか。それは被害者の被害状況をわがこととして受けとめていない傍観者になっているからである。罪の認識、罪を悲しむ、罪の告白、罪の償い。この4つを全て含んでこそ謝罪は被害者の心に届き、赦しの思いを生じさせ、真の和解への道が開ける。
by maranatha | 2007-11-01 11:22
宗教問題

by maranatha