村上 密 Blog:弟子訓練
2017-07-06T14:57:42+09:00
maranatha
宗教問題
Excite Blog
なぜ、教会成長のための弟子訓練は問題か
http://maranatha.exblog.jp/22697205/
2015-01-02T17:00:00+09:00
2017-07-06T14:56:13+09:00
2015-01-02T17:00:42+09:00
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弟子訓練
その願望達成のために、教会成長に弟子訓練テキストを取り入れている。テキストは日本の牧師が作成したものではない。弟子訓練が教会成長に貢献している、と言っても、それはその教会の取り組みにによるものであって、普遍的なものではない。もし、弟子訓練でどの教会も成長するなら、一様に取り組んだ教会は成長を遂げているはずである。むしろ、教会成長のために弟子訓練を取り入れ、名を馳せた教会で、様々な問題が起きている。このことを考慮すると、教会成長のための弟子訓練が健全な教会形成に至らなかった、と言うことである。
なぜ、教会成長のために弟子訓練は問題か。牧師は弟子訓練を「正しい」、そして聖書的だと思い込んでいる。確かに、福音書にはキリストの弟子が登場する。イエスは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:)と命じられた。ペテロもヨハネもキリストの弟子である。しかし、ペテロやヨハネの弟子はいない。パウロはテモテに対して弟子とは言っていない。同労者である。教会成長のための弟子訓練の問題は、教会の中に上下関係を持ち込んでいることである。同労者意識があったら、権威主義的教会はできないはずである。ビュン・ジェーチャンやキム・ギョドンは弟子訓練を取り入れ、やがて、それを欲望を満たすために悪用して堕落した。
弟子訓練が、キリストに仕える人を養成するのではなく、牧師に仕え、個教会に仕える人の養成に重点が置かれると、視野の狭い従属型の「弟子」が出来上がる。弟子訓練をする牧師は、自分を超えるほどの「弟子」を養成できない。牧師を超える器を養成するためには、各分野に秀でた器たちから学ぶ必要がある。弟子訓練が牧師に従う取り組みであるなら、動機が不純である。問題牧師でさえ、キリストの弟子を養成するため、と言う。大義を額面どうりに受け留める人が、弟子訓練に誘われやすい。弟子訓練の実態がどのようになっているかを考える人は、距離を置いて考えることのできる人である。この10年、どれだけ弟子訓練を強調した牧師が問題を起こしてきたことだろう。このことを人物が問題を起こしたに過ぎないと片付ける牧師はやがて問題を起こす。方法論の問題であると反省し、同労者意識をもって宣教に取り組む教会は逸脱から守られる。
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弟子訓練という名の隷属化
http://maranatha.exblog.jp/20430993/
2014-06-09T20:48:00+09:00
2017-07-06T14:56:43+09:00
2013-05-04T19:33:39+09:00
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弟子訓練
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弟子訓練
http://maranatha.exblog.jp/21110621/
2014-06-09T20:47:00+09:00
2017-07-06T14:57:14+09:00
2013-09-24T19:39:56+09:00
maranatha
弟子訓練
牧師が弟子訓練をパウロ書簡から引用してする場合、矛盾することを指摘しておきたい。なぜなら、パウロは「弟子」と言う言葉をことさら避けているからである。パウロが良く用いたのは「同労者」である。弟子には師と弟子という上下関係が伴うが、同労者にはそれがない。すなわち、牧師が、弟子という用語を使用しないパウロ書簡から、聖句を引用するのは、パウロの精神を理解していない行為である。
パウロは同労者に対ししてどのように接したのだろうか。「ピレモンへの手紙」を読むと、「同意なしには」という言葉が出てくる。同労者への配慮として、自己決定権を尊重したことが伺える。このような配慮を、昨今の「弟子訓練」を取り入れている牧師が持ち合わせているだろうか。「煮て食おうが、焼いて食おうが、自由。」と生殺与奪の権を持っているがごとく語る牧師もいる。また、「完全服従」を要求する牧師もいる。権威主義に走った牧師はパウロの教えを理解していない牧師である。
それでは、イエスの「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)はどうなるのか。弟子たちは、イエス・キリストの弟子は養成した。しかし、自分たちの弟子は養成しなった。よって、パウロの弟子とか、ペテロの弟子とか、ヨハネの弟子とか、そのような用語を使うことはなかったことになる。現代は、イエス・キリストの弟子を養成すると言って、「訓練」をし、牧師の弟子を養成している。牧師の「ビジョン」という自己実現のために、多くの信徒が使役されている。それは「弟子」ではなく「奴隷」である。同意があるだろうか。カルト化した教会においてあるのは、牧師の命令と指示である。(2013.9.24掲載)
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弟子訓練
http://maranatha.exblog.jp/12743870/
2014-06-09T20:45:00+09:00
2017-07-06T14:57:42+09:00
2010-06-03T07:15:59+09:00
maranatha
弟子訓練
弟子は伝道のために養成されるのではなく、牧師の身の回りの世話を強制させられます。牧師家庭の掃除、洗濯、雑用、小間使い、牧師子弟の無料家庭教師、牧師の送迎、鞄持ち、高級車の洗車、マッサージ、性欲の対象、感情の捌け口、これらはアメリカにおける奴隷制と類似しています。なぜなら支配と被支配は、自分を愛するように隣人を愛することができないからです。非人間化こそが奴隷制だからです。
弟子訓練を導入したキリスト教会で、それも、弟子訓練のモデルと言われた教会で不祥事が続発していることは、牧師の個人的罪だけではありません。弟子訓練が問題を内包しています。弟子訓練が聖書から導き出されたものではなく、軍隊や企業の人材養成をキリスト教会用にモデルチェンジしたものにすぎないからです。明るく、元気で、従順なカルトカラーが要求されるだけで、弟子が御霊の実を結ぶことはできません。その教会は聖霊が働く教会ではなく、グループダイナミックスで動いている教会です。弟子訓練を愛好する牧師は自己愛が強く、権威を強調します。そして、権威構造を教会内に作り上げてしまいます。王のような立場に立った牧師は、自分の要求が通ると錯覚します。ここに罠があります。自分の要求を通すため、神の御心でないものを御心と強調し、自分を偶像化し、罪に陥ります。
今、弟子訓練の導入によって自己肥大化した牧師が自滅し、裁きを受けています。裁判やインターネットによって暴露された事件は氷山の一角です。有名人扱いされた牧師と友人であるかように振舞った牧師は距離の取り方に困っています。ここは言い訳がましいことを言わずに、謙遜になり、堅実な教会形成に努めることです。仕えられるためではなく、仕えるための牧者となることです。(2010.6.3掲載)
過去に掲載した弟子訓練に関する記事を再掲載したい。
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