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村上 密 Blog

カテゴリ:聖書( 123 )

いいわけ

神がモーセをエジプトに遣わそうとされたとき、モーセはいいわけをした。モーセは「私はいったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト3:11)次のいいわけは13節にある。その次のいいわけは4章1節にある。そしてその次のいいわけは10節にある。さらに13節では断っている。いいわけは断るためためだった。ギデオンもいいわけをしている。6章13節にいいわけがある。次のいいわけは15節である。その次は17節である。私たちが信仰の勇者だと思っている人物たちがこうもいいわけをしていると、私たちとあまり変わらない人に見えてくる。しかし、どこが彼らと私たちと違うのだろうか。彼らは不承不承ではあるが神に従った。神は従ったがゆえに、彼らを助けられた。何事にも応答しない人がいる。現状維持のままが変化に対応していくよりいいからである。現状維持がけっしていいわけではない。いろいろなことが変化していく中で、変化に対応しなければならないことがある。かつてはよくても、これからは通用しないことが起きてくる。いいわけには「だって~」「でも~」「どうして~」「どうせ~」「~だから」「もし~」「また~」がある。信仰を成長を望むなら、聖書の教えに対していいわけを捨てて取り組むことである。

by maranatha | 2020-02-21 18:14 | 聖書

大切な心得

創世記の24章は創世記の中で「主」が最も多いところである。アブラハムは最年長のしもべを故郷に遣わし、イサクの妻を探して連れて帰るように指示する。このしもべはアブラハムの信仰をよく受け継いでいる。彼がまず出かけてしたことは祈りである。「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵を施してください。」(12)と祈った。そして、彼はイサクにふさわしい条件をあげて神に祈る。それが14節である。なんと祈りが聞かれたことが17節から20節に書いてある。そして、リベカの家に行き、兄ラバンに経過説明をした。その中に14節と17節から20節のことが43節、44節で繰り返されてある。と言うことは同じことが3回ここには書いてあるということである。それでこのことがどんなに重要なことかがわかるのである。言われたことをする。そうではなくて、そこで状況判断をしてそれ以上のことに自ら取り組む人をイサクにふさわしいと判断してしているのである。キリストの花嫁にふさわしい人はどんな人か。言われたこと以上のことを的確に判断して取り組む人である。強いられてではなく、自ら取り組むことが大切である。
by maranatha | 2020-02-19 22:06 | 聖書

白い衣を買いなさい

ヨハネの黙示録の3章に「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(17~19)目薬製造で豊かなガラテヤの町に住む人々がいる。その恩恵にクリスチャンたちも浴している。その豊かさが信仰の豊かさと同じではない。金銭で豊かになった人は金を貯める。イエスは「火で精錬された金をわたしから買いなさい。」と呼び掛けられる。罪を犯したアダムとエバに神は皮の衣を作ってお与えになった。しかし、ここでは「あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。」と呼び掛けられる。きらびやかな衣を買うぐらいなら、わたしから「白い衣」を買いなさい、である。主は、やさしさと厳しさを持っておられる。主は、ガラテヤ教会の人を愛し、悔い改めを勧められる。
by maranatha | 2020-02-08 12:47 | 聖書

「主」が最も多い

創世記の中で「主」が最も多いのは24章である。創世記は50章ある。ほぼ真ん中が24章である。アブラハムがイサクの妻となる娘を忠実なしもべを故郷に遣わし、そのしもべがリベカを連れて帰る。夕暮れの野でリベカかイサクと会う光景は感動である。アブラハムの生涯はここがクライマックスである。後はさっさと終わる。主がどのように書かれてあるか読んでみよう。私たちがどのように主とかかわるのか。主がどんなに信じる者の人生に深くかかわってくださるかを学ぶことができる。「主を礼拝」が(26、48、52、)3回出てくる。この礼拝はひれ伏すである。


「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」(1)


「私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。」(3)


「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」(7)


「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。」(12)


「この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。」(21)


「そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、」(26)


「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(27)


「どうぞおいでください。主に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」(31)


「主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。」(35)


「私は主の前を歩んできた。その主が御使いをあなたといっしょに遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家族から、私の息子のために妻を迎えなければならない。」(40)


「きょう、私は泉のところに来て申しました。『私の主人アブラハムの神、主よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら、」(42)


「その人が私に、『どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう』と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』(44)


「そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。」(48)


「するとラバンとベトエルは答えて言った。『このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。」(50)


「ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」(51)


「アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。」(52)


「しもべは彼らに、『私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください』と言った。」(56)


引用:日本聖書刊行会 新改訳聖書 第3版


by maranatha | 2020-02-06 19:29 | 聖書

わたしは知っている

ヨハネの黙示録の中で、「七つの燭台(教会)の間を歩く方が言われる。」(2:1)「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。」(2:2)「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っている。」(2:9)「わたしは、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。」(2:19)「わたしはあなたの行ないを知っている。」(3:1)「わたしはあなたの行ないを知っている。」(3:8)「わたしはあなたの行ないを知っている」(3:15)かつて主はモーセに「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの悩みを知っている。」主に知られていることは幸である。主は知っているだけではなく、知られている私たちに深くかかわってくださるからである。
by maranatha | 2020-02-06 17:41 | 聖書

手紙が書かれた理由

問題のない教会はない。問題にどのように取り組むかが問題である。初代教会の中で問題が起きたからこそ、手紙はそれを正すためにできた。私たちは手紙から学ぶことができる。コリントの教会はひどい教会である。それでもパウロは手紙を2度(3度も)も書いた。コリント化とは堕落することを表現する言葉である。教会のカルト化は、カルトではまだないがカルトに段々変わってきている状態を表す言葉である。どれも本来あるべき姿から変化して、変質して、原形をとどめなくなっている状態である。これこそ、熱心になって悔い改めなさい、であるが、このような教会は自分たちが一番素晴らしいと思い込んでいる。このような教会を歩き訪ねられる主は語りかけられる。「目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい。」(3:18)
by maranatha | 2020-02-04 15:06 | 聖書

歩く

ヨハネの黙示録に、七つの燭台が何を意味するのかが書いてある。「七つの燭台は七つの教会である。」その七つの教会の最初の教会がエペソである。「七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。」(2:1)イエスはエペソだけではなく、その他の六つの教会もも歩き訪ね、称賛し、叱責し、悔い改めるように勧告し、教会の問題を指摘しされる。この歩くは、創世記を思い出させる。「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。」(3:8)神は、神の命令に背いて身を隠す、アダムとエバを探し求めて歩かれる。昔、七つの教会の間を歩かれた神は、歴史の中で存在した教会の間も歩かれた。そして、現代の教会の間を歩かれる。燃える炎の目を持つ方は、教会のすべてを見通しておられる。それぞれの教会の称賛されるべき点、非難されるべき点、問題のない教会はない。必要なのは罪を認め、問題を認識し、悔い改め、神に立ち返ることである。逃げるのではなく、隠れるのではなく、歩いて、私たちの教会を訪ねてこられた主を迎え入れて、交わりを再開することである。黙示録にこう書いてある。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、私の声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(3:20)
by maranatha | 2020-02-04 14:50 | 聖書

イエスはどんな人

マタイの福音書では、「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆるわずらいを直された。」(4:23)と「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」(9:35)との間に、イエスの教えといやしが書かれてある。これはイエスの教えといやしが、ここから始まり、ここで終わることを示している。その中で、教えは「イエスは山に登り」(5:1)から「イエスは山を降りて(8:1)」までで、山上の垂訓とも言われている。いやしは8章と9章である。その中で「これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」(8:17)が中心になる言葉である。マタイは王なるイエスを伝えている。それは権力を振り回す王ではなく、罪人を招き、神に立ち返らせる王である。8章の初めのいやしは、重い皮膚病にかかっている人に対してである。この病にかかっている人は、イスラエルの社会から疎外されて暮らしている。イスラエルの一般の家には入れない。次のいやしは、百人隊長のしもべのいやしである。百人隊長としもべは異邦人である。百人隊長はイスラエルの社会を知っていた。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」(8:8)マタイの9章では、イエスがザアカイの家に入られて、食事をされているとき「これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』」(9:11)イエスは「わたしは罪人を招くために来たのです。」(9:13)と答えられた。イエスは、罪人、そして、社会で疎外されている人々を招き、あるいは招かれ、罪を赦された人々と交わりをされた。これは、私たちの「王」と言う言葉の概念にはない。ここで私たちは既成概念を捨てなければならない。この王は、美しく着飾った人々の囲まれた王ではなく、富んでいる人々の囲まれた王でもなく、罪を赦された人々に囲まれた王である。

by maranatha | 2020-02-03 08:59 | 聖書

黙示録

黙示録は「この預言のことば」(1:3、22:7)とあるように預言書である。この同じことばは預言の始まりと終わりを示している。そして、黙示録は「幸い」(1:3、14:13、16:15、19:9、20:6、22:7、22:14)の書である。「この預言のことば」と「幸い」は関連している。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」(1:3)「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」(22:7)黙示録には7の数字がよく出て来る。祝福の数である。「幸い」は黙示録に7回出て来る。この「幸い」を受け取る方法は、朗読し、それを聞いて、心に留め、固く守ることである。そうする者には「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利が与えられる」(22:14)創世記3章でエデンの園から追放された理由は、いのちの木の実を食べないためであった。黙示録には、信仰によって罪赦され(自分の着物を洗って)、永遠のいのち(いのちの木の実)に預かる者の「幸い」(22:14)が書いてある。難しいと思わないで、朗読してみよう。朗読して、勧められている教えを守ろう。黙読ではなく、先ずは朗読しよう。


by maranatha | 2020-01-24 08:48 | 聖書

厳しさの中にも愛情が

父が子に対して厳しく接しても、それは父が子を全否定しているわけではない。父は自分の子だから責任をもってしつけたり、教えたりしているである。それを勘違いして自分を否定していると思ってしまうと、関係がぎくしゃくなってしまう。カルトに入信して、厳しい父親のことを話すと、大抵は愛されていないのだと言って、父子関係を切り離し、カルトとの関係を深める材料に使われる。私は父は厳しかった。けれども、へブル人への手紙12章5節から13節を読んで、父子関係と天の父と私の関係を学ぶ機会が与えられ、厳しかった父を受け入れることができるようになった。父の厳しさの中にも愛情があったことを自分の子育ての中で思い出すことができた。「主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(12:6)



by maranatha | 2019-10-31 23:14 | 聖書
宗教問題