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村上 密 Blog

カテゴリ:カルト化( 20 )

願いと相談

関東から二人の方が訪ねてこられた。かつて所属しておられた教会の牧師の問題を伝えるためである。すでに、多数の人から情報を聞き取っている。これらの方々の中から陳述書を書いてもよいと思われる方に書いていただく予定であることを伝えた。現在進行形のいくつかのことも伝えた。離れてはいても、所属していた教会がよくなるように願っておられる。
by maranatha | 2019-10-17 17:09 | カルト化

教会のカルト化

国家は、国民を統一するために、脅威を作り上げる。宗教も同じように脅威を作り上げる。それが霊の戦いである。至る所に悪霊が働いているので、油断しないように信者を教える。これが恐怖のマインドコントロールである。礼拝を厳守しなければならない。そうしないと悪霊に隙を与える。行動のコントロールである。十一献金しなければ金銭欲を克服できないので、悪魔に隙を与える。団体拡大の効率の良い資金調達である。牧師の薦める本以外を読むと間違った教えが入り込むので、悪魔に隙を与える。情報のコントロールである。指導者は敵から攻撃されている。その敵は〇〇である。敵を作り憎ませる。感情のコントロールである。教えに従わない人は「世俗的」とみなし、信者を純粋培養していくこれで原理主義的な団体が出来上がる。
by maranatha | 2019-08-24 09:19 | カルト化

カルト化の原因

教会のカルト化の原因の一つとして霊の戦いがある。この霊の戦いの実践者たちはは、自分たちにとって不都合な出来事を悪魔や悪霊による働きと断定する。周囲の情報を神か悪魔か、白か黒かの思考は、敵とみなす人物と団体の流す情報を虚偽と思い込む。それはまた、信じた指導者の話を疑問なく信じると言うことにもつながる。第三者からは、なんであんな人の話をまともに信じるのかという疑問が生じる。信じた人は信じない人を悪魔に影響されて人と思い、関係を避けるので、いよいよ人間関係が狭まり、正しい情報が入りにくくなる。結果、指導者が語るあらゆる分野に関する話が、非常識であろうと、信仰的と捉えることになる。この傾向は、第三の波から始まり、ペンテコステ派に影響を与え、福音派、そしてNCCにも広がっている。信仰という名の主観的判断に陥った信仰者が惑わしを受けやすくなる。それはどんな小さな宗教団体でも起きる現象である。キリスト教も例外ではない。
by maranatha | 2019-08-24 08:37 | カルト化

教会の暴走

教会のカルト化は教会の規模に関係がない。カルト化していくときは、教会が閉鎖的になる。牧師は、教会を閉鎖的にしていくことによって自分の権威を確立しようとする。牧師は牧師におもねる人を役員にする。そして権威主義を共有する関係となる。側近はけっして牧師を公の場では非難しない。個人的にはなおさらである。持ち上げることで、牧師から引き上げられる。牧師を持ち上げれば、実は自分の教会内における地位や名誉が上がっていくと思っている。持ち上げる人が権威主義の体質を持っているのである。同じ体質の人が集まりだすと、教会はカルト化へ勢いがつく。それは暴走の始まりである。
by maranatha | 2019-05-03 22:05 | カルト化

服務の宣誓

国家公務員の服務の宣誓
「私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることをかたく誓います。」
「上司の職務上の命令に従い」なので、上司に無条件に従わなければならないのかと言うとそうではない。上司も服務の宣誓をする。その中に「日本国憲法を遵守し」とあるから、上司が憲法に反するような命令をすれば、部下は従わなくてもよいわけである。命令がないのに忖度して法を犯すのはもってのほかである。

ある宗教団体の問題を扱っている。指導者が法や規則、就業規則を犯している。しかし、その団体の役員たちはそれを問題にしない。むしろ、正そうとする人々を非難している。指導者の言うことに従っていればよいと思い込んでいる。宗教団体の中でこれを正すことはできないので、裁判で扱うしかない状況である。

私が心配していることがある。警察庁職員の服務宣誓は以下のとおりである。
「私は、日本国憲法 及び法律を忠実に擁護し、命令を遵守し、警察職務に優先してその規律に従うべきことを要求する団体又は組織に加入せず、何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い、不偏不党且つ公平中正に警察職務の遂行に当ることを固く誓います」。 しかし、カルトの信者が、警察庁、自衛隊等の機関に就職しているとの指摘がある。カルト信者は服務宣誓したとしても、いざとなったら、躊躇なく憲法や法律の上に指導者の命令を上に置くであろう。なぜなら、日常生活の中で、すでに上記に取り上げたような宗教団体があるからである。

引用:服務の宣誓ーWikipediaより

by maranatha | 2018-10-12 14:13 | カルト化

惑わし

惑わしが増えている。予防が十分にされていない。教会では異端に気を付けるように教える。しかし、教会がカルト化しないようにとは教えない。なぜ教えないのか。自分たちの中に入り込み始めたカルト性を指摘されたくないからである。カルトチェックがいくつかインターネット上に出ている。牧師がしないなら、信徒が自ら自分の属する教会のカルト度をチェックしてみたらよい。結果が悪かったら、牧師に質問してみるとよい。感情的に反応したら、気にしていたか自分のことを言われたように感じて気分を害いしたのである。改善がされなければ、問題が起きないうちに離れたほうがよい。カルト性は段々浸透してくる傾向にある。始めは正しかったのに、やがて正しいかもになり、正しくないに変わっていく。悪しきものの座に座らないように気を付けることである。
by maranatha | 2018-09-08 06:40 | カルト化

預言の応酬

ある教会に「預言者」がいた。子どもの言動に手を焼いて、「預言者」が立ち上がった。「預言者」曰く「子どもだからと言って神が手加減すると思い上がってはならない、と主は言われる。」「先生、このように教会で子どもが裁かれています。、どうしたらいいでしょうか。」「子どもに言いなさい。預言者だからと言って裁きを免れると思ってはならない、と主は言われる。」と応酬しなさい。カルト化した教会では、預言を裁きとして教会の集会で用いることがある。言われ続けると会衆は萎縮してしまう。言い返す力がないと精神が参ってしまう。同じように応酬する人が出てきたら、どのような決着があるだろうか。預言の応酬、それは自分の言い分を神を騙って語るのであって、主からではない。人は啓示形式に弱い。預言者だから、牧師だから、教師だから、裁きを免れるわけではない。聖書の教えから逸脱し、異端になってしまった場合、それに対しては裁きがある。私の立場だったら、そこから抜け出しなさいと忠告する。
by maranatha | 2018-07-25 22:55 | カルト化

教会のカルト化

なぜ、キリスト教の一部がカルト化したか。1980年代から教会成長がブームになった。この頃からカルト化が始まった。伝道に特化した教会の取り組みは、教会成長を促した。それに伴って、家族的な交わりを保っていた教会で牧会が手薄になった。さらに、弟子訓練を取り入れて伝道を推進していくため、牧会できる許容範囲を超えてしまった。牧会は時間がかかるものである。その牧会の手間を省くために、一部の教会が牧会ではなく統制や支配に移行し、セルで吸い上げた個人情報を信徒の信仰管理に使い始めた。イエスの弟子訓練を名目に実態は牧師の弟子づくりになり、牧師への服従が従順に置き換えられた。聖書の生活化ではなく牧師のビジョンという名の自己実現に賛同することが信仰的とみなされ、牧師に権威が集中する体制が教会の中に形成された。さらに霊的戦いを教会に導入して、牧師の権威は一層高められた。一致団結して戦うためには指導者が必要で神の代理人を名乗る牧師がその役割を果たした。神の代理人に逆らう者は不信仰者、悪魔の影響を受けている者、悪霊の惑わされている者と言われ、教会に居ずらくされていった。役員会はイエスマンで固められ、牧師の暴走を止める役割を果たさず、教会総会も報告と手早く承認を取り付ける場となった。簡略化された報告では実態はわからない。総会は質問ができる雰囲気ではない。教会規則は名ばかりで、規則を無視した運営がまかり通るようになった。そうして教会のカルト化が急速に進行していった。

教会成長、弟子訓練、セル、霊的戦い、こういったムーブメントを導入している教会は一様にカルト化しているとは言わないが、カルト化した教会に共通しているので気を付けてほしい。いつ牧師がアクセルを踏んで暴走するかもしれない危険をはらんでいる。なぜなら、思いのほか牧師に権威が集中しているからである。牧師が黒を白と言ったら白、牧師が何か間違っても牧師に従ったら神が祝福してくださると言ったら、はやく教会を去ることである。教会内に留まり改革してくのは覚悟が必要である。同じ志を持った人々が協力しなければ、改革は達成されない。改革する支援体制ができなければ、孤立無援で傷を深める。
改革する人が教会からいなくなると、牧師は暴走しやすくなる。それは墓穴を掘る状況ができたことになる。ただ終焉を迎えるまで、残った教会員が痛む出来事が起きることでもある。

by maranatha | 2018-06-06 16:25 | カルト化

諭しか虐待か

ある教会で、目に見えないスイトピーさんは信仰生活を過ごしていた。教会には彼女にいろいろと気に障ることを言ったり、ちょっかい出してくる子がいた。彼女は、我慢してきたが、牧師に、その子に対して注意してほしい、障害者を特別な目で見たり、ばかにしたりしないように教えてほしいと依頼した。すると、牧師は「なぜあなたは兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって『あなたの目のちりをとらせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち、まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすればはっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができす。」(マタイ7:3-5)というみ言葉を引用して、「あなたは人の欠点を見ているけど、自分だって人を傷つけたことがあるでしょう。」と言った。それから「神様はあなたをこんなにすばらしく作ってくれたのに、そしてあなたを愛しているのに、あなたが自分の存在を悲しんでいたら、神様悲しむよ」と言った。彼女は、この言葉を、神が障害に共感し、心を痛めておられるのではなく、神がこんなに自分を愛し、自分をすばらしく作ったのに、それを信じないで、トラウマに縛られて、いつまでも引きずっていることが、神を悲しませることになるという意味に受け取った。簡単に言うと、あなたの不信仰が、弱さが神を悲しませていると受けとめたのである。

子供は「目が見えない人だ。」と何度もはやしたてた。目の前に手をかざして見えるかどうかを試した。歩いているときわざと前に立ったりもした。牧師は、それに対してそういうことは見えないことへの好奇心から出たことであって、それをいやだと思うのは、考えすぎだと言った。牧師は、その場にはいなかった、その状況を見てもいない。彼女は、牧師に状況を話して「子供にきちんと教えてほしい。これから教会が大きくなって、人も増えたら、もっといろんな人が教会に来るから、その時、またこんなことが起きてもよくないので、今のうちからきちんと教えてください。」と頼んだ。しかし、依頼が受け入れられず、話はかみ合わず、悲しみをいだいたまま帰宅した。

彼女の教会では、互いに愛し合い、赦すようにと教えられた。しかし、今考えてみると、赦すこととは相手の欠点は見て見ないふりをするということであった。メッセージではそんな言い方はしないが、トラブルがあったり、傷付けられたと思って相談に行くと、「神様があなたを愛しているんだから、それを信じて、信頼して、そこに目を向けて強くなりなさい。」と諭された。牧師は問題に向き合うのではなく、問題に対して考えを変えるように教えてきた。嫌がらせを興味として赦すように言っていることになる。


彼女は、牧師との話し合いがあってから、子供に言われたことを嫌だと感じたのは、トラウマのせいであると思うようになった。そのトラウマは幼稚園の頃、彼女は弱視で、幼稚園で毎日ひどいいいじめに遭い、ある日の帰り道、数人の子に囲まれて殴られ、左目を網膜剥離で失明した。それから子供に対する恐怖感を抱くようになった。大人になってからも子供が苦手で、保育園や小学校など子供がたくさんいる所は怖くて学校の傍を通るのもつら思いをして過ごした。あのいじめを思い出してそんなトラウマを持ち続けているのは自分が悪いのだと教会生活で考えるようになった。つらいものはつらい、いやなものはいや、そのような感情がなくならずに、祈っても祈っても変われない自分を悲しく思うようになった。教会から離れて、カルトやマインドコントロールについていろいろ学んだ。そして牧師に言われたことは信仰の虐待ではなかったのかと思うようになった。なぜなら、牧師と話があったのは祈祷会が終わって午前0時までで、牧師だけではなく、4人の信徒に囲まれて攻撃されたからである。

by maranatha | 2017-11-15 20:39 | カルト化

絶対と服従 相対と自由

牧師を神の代理人と考えている人は、牧師を絶対化していることになる。神に背くことができないように、牧師にも背くことができない。そこにあるのは服従だけである。背くことは背信の罪であり、死であり、地獄である。救われるために牧師に何でも従うことになる。そこにあるのは、イエス・キリストによる救いではなく、牧師に従うことによる救いである。牧師に対して疑問を持つことさえ、不信の罪となる。これが絶対と服従の関係である。もし、牧師が言っていることを、人間だから間違うことがあるかもしれない。書店で買ってきた本を読んで、この教えの方が正しいように思える。疑問に思ったことを、自分で調べ始めて、いろいろな人の本やブログを読んで見て、牧師に疑問を持ち始めたとしよう。牧師を相対化することによって、他の教えに耳を傾け、どれが正しいのだろうか、と考えて、自分で判断することが始まった場合、そこにあるのは、選択の自由である。しかし、その選択には責任が伴う。それが自己責任である。人は、考えることや選択することへの不安や悩みから逃れるために、自分より経験豊かな人、知識を持っている人に依存して、自分で考えたり調べたりすることを放棄しがちである。実はこれが自分を奴隷として他人に自分を売り渡す行為だと知らないでいる。考えるということをしない人は、権威主義の人の餌食となる。あるいは、いろいろな情報に振り回されて人生を過ごすことになる。絶対と服従、相対と自由、どちらにも危険が伴う。それでも私たちはこのことを意識の外に追いやるのではなく、日々の営みの中に自分で考えることを実践していかなければならない。
by maranatha | 2017-11-11 16:04 | カルト化
宗教問題