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村上 密 Blog

カテゴリ:赦し( 21 )

脳がスッキリ

ある方の体験談を掲載します。

私の父は左利きで、箸と字を書く以外は全て左手を使います。そんな父の元だったのですが、母方の祖父がそばに住んでおり、その祖父が厳しかった故に、私は物心がついた時から、右手で何もかもしていました。

でも、体育時間の高飛びやスタートの軸足はみんなと違い、別方向を使っていました。でも、できる範囲は全て、右手、右足でやっており、当然のように右利きだと思い込んで生きてきました。

高校一年生のある日、右手を怪我してしまい、一か月ほど、右手を使えない状態になってしまいました。

ノートを書くのも、汚い字で左手。食事をするのも左手。何もかも左手になった時、不思議にも、脳の中の霧が晴れた様になり、頭がスッキリしました。そこから、記憶力がとても良くなり、勉強すれば短時間でなんでも覚えていける様になり、難解な数学の問題も、考えながら寝てしまっても、夢の中でその問題が解け、朝飛び起きてその問題をしたら、スムーズに解けたり、苦手な英語も教科書丸覚えで、英語、訳ともに覚えきることができました。古典も、いろんな単語を覚えるより、更級日記、大鏡を原文、訳とともに覚え、他の古典文学にも適用していました。

そんな時に、自分は左利きだったんだということを知りました。その時から、誰にも遠慮せずに両方の手を使い始めました。

学生時代、論文を書くのが得意になり、何百字と決められると、それにぴったりいく様に短い論文、長い論文も感覚的でしょうか?起承転結を頭の中で練ることができ、それを文章にしていく時に、字数を調整してぴったりに書き上げることができていました。

現在は、両方の手や足を使い分けて生活しています。いろいろな生活環境が、日本では右利き用にできているので、自然に右手をたくさん使っている様に思います。包丁など刃物は、右手を使うことができませんが、いろいろなことが両方の手でできます。

右利きの人でも、中学、高校生くらいに、両方の手を使えば、もしかしたら私のように、脳内が霧が晴れたようになり、記憶力など含んで、いろいろな理解力が高まるのかな?と先生のお話を聞いてふと思いました。

以上が知人の体験談ですが、脳内が霧が晴れたようになりを聞いて、左利きを強制的に右利きにされた人に役立てればと思い、ブログに掲載しました。

by maranatha | 2018-12-17 17:50 | 赦し

赦し

赦しで苦しむクリスチャンをカウンセリングするようになったのは、2000年代にカルト化する教会の問題を扱うようになってからである。私たちはキリスト教文化の中で無条件に赦すようにと教え込まれてきた。主の祈りの役割も大きかった。そして、聖書の中に悔い改めた者を赦すようにと書いてあることを無視してきた。キリスト教文化より聖書の教えが大切である。赦しの記事は2010年からである。2005年まではブログを書くことはなかった。聖神中央教会事件をきっかけにブログを書き始めた。それからしばらくは多忙を極め、東奔西走して相談に対応してきた。文書で伝えることに気づくのが遅れた。文書化して、このことに対する反応が随分とあった。それほど深刻だと言うことである。検索して読みやすいように下記に掲載した。二重になった記事は読み飛ばしていただきたい。



by maranatha | 2018-03-23 20:39 | 赦し

赦しなさい と言う裁き

裁いてはいけない、とよく言われる。そう言っている人は、加害者に謝罪しなさいと言いもしない。双方から聞き取りをして公平な判断をしようともしない。赦しなさいと簡単な解決方法に逃げている。そのような言葉は、一方的な判断を押し付けているのであって、解決にはならない。加害者に加担する人が増えただけである。害を与えた人と害を与えた人をかばう人が解決できるわけがない。加担者は赦しなさいと被害者を裁いているのである。赦さないと神の言葉に背くことになり、信仰的ではない。信仰的でないのは、ただ赦しなさいと紋切り型の言葉しか言えない人である。聖書は正しく裁くことを教えている書でもある。パウロは「前から罪を犯していた人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。」(2コリント13:2)と言っている。悔い改めない人に向けられた言葉である。赦しなさいと言う人は、加害者に悔い改めなさいと言っているだろうか。間に入る人に要求されるのは、公平な裁きである。それは、悪い事には悪いと言って、悔い改めない人にはふさわしい処罰を下すことである。経済的または深刻な精神的被害を与えていたら、それにふさわしい償いをすることを勧めることである。公平な裁きをしない人はそのさばきによって自分を裁くことになる。それはその人が公平ではないことが明らかになり、信用を失うことになるからである。ただ赦しなさいと言う人は、ただそれしか言えない人で、本当の聖書の教えを知らないことを明らかにしている。このような愚かな裁き人を信じて従ってはならない。被害者は声を上げ、公平を求め続け、被害の状況を公にして、正しい裁きを求めることが必要である。赦しなさいと言って、赦すこと以外を赦さない人、赦しなさい、と言って裁く人に譲歩してはならない。それは愚かな裁きを受け入れることになるからである。。

by maranatha | 2017-11-22 00:58 | 赦し

悔い改めない者には裁き、悔い改めた人には赦し

パウロの言葉の中で最も強い言葉の一つである。「私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。」(2コリント13:2)この節には相手の名前はありませんが、教会の中ではよく知られている人である。この人々に向かってパウロは「容赦はしません」と書いている。パウロはこの人々にさらに語りかけている。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。」(5、6)パウロは裁きたくはない。本当は罪の悔い改めを願っている。それで、祈りが次に書いてある。「私たちは、あなたがたがどんな悪をも行なわないように神に祈っています。それによって、私たち自身の適格であることが明らかになるというのではなく、たとい私たちは不適格のように見えても、あなたがたに正しい行ないをしてもらいたいためです。私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。」(7、8、9)「祈っています」が2回ある。コリント第2の手紙の目的は「そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。」(10)
by maranatha | 2017-11-06 19:38 | 赦し

謝罪と赦し

「謝ったでしょう。謝ったのに、いつまで、そのことについて言ってくるの。」これは、謝罪ではない。謝罪したと思わせて、責任逃れをしている。「あなたがそう思うのなら謝ります。」これは謝罪ではない。したことを謝っているわけではなく、思わせたことを謝っているので、問題を逸らしている。これでは、被害者意識をとがめられているような気になる。「私の謝罪をAさんがあなたに伝えたでしょう。」対面の謝罪を避けている。そればかりか、謝罪を済ませたと言って開き直っている。謝罪にならない。

謝罪が相手に届く方法はあるのか。それは加害者が罪を悔いて、損害を与えていたら賠償することである。それでも、被害者には赦せない思いがあるかもしれない。加害者の罪に対する対応は、罪を悔いて、謝罪し、賠償したならば、今度はそれを被害者がどのように受けるかが問題となる。赦す、赦さないは、被害者の自由であるが、赦すのが正しい対応である。なぜなら、赦せない自分を赦すことができるからである。

罪は、人間関係を破壊するが、罪を正しく清算することで、被害者も加害者も神の前では同じ罪人であり、神に赦されなければならない存在であることを学ぶ。自分を全く正しいと位置づけて被害と向き合うと、裁くことに思いやりを欠くことになる。自分を同じ弱さを持った人間として、加害者に対応すると、回復を促す心を持って取り組むことができる。
by maranatha | 2016-08-28 22:43 | 赦し

特集 赦しなさい 1

「赦しなさい」に関する過去のブログの記事を訂正加筆して特集とした。

赦しなさいが裁きの言葉になっている。赦しなさいと言っている人が、赦せないでいる人を、なぜ赦せないかととがめているからである。赦せないでいる事情をゆっくり聴くこともしないで、紋切型の言葉しか出てこないところに、その人の人間性が現れている。赦せないでいる人と、赦せないでいる人を赦せないで裁いている人と、どちらが人間らしいか。赦せないでいる方だ。赦しを強いる人は、自分は信仰に立っていると思い込んでいる。そのような対応で、赦せないでいる人が変わるとでも思っているのだろうか。赦しなさいと言われ続け、赦せないで苦しんでいる人をさらに痛めつけるだけだ。赦せないでいる人の気持ちを、どれほど聞き、どれほど理解して、赦しなさいと言っているのか。ほとんど聞かないで、言っているに過ぎない。人は悔い改めた人を赦すことはできる。悔改めないで悪を続けている人を赦すことはできない。不法をなすものを放置し、赦すことが愛だと言う世界に平安はない。そこには神の正義が失われているからだ。カルト化した教会には神の正義はない。問題牧師が正義で、裁きを独占している。赦しが強制される教会に和解はない。感情が押さえ込まれているだけだ。その証拠に、それぞれがカルト化した教会を脱会した後、信仰の交わりを続けたいと思わなくなるからだ。うすっぺらな牧師の下ではうすっぺらな和解があるだけで、心の底からの赦しがない。ここに、抑圧されている人の深い苦しみがある。苦しみを言葉にして周囲に言えば言う程に不信仰と言われる。それで、自分の心を押し殺し、信仰的に装うしかない自分に嫌悪感を抱き、自責の念を深めて行く。これでは信仰が育たない。赦しを強制される教会に通う信徒はかわいそうである。

by maranatha | 2016-05-07 00:00 | 赦し

特集 赦しなさい 2

カルト化した教会は、赦しなさいで問題を解決する。それは解決ではなく、回避である。被害者への救済がない。むしろ、被害者に赦しが強制される。彼らは、ペテロの何度まで赦すべきでしょうか、の質問に対して、イエスは「七度を七十倍するまで」(18:22)と応えられた言葉を強調する。この言葉を文脈で理解すると無条件でないことが分かる。悔い改めた人を赦すようにと教えている。一万タラントを返済できないしもべが、ひれ伏して猶予を求め、全部支払うと言っているので、主人はしもべの借金を免除してやった。ところが、このしもべから百デナリを借りていた仲間が、返済できず、猶予を求めた。それをしもべは承知せず投獄した。そのことを彼の仲間たちが知って、主人に一部始終を伝えた。主人はこの猶予を与えなかったしもべに対して赦しを撤回し、投獄した。この物語は、悔い改めた人を赦すようにが、真意であて、どんな人に対しても赦せではない。

by maranatha | 2016-05-07 00:00 | 赦し

特集 赦しなさい 3

マタイの福音書は、ユダヤ人のクリスチャンのために書かれたと伝えられている。だから、言わなくても分かることは省いている。ところが、ルカは、異邦人のクリスチャンのために福音書を書いた。だから、説明的に書いている。「気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るならば、赦してやりなさい。」(17:3、4)ルカとマタイのどこが違うか。「悔い改めれば」が条件として書かれてある。カルト化した教会の無条件ではない。よく読むと、「兄弟が罪を犯したら、彼を戒めなさい。」とある。はたして、牧師は罪を犯した人を戒め、悔い改めに導いているだろうか。支払い能力があって悔い改めれば、当然返済をするはずである。しかし、単なる赦しなさいが横行している。さらに聖書を見ると「『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るならば」とある。カルト化した教会でこのようなプロセスが踏まれているだろうか。それがあったら、被害者は悩まない。苦しまない。悔い改めているとは思えない言動を罪を犯した人が続けているので被害者は悩み苦しむのである。それも、形式的に一度来ても、それ以上来ることはない。謝罪のパフォーマンスでは、謝罪を得ることはできない。悔い改めが赦しを得る道である。ただし、返済免除を期待してではなく、返済する覚悟を持って赦しを求めなければ本当の悔い改めではない

by maranatha | 2016-05-07 00:00 | 赦し

特集 赦しなさい 4


「赦しなさい」は言っても「償いなさい」「弁償しなさい」を言う牧師は少ない。教会内で虐待があった場合、牧師は、被害者に対して、加害者を赦しなさい、と片付けてしまう。加害者が力と富を持っていた場合、牧師が加害者側に立ってしまうため、被害者は自分が悪いのかと思わされる。カルト化した教会の被害者にとって最も傷つく言葉の一つは「赦しなさい」である。言葉は、悪い言葉ではない、ただ悪用されているのである。奴隷が主人の物を盗んで逃亡した。その奴隷は、やがてパウロと出会って救われ、主人の所へ帰されることになった。そのとき、パウロは「赦しなさい」と言っただろうか。「もし、彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」(ピレモン18)パウロは、加害者の赦しを乞うために、被害者に対して代理弁済を申し出ている。このような牧師が現代にいるだろうか。あまりにも軽々しく「赦しなさい」を言ってはいないか。精神的な被害であれ、物質的な被害であれ、被害を与えている場合、弁償を十分考慮すべきである。損害は、損害分で済まない。だから、損害額+αである。謝罪があり、弁償がある。そうしたら赦すか赦さないかは被害者の問題となる。このような経過を踏まれたら、今度は加害者の問題ではなく、被害者の問題となる。問題の公平な判断は、手続きが正しく踏まれているかであって、高飛車な「赦しなさい」で片付くものではない。

by maranatha | 2016-05-07 00:00 | 赦し

特集 赦しなさい 5


「赦しなさい。」と牧師やクリスチャンから言われる。赦せない自分が悪いのか。このような悩みの相談がひんぱんにある。それ程「赦しなさい。」が乱用されている。聖書には「もし、兄弟が罪を犯したら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」(ルカ17:3)と書いてある。赦しなさいと言った人は、罪を犯した人を戒めたのか。悔い改めに導いたのか。このことを赦しなさいと言った人に聞いて見るとよい。今後ただ赦しなさいと言う人とは距離を持った方がよい。その人の偏った信仰理解があなたを傷つけることになる。赦すのは悔い改めた人に対してである。悔い改めない人を赦し、罪を放置する教会は秩序のない教会である。そういう教会に留まり続ければ、傷つき、自分が悪いと思い込まされてしまう。戒めないなら、悪い人がのさばる教会になり、傷つく人が増えていくことになる。自分の教会は説教や牧会の中で「赦しなさい。」が多く語られているか自問自答してみよう。多かったら、問題の多い教会だ。特に権威主義の教会で赦しなさいが乱用されている。健全な教会は、大騒ぎしないで、プロセスを踏み、問題が取り扱われる。「赦しなさい。」が人前で声高に強調されることはない。解決されて、「赦しなさい。」をおおぜいの前で言う必要がないからである。私には乱用されている「赦しなさい。」が力で押さえ込む言葉に聞こえる。聖書の言葉を理解するのに大切なのは文脈である。

by maranatha | 2016-05-07 00:00 | 赦し
宗教問題