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村上 密 Blog

カテゴリ:権威( 40 )

教会のカルト化の一因

カトリックは長年ラテン語聖書を使用してきたため、それを読み理解するのはほぼ聖職者であった。よって、聖書は聖職者によって独占されてきたと言える。プロテスタントは、聖書をそれぞれの国の言葉に翻訳し、民衆が自分の国の言葉で聖書を読めるようにした。しかし、聖職者が解釈を独占してきたことは否めない。それは信徒が解釈の学びを自ら取り組むことが少ないからである。間違った解釈が教会の中に入らないように目を配るのが牧師だけであることは危うい。なぜならば、その牧師が流行の教えに飛びつき、教会に混乱を招くことが1980年代から顕著になってきたからだ。私には「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々と教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代」(2テモテ4:3,4)に思えた。教会のカルト化は、牧師が聖書の解釈を独占し、自分の解釈が一番正しいと信徒に思い込ませ、牧師の権威を異常に高めたことにって引き起こされた現象に思える。一方、知識欲のある信徒が、現在流布されている本に飛びつき、自分の属する教会の牧師の解釈を否定して、各地で混乱が起きている。
by maranatha | 2019-05-16 10:38 | 権威

権威について

カルト化した教会の牧師は、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ13:1)を強調する。この権威はローマ帝国の官憲を指す言葉である。しかし、彼らは「牧師の権威」の聖書的根拠としている。それは恣意的な拡大解釈である。彼らは聖句の「従う」を「服従」に、さらに「絶対服従」に持っていく。

カルト牧師は無条件の服従を要求するが、聖書は人間に無条件の服従を要求していない。神は人間に自由を与えられた。戒められているのは自由の乱用である。さて、ペテロとヨハネがローマ帝国の植民地であり、そのユダヤのサンヒドリン(最高議会)の命令に従っただろうか。「いっさい、イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」(使徒4:18)に対して「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」(使徒4:19)と反論した。ペテロとヨハネはサンヒドリンの権威の上に神を置き、神が立てた権威と神をイコールと見なしていない。彼らはこの世の権威に対して従うを絶対的要求でなく、相対的要求と見ている。

教会が国家の権威を強調し国家に従う時、歴史の中で大きな罪を犯してきた。神の教えと国家の命令が相反する時、私たちは信仰と良心に基づいて「ノー」を選択できる。そもそも、クリスチャンが間違いに陥るのは、神の教えと牧師の教えをイコールにするからである。聖書には偽キリスト、偽使徒、偽預言者、偽教師、偽兄弟と偽者への警告がいたるところにある。自分の教会の牧師は大丈夫と安易に信じことがそもそも間違いである。

問題は、聖書の解釈を牧師が独占していることである。情報を遮断し、牧師の解釈だけが正しいと信じ込まされている。組織神学も解釈学も十分に学んでいない牧師が権威を振り回し、服従を強制する。なぜ権威を強調するのか。それは自分の学びの不足を隠すためである。私の知っているカルト化した教会の牧師の説教はとても聞けたものではない。貧しいのに世界一すばらしいと思い込んでいる教会員が哀れである。

プロテスタントはカトリックの聖職者が独占していた聖書を、自国の言葉に翻訳して信徒が読めるようにしました。今日、信徒に要求されているのは、聖書解釈を牧師に独占させないことです。惑わしが多くなってきました。そこで、自分でも聖書の学びに取り組んではいかかでしょうか。聖書、聖書辞典、注解書、コンコルダンス、解釈書等があれば自分で聖書を学べます。惑わされないためには、牧師依存に陥らず、自立した信仰と学びが大切です。

パウロは「上に立つ権威」を勧めていますが、キリスト者がローマ帝国を敵と見なし、熱狂主義に陥らないためです。ユダヤはローマ帝国にとって治めにくい植民地でした。暴動が絶えず起きました。終末論的二元論(神と悪魔の闘争)はキリスト教にも浸透しやすい過激な教えです。教会がこれを受け入れたらテロリズムに陥ります。パウロはローマの平和の中で福音を広めることができました。ローマは福音宣教を禁じてはいません。イエスの名を伝えてよいのです。そのような状況で、パウロはローマ市民としての権利を行使したりもしました。天国の国籍を持ちつつ、ローマの市民としての義務も果たし、福音宣教に励んだのがパウロです。

カルト牧師は、神も法律も畏れず、教会員に対して、精神的虐待、性的虐待、身体的暴力、経済的搾取を行っています。裁判では「良心に誓って嘘をいいません。」と宣誓しながら、平気で嘘を並べ立て、裁判官を欺き、正義を歪めています。このような牧師の権威にしたがっていたのかと、被害者は胸を裂かれる思いで闘っています。これは他人事ではありません。一世を風靡した牧師、多くの牧師から指示されたムーヴメントの提唱者、信頼された聖書教師、大教会の牧師などの不祥事が明るみになっているではありませんか。そのような牧師と深い関わりのあった牧師たちに反省もなく教会員が従っていたら他人事では済まされなくなります。深い反省もなく新しいムーヴメントに飛びつき、大衆を動員する牧師とクリスチャンに私は危うさを覚えます。興行の責任者や招かれた器を権威ある人と見なす幼稚な考えから脱出しましょう。

最後にカルト化した教会で傷ついたクリスチャンは、ある聖句にとても敏感です。火傷の傷は誰が触っても痛いものです。医者が触っても痛いのです。しかし、治療のためにはあえて痛みを受けなければなりません。ある聖句を避けつづけては傷は癒されません。その聖句の正しい理解こそが癒しにつながります。真理はあなたがたを自由にします。避けていた聖句に取り組んでみてください。ここで取り上げた聖句は、もっとも嫌われている聖句です。権威と言う言葉を聞くとフラッシュバックが起きる人もいるでしょう。権威と言う言葉を聞かずに、一生を終えることはできません。私は逃避ではなく、取り組むことが癒しにつながると信じています。
by maranatha | 2018-03-23 23:37 | 権威

権威

教会のカルト化で、一番問題になるのが権威である。牧師は「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ13:1)を引用して、牧師の権威を強調する。このところで取り上げている権威は、牧師でも教会でもなく、ローマ帝国である。それも、キリスト教会を迫害していない時代のローマ帝国である。「存在している権威はすべて、神によって立てられた」と言っているから、牧師もこの中に含まれると、あくまで主張する牧師もいる。なぜ、権威が強調されるのか、それは服従を要求するためである。そこで問題になるのが、服従が無条件か条件付かということである。カルト化した教会は、牧師に対して絶対服従を求める。そこで、聖書が権威をどのように扱っているかを学ぶことが大切になる。



by maranatha | 2018-03-23 23:28 | 権威

宗教的権威に対して

宗教的権威に対して、ペテロは従わないことがあった。当時、ユダヤはローマの支配下にあった。しかし、宗教的な問題は、サンヒドリン(70人からなる最高議会)が扱った。ユダヤに生きる者にとって、サンヒドリンは宗教的な最高の権威である。その会議で決定したことに、ペテロは異議を唱えた。それは「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」(使徒4:18)という命令に対して、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(4:19、20)と反論した。直接「従いません。」といっているわけではないが、宣教を続行すると宣言しているわけである。神に立てられた権威であるサンヒドリンにペテロは異議申し立てをしている。人や組織の判断は必ずしも正しいわけではない。それゆえ、聖書は、不完全な人や組織に対して無条件に従うことを教えていない。ペテロは、どのように宗教的権威を振りかざそうとも、私たちがどこに立たなければならないかを教えている。
by maranatha | 2018-03-23 23:20 | 権威

政治的権威に対して

黙示録の13章に出てくる「権威」は4回である。いずれも正しい権威ではない。「神によらない権威はなく」(ローマ13:1)とあるなら、この「権威」も神からのものと考えがちだが、この「権威」竜からのものである。黙示録の中で「竜」はサタンである。「神によらない権威はなく」と書いたパウロ嘘をついたわけではない。これはユダヤ的誇張表現である。なぜなら、文字通りではないからである。黙示録が書かれている当時、キリスト教はローマ帝国から迫害を受けていた。このような政治的権威に教会が従っていたら、地上から教会はなくなっている。なぜなら、ローマ政府はローマの支配下にあるすべての市民と奴隷に対して皇帝礼拝を強制していたからである。偶像礼拝を禁ずるキリスト教が皇帝礼拝を受け入れることはできない。このため、多くのクリスチャンが殺された。どんな政治形態でも、政治に絶対正しいことなどない。それゆえ、クリスチャンが無条件に、政治的権威に対して服従をしてはならない。ローマ帝国下でクリスチャンは、皇帝礼拝を除けば、よき市民であり、奴隷であった。政治やローマ法のすべてに不服従を通したのではなく、キリスト教の信仰を否定することに対して不服従に道を選んだ。
by maranatha | 2018-03-23 23:14 | 権威

司法的権威に対して

パウロは『使徒の働き』の13章で、サンヒドリン(ユダヤの最高議会)の裁判にかけられている。その裁判で、パウロが弁明を始めると、この裁判の議長である大祭司がパウロの口を打てと命じた。このときのパウロの反論は、大祭司をののしっていると周囲から見られている。パウロは「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。』と書いてあります。」(23:5)現代人には分かりづらいことばだが、議会に出席している議員にはすぐに分かった。ミドラッシュ(ラビによる聖書注解書)の引用である。このことばには「指導者が民の構成員らしく、民にふるまうときのみ、彼に尊敬を払いなさい。」という続きがある。パウロは、全部を言わなくても全員がわかることばを持って、大祭司を批難しているわけである。この出来事から、司法的権威に対して、恐れ従っているわけではないことが分かる。むしろ、裁判の中で、宗教的教えに忠実であるべきだといっている。パウロは「知らなかった」と言っているが、彼が大祭司であることを服と座席から知っている。「知らなかった」とは、ミドラッシュを守らない人が大祭司とは思わなかったという意味で使ったことばである。
by maranatha | 2018-03-23 23:07 | 権威

司法的権威を持つ者への注意事項

「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町が囲みのうちに、あなたの部族ごと、さばきつかさと、つかさを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきをまげてはならない。人をかたよってみてはならない。わいろをとってはならない。わいろは知恵ある者の目をくらませ、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。」(申命記16:18~20)これは神がイスラエルの裁きを行う人に対する命令である。

イエスのたとえ話に不正な裁判官が出てくる。このようなことは、当時は一般的だった。ピラトは、イエスが正しいと思いつつも、裁判で群集の声に耳を傾け、バラバを解放した。ペリクス総督が裁判を伸ばしたのは、「パウロから金をもらいたい下心があった」(使徒24:26)からである。聖書はこのように裁判官の不正を幾つも取り上げている。裁判を否定しているのではない。不正な裁判官を問題にしているのである。裁判には正義が必要である。これが聖書の教えである。司法的権威を持つ者への注意事項は今日にも当てはまる。

教会には規則がある。しかし、規則に基づかない教会運営をしている牧師が増えている。規則違反を注意する信徒もいない。信徒が規則そのものを知らないで教会生活を過ごしているからである。これでは教会が牧師に乗っ取られ、牧師の思いのままに教会が運営されてしまう。教会の役員会は規則の学びが必要である。

by maranatha | 2018-03-23 23:03 | 権威

政治的権威を持つ者への注意事項

申命記17章には王に関することが書かれてある。要約するならば、王は同胞の仲から立てる。王は馬を増やしてはならない。多くの妻を持ってはならない。金銀を非常に多く増やしてはならない。みおしえを書き写して、一生の間これを読まなければならない。主を恐れ、このみおしえを守り行うこと。同朋の上に高ぶることのなく、右にも左にもそれることのないように。
 
エゼキエルは、指導者に対する神のさばきのことばを書き留めている。「ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたは脂肪を食べ、羊の毛をまとい、肥えた羊をほふるが、羊を飼わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。」(34:2~4)
 
カルト化した教会と権威主義の教会の牧師は、教会員の上に王のように振舞っている。王の注意事項を守っているか。守らなければ、彼らの権威に従う必要はない。従えば、共に神に従わない道を歩むことになる。申命記18章には、預言者に関することが書いてある。主の教えを守らない民や王に対する牽制の役割を預言者は負っている。律法と預言者の教え、それは政治的権威を持つ者が重んじなければならないものである。民の治める者の敵は外国ではなく高ぶりである。教えを守るなら王国も続く。

へブル語聖書は三部から成り立っている。律法、預言者、諸書である。預言書の中には前預言者と後預言者がある。前預言者にはヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記がある。これは民族の歴史である。どのような経緯で王国ができ、王国が滅びたか。それが預言者の中に収められている。預言者こそ、王の高ぶりを諌める神の声である。偶像礼拝に傾斜する王と民の心を神に立ち返させる神の声である。政治的権威を持つ者は聖書を深く学び、その教えに留まり、謙虚に神と教会に使えなければならない。支配するためではなく、仕えるために、教会に派遣されている。支配は、高ぶりで、罪であり、滅びである。

by maranatha | 2018-03-23 22:58 | 権威

権威について 21

「イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。」(マタイ10:1)ルカは9章1節で同じように権威について書き、10章では、70人の弟子にも同様の権威が与えられれている。このような宣教に伴う権威は個人に与えられたと考えるより、教会に与えられたと考えるべきである。なぜなら、エペソ人への手紙に「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次の来る世においてもとなえられる、すべての上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(1:21~23)教会は与えられた権威に目覚める時、力を発揮する。
 
カルト化した教会においては、霊の戦いが盛んで、悪霊の追い出しを日常的にしている。このような教会に、なぜ、情緒不安定やこころの病に罹るクリスチャンが多いか。悪霊に対する不安が高じているからである。神の主権とキリストがお与えになった権威を見失っているからである。このような教会には、権威による真の解放はなく混乱が引き起こされている。どんな問題も悪霊を原因にするからである。特に、精神的な病を治すために、悪霊追い出しをするため、病状が悪化している。権威に目覚めたのであれば、このような混乱はない。カルト化した教会にはキリストによる平和が教会になく、満たすところではなく、奪うところになっている。金銭の搾取、性的搾取、自由の搾取、権利の搾取、あらゆる搾取が行われ、恐れが支配している。これはキリストの教会ではなく、キリスト教を装った集団である。
 
『使徒の働き』における教会形成は、与えられた権威を用いて前進する教会を記録している。私たちの教会形成のモデルは、この世の企業や軍隊、他の宗教ではない。聖書から逸れて教会形成はできない。新約聖書の中にある手紙は異端への警告と誤りを正そうとする教えで満ちている。教会の歴史は、絶えず誤りと戦ってきた歴史である。聖書がなかったら教会は歴史の中で消えていた。聖書は教会のいのちであり、権威のよりどころである。教会に与えられた権威は、聖書の教えと教えに基づく実践の中にある。

by maranatha | 2018-03-23 22:50 | 権威

権威について 20

福音主義に立つペンテコステの牧師は、エンパワード21全日本大会を後の雨運動の系譜に連なる運動と見ている。米国アッセンブリーは、総会において、後の雨運動が異端であるとの見解を出している。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団はアメリカAGの教理に準拠している。最近、その見解を知らないのか、後の雨運動の流れに乗る牧師たちがいる。理事会はそれを正そうとはしない。むしろ、後の雨運動の団体と「友好的」である。後の雨運動はカリスマ運動と関係が深い。アッセンブリーはペンテコステ派であり、カリスマ運動とは異なっている。しかし、日本AGの大会や研修会、教区の集会等に招かれる講師たちの中に、後の雨運動の牧師がいる。更に、使徒・預言者運動等の浸透によって、影響を受ける牧師や教会も出てきた。アッセンブリーがJEAに加盟したとき、アッセンブリーが福音主義であることで認知された。以前からもそうであったのであるが、そうではないのでは、との嫌疑から、スタートの時点で加盟はできなかった。そのような経緯であるから、今になってカリスマ路線に傾斜していくのは信義誠実の原則に反する。問題は啓示である。現代の「預言」より、聖書啓示を重んじると言っていながら「預言」を重んじる教団や教会、あるいは牧師と親密な交流をするならば、第三者はどのように判断するだろうか。聖書啓示を重んじるなら、疑わしき交流は避けるべきである。JEAは、最近のムーブメントに対して、見解を表明すべきである。なぜなら、加盟団体の中に、後の雨運動の影響を受けている教会があるからである。それは、その教団内の問題と言えばそれまでであるが、JEAの見解を参考にしたいはずである。JEAがこのような見解を取っている、と言うのは助けになる。本来は自分たちで取り組まなければならない問題である。団体交流が盛んになるとこのような問題が起きてくる。線引きも難しくなる。現代の自称使徒・預言者、彼らを抱える団体に惑わされてはならない。



by maranatha | 2018-03-23 22:25 | 権威
宗教問題