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村上 密 Blog

カテゴリ:権威( 40 )

権威について 9

カルト化した教会の牧師は、誤った権威を保つためにローマ人への手紙13章をしきりに強調する。国家権力への服従を促す聖句が、カルト化した教会の指導者への服従と等しくなったのか。聖書はむしろ牧者に対して「割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(1ペテロ5:3)と勧めている。又、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(マルコ10:43,44)と書いてある。キリストは「僕」として模範を示された。牧師もクリスチャンもその模範に習うべきである。
by maranatha | 2018-03-23 21:45 | 権威

権威について 8

教会の「カルト化」による被害者をカウンセリングで扱う時、よく質問される聖書箇所がある。ローマ人への手紙13章である。「人はみな。上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によってたてられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」(1,2節)この箇所は、しばしば国家権力への国民の服従を義務づけるために引用されるところでもある。

クリスチャンは、腐敗して権力を乱用する国家体制や、キリストの教えをゆがめている教会に、ただ服従して良いだろうか。イスラエルの預言者たちは、イスラエルの王や指導者たちに、ただ服従しただろうか。彼らは、罪を指摘し、批判をした。ルターやカルヴィンは、当時のカトリックの教皇に服従しただろか。彼らも又、預言者のように罪を指摘し、聖書解釈の誤りを正し、体制への批判をした。聖書は、無条件に「権威」への服従を強制していない。権力はやがて腐敗し、権威も落ちる。キリスト教が今日まで続いた理由の一つは、自浄作用である。国家はそうはいかなかった。勃興しては消滅して行った。


by maranatha | 2018-03-23 21:42 | 権威

権威について 7

パウロやペテロが権威に対して抵抗したことをブログで書いた。それを読んだ友人が、イエスがピラトに対して抵抗した聖句を示してくれた。まさに、ここが権威への抵抗の原点である。「ピラトはイエスに言った。『あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また、十字架につける権威があることを、知らないのですか。』イエスは答えられた。『もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きな罪があるものです。』」(ヨハネ19:10、11)イエスは、ピラトの権威を否定し、最高議会を否定している。その根拠と結論は「上から与えられているのでなかったら…何の権威もありません。」権威主義の牧師は「私は神に立てられた牧師である」と主張する。これは自分で言っているのであって、神が立てた牧師であるならば、謙虚である。イエスは仕えるように弟子たちに教えられた。



by maranatha | 2018-03-23 21:40 | 権威

権威について 6

パウロは「人はみな。上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ13:1)ペテロも「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」(Ⅰペテロ2:13)と言っている。しかし、パウロは大祭司を批判している(使徒23:3)ペテロも「いっさい、イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた」民の指導者たちに対して、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:19、20)と反論している。権威に従えと教えている一方で権威に抵抗、反抗しているわけである。二人が権威に逆らったのは、神の意志に反すると判断したからである。彼らの毅然とした戦いを私たちは見習わなければならない。現代の教会において、牧師の権威の乱用が、しばしば問題化している。権威主義の牧師は服従を要求するが、要求の中に、神からの意志と思えない要求があった場合は、教会員は議論してよい。明らかに聖書に反する要求であったら、教会員は抵抗してよい。人はいかなる強制からも自由であるべきで、信仰と良心に従うべきである。神と自分との関係において決断を下す人と、政治的抑圧、経済的抑圧、社会的抑圧等の関係で決断を下す人がいる。縦の関係はぶれがないが、横の関係は常にぶれる。権威主義の教会で、教会員が問題を口に出せないのは、牧師に逆らう人=神に逆らう人という固定観念を打破できないからである。どれだけの牧師が神を説きながら、道から逸れてきたか。信仰と生活の物差しは、権威を振りかざす牧師ではなく聖書である。その聖書を、自分の都合の良いように並べ立てて説くのは、恣意的解釈である。聖書、聖書と強調しても聖書から大きく逸れている教会もある。クリスチャンは信仰から信仰に至るために、絶えざる聖書の学びと信仰の実践が必要である。自立した信仰こそ、どの時代でも、どのような環境であっても、喜びと確信をもって歩いて行ける鍵である。
by maranatha | 2018-03-23 21:33 | 権威

権威について 5

カール・F・ヴィスロフは、『マルティン・ルターの神学』の第5章の「最終権威としての聖書」の冒頭で、ルターの次の言葉を引用している。「すべての霊は、教会の面前において、聖書を基準として、吟味されなければならない。なぜなら、聖書が太陽よりも明るい霊的な光であって、特に救いや、(クリスチャンにとっての)生活の基準を知るための光であるということは、クリスチャンにとっては、何よりもまず必要とされ、無条件の真理として保持されなければならないからである。」このルターの言葉に異論はない。しかし、私はルター派ではない。ルターやカルヴァンは、宗教改革を進めていく上で、ローマ・カトリック教会の権威に対して、聖書の権威を重んじた。両者はこのことでは同じ立場であるが、ルター派はルターの聖書解釈を重んじ、カルヴァン派はカルヴァンの聖書解釈を重んじている。聖書の権威が、実は誰がどのように解釈するかに重点が置かれているわけである。

なぜ、カルト化する教会は、プロテスタントが多いのか。聖書の権威より牧師の解釈に重点が置かれているからである。神学や解釈学を十分に学んでいない牧師が、自分の教えが最も優れていると主張するのは滑稽であるが、それを信じる教会員がいる。牧師は、「預言が与えられた。幻を見た。」と語って、学びの不足を啓示形式で補っている。牧師の権威化は、啓示を受けるほど霊的に高い人と思わせることで成立する。カルト化教会は牧師が反知性の立場を取っているので、教会員の読書量は少ない。また非常に偏っている。教会員は派手なパフォーマンスに引きつけられる傾向にある。見分けるための十分な聖書知識がないうちに、従順が徹底されているため、批判精神が育たない。マインドコントロールは、情報のコントロールが使われている。情報のコントロールは牧師を権威化、神格化することで可能となる。牧師は「神の代理人」。この特徴的な言葉に気をつけることだ。権威化の顕著な言葉だからだ。使徒・預言者運動は権威化を進めている。彼らはクリスチャンが解釈より啓示を上に置くことを利用している。現代の惑わしは、油注がれた牧師による霊的解釈が権威あると信じ込ませ、自ら使徒・預言者を自称している。



by maranatha | 2018-03-23 21:32 | 権威

権威について 4


権威への服従は、信仰の自由が許されている状況下であり、権威への不服従は、信仰の自由が禁じられる時である。クリスチャンは権威に盲従してはならない。第二次世界大戦下でキリスト教は国家権力に服従した。それは正しかったのか。良心的拒否をして迫害されたキリスト者がいたことを覚えておくべきだ。

権威主義の牧師は、なぜ、権威を振りかざすのか。それは、権威をどこかで失ったからである。権威を持っていたら、誰もが認めるので、振りかざす必要はない。それでは、どこで権威を失ったのか。神の前に罪を犯し、世俗主義と妥協したときからである。悔い改めることをしないで、神の言葉に仕えることはできない。それでも神の言葉に仕えなければならないとき、失った権威を持っているように装う。空虚感を埋めるため、一層権威を振りかざすようになる。そして、神の言葉を自分の都合の良いように語り始める。牧師に権威が付与されるのは、職務に忠実な生活を過しているときである。すなわち、聖書に従って、正しい福音を語り、聖い生活を過し、神から与えられた牧会に謙虚に仕えているときである。不忠実な者が権威を振りかざすから、被害が拡大する。福音に背いて、牧師に権威が与えられるはずがない。権威は牧師に無条件に与えられているのではない。講壇で、「私は油注がれている。」「私には権威が与えられている。」このように声高に語る牧師がいたら、権威を失っていると思って間違いはない。


by maranatha | 2018-03-23 21:29 | 権威

権威について 3

ペテロとヨハネは、「美しの門」で施しを求めている男を癒した。ところが後で議会は「イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。」(使徒4:18)ペテロとヨハネは「上に立つ権威」に従っただろうか。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」(4:19)これは、当時の最高権威の宣教禁止命令への不服従である。




by maranatha | 2018-03-23 21:26 | 権威

権威について 2

キリスト教の権威主義者は「上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1)を悪用する。この聖句は、ローマ帝国がキリスト教に対してまだ寛容であった時の勧めの言葉である。ユダヤ総督フェストによれば「彼(パウロ)は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しました」(使徒25:25)と言っている。それなのに、なぜパウロがネロ帝下で殉教したか。それはローマに従わなかったからである。ネロ帝の時代、キリスト教徒は迫害された。皇帝を神として礼拝しなかったからである。ヨハネはローマの迫害下で「ヨハネの黙示録」を著した。「竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。・・・全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、」(13:2~4)とは、皇帝礼拝を強要したネロを現す。「ほふられた子羊のいのちの書に、世の初めからその名を書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。・・・その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」(13:8、15)ローマもネロも文字で表現できない迫害下で、「上に立つ権威」に従わないクリスチャンが殺されているのを描いている。これは偶像礼拝を強制する権威への不服従である。



by maranatha | 2018-03-23 21:19 | 権威

権威について 1

権威について、何と多くの記事を書いて来たことだろう。カルト化する教会の問題を扱い始めてから、謝った権威が被害者を出していると警鐘を鳴らしてきた。これからも鳴らし続ける。啓発のために権威について学び易いように今までの記事を訂正加筆した。そして、誤った教えから解放される人が起こされることを願って、特集とした。


権威に関する固定観念は厄介である。人は、権威に関する教えの間違いに気づいてもで、それを訂正しようとはしない。私は長い間、そのような宗教観念に取りつかれた人々をカウンセリングしてきた。どうしたら人は変わるのだろうか。その人が変わらざるを得ないほどの情報を提供し続けることである。私はブログで、何度も権威について取り上げてきた。しかし、変わらない人は、自分の判断がなお正しいと思っている。彼らは、私の方が間違った観念を持っていると思っている。指導的な立場であれば、なおさら軌道修正は困難である。非を認めることが立場を失うことにつながることがあるからである。勢い、同じ仲間と組んで、自分を脅かす人の信用を無くすような発言を繰り返すことになる。愚かな行為である。また、だれかが間違いに気付いたとき、指導者を正そうとしても反論され、関係が悪化することがある。まずは、間違っていたことを明確に理解するため、学びに取り組むのが最善である。



by maranatha | 2018-03-23 10:10 | 権威

権威

 キリスト教の権威主義者は「上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1)を悪用する。この聖句は、ローマ帝国がキリスト教に対してまだ寛容であった時の勧めの言葉である。ユダヤ総督フェストによれば「彼(パウロ)は死に当たることは何一つしていないと思います。しかし、彼自身が皇帝に上訴しました」(使徒25:25)と言っている。それなのになぜパウロがネロ帝下で殉教したか。それはローマに従わなかったからである。ネロ帝の時代、キリスト教徒は迫害された。皇帝を神として礼拝しなかったからである。ヨハネはローマの迫害下で「ヨハネの黙示録」を著した。「竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。・・・全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、」(13:2~4)とは、皇帝礼拝を強要したネロを現す。「ほふられた子羊のいのちの書に、世の初めからその名を書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。・・・その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」(13:8、15)ローマもネロも文字で表現できない迫害下で、「上に立つ権威」に従わないクリスチャンが殺されているのを描いている。これは偶像礼拝を強制する権威への不服従である。

 ペテロとヨハネは、「美しの門」で施しを求めている男を癒した。ところが後で議会は「イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。」(使徒4:18)ペテロとヨハネは「上に立つ権威」に従っただろうか。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」(4:19)これは、当時の最高権威の宣教禁止命令への不服従である。

 権威への服従は、信仰の自由が許されている状況下であり、権威への不服従は、信仰の自由が禁じられる時である。クリスチャンは権威に盲従してはならない。第二次世界大戦下でキリスト教は国家権力に服従した。それは正しかったのか。良心的拒否をして迫害されたキリスト者がいたことを覚えておくべきだ。

by maranatha | 2014-02-21 10:47 | 権威
宗教問題