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村上 密 Blog

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マジシャンと詐欺師

北のマジシャン

 北には悪質なマジシャンがいます。その悪質の由に、手品師と訳すより魔術師と訳す方がふさわしいかもしれません。マジックは得意ですが、金銭欲、名誉欲、性欲、事業欲に打ち勝つことができずにいます。騙されたと分かった人々は、マジシャンから去って行きました。その人の裏の生活を知ったら、種がバレたマジックのように興味が失せるからです。宗教法人は「手品」で手に入れたかもしれませんが、運営する能力はありません。そのでたらめぶりはマジックナンバーワンです。このマジシャンは自分の身分をマジックで次々に変えます。あるときは塾の経営者、あるときはレンタル業、あるときは牧師。しかし、最後の牧師は経歴詐称ではないかと思い確かめてみました。その神学大学は名前を使われることに困惑しています。



南の詐欺師

 南には詐欺師がいます。米販売や株取引、養豚業への出資話で人を釣り、被害者は約1200人、被害額は約数10憶円です。この詐欺師はクリスチャンです。この詐欺師から便宜を受けている牧師が詐欺師を信頼できる人と誉めたから大変です。たくさんのクリスチャンが騙されました。結論からの見方は、多くの人をだますために影響力のある人物に利益供与をして、自分の信用を裏付けさせたと言えます。欲に目が眩んだ牧師にも責任があります。この詐欺師は神を畏れないクリスチャンです。クリスチャンという信用を利用して人を騙したのですから。悔い改めて、洗い浚い真実を告白することです。謝罪では済みません。償いは一生かかっても払いきれないでしょう。



マジシャンと詐欺師の共通点

 北のマジシャンと南の詐欺師の共通点は金銭欲、事業欲です。聖書にこう書いてあります。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:9、10)「私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝道者の書2:11)聖書がなぜ欲望に対して厳しいか、それは偶像だからです。金や木、石で造られたものだけが偶像ではありません。イエスは「腹(欲望)」が偶像だと教えられました。私は食欲、睡眠欲、性欲を偶像とは言っていないので注意してください。これは正しく用いられれば有益です。ただし正しく用いられなければ体を害し、罪となります。



追伸:北のマジシャンの違法性の高い情報を提供してください。私の手元にはかなり集まっています。又、南の詐欺師でお困りの方は相談下さい。ご協力します。被害者の会が形成されています。頑張ってください。沖縄タイムス2008年4月27日(日)朝刊23面に記事が掲載されています。
by maranatha | 2008-06-29 20:41

いくら立派な規則があっても

規則があるか

 教会はイエス・キリストを救い主と信じる集まりです。クリスチャンは聖書の教えを生活の規範として生きています。信仰生活はそれでよいのですが、集団の運営は法律に基づく必要があります。私たちの国には憲法があり、深く関わるところの宗教法人法と関連法規があります。そして、最も身近な教会規則があります。



規則を知っているか

 多くのクリスチャンは自分の属する教会の規則を見たことがないと思います。見たことはなくても、正しく教会が運営されていれば問題はおきません。問題が起きるのは、規則を無視して、牧師が勝手な運営をする場合です。このような教会に堪え兼ねたクリスチャンからの相談がよくあります。教会規則を見せて下さいと申し出るように勧めています。その人も大切な教会の運営の一員なのですから。



規則は大切

 聖書は知っているが、規則は知らないではすまされないことがあります。カルト化した教会のほとんどはクリスチャンたちが規則を知らないという現状です。いや、規則は無いという教会もあります。収支報告がなくてもおかしいと思わない人々によって運営されています。聖と俗を区別して、俗を否定するあまり。規則がないことが聖なる教会だと思い込んでいます。規則に基づく運営が大切です。不法がはびこると愛が冷たくなります。教会の牧師や役員に是非とも読んでほしいのは、櫻井圀郎氏による『教会と宗教法人の法律』(キリスト教新聞社)です。「第11章宗教法人の社会責任」はカルト化予防の役にもなります。信仰の虐待を受けた人にも勧めます。あなたの尊厳を取り戻す道がこの本には満ちています。
by maranatha | 2008-06-29 20:37

預言者

預言者の務め

 イスラエルの歴史の中で、預言者は王制前は民を指導する人でした。その代表的人物はモーセであり、サムエルです。王制後は、民の指導者である王の悪政に対して神の言葉を伝えて裁く役割を果たしました。王制は本来神が望まれた制度ではありません。(Ⅰサムエル11,12章)。その王制のチェック機能としての役割を預言者は果たし、その役割の由に、王から迫害を受け殺されました。又、民の罪も指摘しましたので、民からの迫害も受けました。預言者の歴史は殉教の歴史です。



偽預言者

 カルト化した教会では牧師は王のように振舞っています。現代の預言者は、王のような牧師に招かれ、集会の中で牧師を持ち上げ、この方に従うように、そうすれば祝福に与ることができます。牧師に従わなければ、モーセに逆らった民のように神に裁かれると脅し、報酬を得て満足しています。カルト化を見ぬくことができず、その王制を支持する預言をしています。そして、被害の拡大に手をかしています。又、個人預言をして、信徒の関心を引き、訓練を受ければ、預言できるようになると言っています。そのような方法で預言者が誕生するなら、それは偽預言者です。



聖書啓示と直接啓示

 以前は、「導きを感じる」といった表現で、信仰生活の中で大切な判断を下す人々がいました。ところが、個人預言のブームで預言してくれる人が集会に来ると、我も我もとその人の前に並び、個人的に預言を受けるということが起きています。「導きを感じる」からもっと断定調の個人預言に人々の興味が移っています。人々がおのおの直接啓示を受けてそれを主張したら収拾がつかなくなります。自分を絶対善の立場に置くからです。私たちが信じるべきこと、どのように生活すべきかは聖書の中に書いてあります。キリスト教は聖書啓示を重んじてきたのに、ともすれば、直接啓示を重んじるような生き方をするクリスチャンをどのように考えたらよいのでしょう。預言を吟味するように書いてあるにもかかわらず、その吟味が我田引水に陥っています。キリスト教史の2000年の間に、聖書以外で預言書のようなものは作られませんでした。それは預言があっても聖書啓示を重んじてきたからです。しかし、個人預言に傾倒している人の信仰生活は直接啓示を重んじています。これはキリスト教の危機です。



預言者の責任

 個人預言する人、又、それに興味を持つ人は、その預言が成就しなくても何の責任もとりません。彼らはある意味ではその場限りの霊的高揚で満足しています。旧約時代の預言者であれば、成就しなければ偽預言者扱いされます。そして、新約時代でも、偽預言者に気をつけなさいと警告しています。私は多くの現代の預言者の声を間接的にメディアを通して聞きましたが彼らが成就しなかった預言に責任を感じているか疑問です。だれも成就しなかったことに対して責任を取っていません。そして、個人預言者の影響力は、社会や国家、又は世の指導者の耳に全くとどかないレベルの状態です。興味をもった集団に対しての力では思いやられます。国をも動かす預言者は日本に存在しません。日本における預言者の影響力はその低度のもので、神の言葉を預かる預言者の責任を果たしているとは言えません。
by maranatha | 2008-06-26 19:23

裁いてはいけないか

裁いてはいけないか

 カルト化した教会では、牧師を裁いてはいけないと教えます。なぜなら、牧師は主に油注がれた方だからです。その聖書的根拠として次の箇所が引用されます。
「ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対してそのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対できないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』」(Ⅰサムエル24:5、6)



裁いてよい

 神は、主に油そそがれた方であっても人を通して裁かれます。たとえば、サムエルはサウルの罪を指摘し、裁いています。(Ⅰサムエル15:17~24)。又、預言者ナタンはダビデの罪を指摘し、裁いています。(Ⅱサムエル12:1~15)。サウルもダビデも主に油そそがれた方です。しかし、悔い改めなければ、神はまことの神を信じていない人々を用いて裁かれます。サウルはペリシテ軍のはなった矢に当たり、重症となり、自決します。その死体はペリシテの手によってベデ・シャンの城壁にさらされました。彼は最も願わない最後を迎えました。



なぜ心を痛めたか

 「ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。」なぜ心を痛めたのでしょうか。それは上着のすそを切り取ったからです。上着のすそを切り取ることにどんな意味があるのでしょうか!上着のすその由来は民数記(15:37~4)に書いてあります。「すそ」と「ふさ」は同じ言葉です。それは身に付けて律法を思い起こし、聖く生活するようにと勧められているものです。ふさは神の権威をあらわします。ダビデが心を痛めたのはサウルが身に付けている神の権威を切り取り、奪ったからです。モーセの十戒には「盗んではならない」と書いてあります。それは、ダビデがサウルを殺さずとも、王位を奪うような象徴的な意味があります。ダビデは部下の進言を受け入れませんでした。「手を下す」とは殺すことです。モーセの十戒に「殺してはならない。」と書いてあります。ダビデはサウルを殺して王位を奪うことはしませんでした。しかし、「すそ(ふさ)」を盗んで、王位を奪う象徴的行為を悔いたのです。



イエスとふさ

 「12年間長血をわずらっている女が、イエスの、うしろに来て、その着物のふさをさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と心のうちで考えていたからである。」(マタイ9:20,21)このイエスの着物のふさもサウルの上着のすそも同じものです。女は最も権威を象徴している「ふさ」に手を触れていやされました。なぜこのような行動を取ったのでしょうか。マラキ書に「わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。」(4:2)と書いてあります。義の太陽はメシアの称号です。彼女はイエスをメシアと信じました。その翼は「ふさ」とも訳すことのできる言葉です。ですから、イエスの着物のふさに触れれば癒されると考え、信じて行動を起こしました。正しい理解と信仰が大切です。



不正を正せ

 牧師が罪を犯したら、教会はきっちりと裁かなければなりません。それができなければ、裁判で裁かれます。そして、マスコミにその罪が書かれて、人前に晒されるのです。大切なのは教会が自浄力があるかです。それがなければ、地の塩とも世の光ともなることができず、恥を晒すことになります。罪を犯した牧師は神の権威の下に生活することを放棄しています。聖く正しい生活から離れています。かつては油そそがれた方かもしれませんが、もはや、神から見放された存在です。そうとも知らず従って行けば、彼の恥は我が恥となります。キリスト教界もモラル・ハザード(倫理の欠如)状態で、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:12)が現実のものとなっています。牧師の不法を野放しにすれば、教会は愛が冷たくなります。不法を正す人を神は求めておられます。
by maranatha | 2008-06-24 19:00

脳・異常体験・カルト

 Aさんの娘さんがカルトに入信し、家出をしました。ある日、息子さんと仕事に出かけました。Aさんは仕事場で娘さんを見かけました。そして走り去る娘さんの名前を叫びながら走り出しました。息子さんはAさんの突然の行動に驚き、お父さんを追いかけました。

 走っている人は何人でしょうか。ある人は三人と答えました。ある人は二人と答えました。正解は二人です。Aさんの目に映っている娘さんはAさんの前を走っていません。しかし、Aさんには見えます。そして、息子さんには見えません。人間の脳は網膜に映っていなにのに見えているように像を作り出します。夢もそうです。

 Bさんは高齢で、心の病いにかかっています。かつて民間信仰を熱心にしていました。Bさんは自分の家には変な動物がいて、タンスの中から飛び出したり壁をはい上がったり、納戸から飛び出したりすると聞かせてくれました。実際は何も住んでいません。しかし、Bさんには見えます。私には見えない動物を見ています。それも、実在しない架空の動物です。この動物はBさんの脳が作り出した像です。

 カルトの中では異常体験がしばしばあります。それは睡眠不足や不規則な生活、極度の疲労等によって異常脳波が生じるからです。そこで、光、浮遊感、幻覚等を宗教的にのみ解釈するのは危険です。オウム真理教は、薬物によって幻覚を生じさせ、入信に誘い込みました。異常体験がよく語られる集団では、その語られる異常体験がしばしば起きます。これは集団心理現象です。周囲で語られる情報が均一であるため、聞く人の中にイメージ化が進みます。UFO愛好家たちによく見られる現象です。

 異常体験が身体的、心理的、宗教的、薬物等によるものか見分けなければなりません。人は自分が体験したものを絶対化する傾向にあります。「だって私は見たんです、聞いたんです。」カルトに入信した人は主観主義によく陥っています。私がカウンセリングする時は別の宗教集団で起きている事例を話して客観的な見方を育むようにします。感情を害しない程度に語りかけます。
by maranatha | 2008-06-06 11:19

罪と罰

 私はここでドストエフスキーの長編小説について述べようと思っているわけではない。カルト化した教会の中で起きていることを伝えたい。罪を犯した者は罰を免れることはできない。しかし、カルト化した教会では、指導者が加害者に謝らせ、被害者には「謝っているのだから、赦しなさい」で解決しようとしている。これは根本的な解決ではない。

 なぜ、加害者は犯した罪を悔い改め、謝罪しないのか。一つはプライドが許さない。二つは謝罪に伴う償いを回避したい心理が働いているからである。損害の弁償が一度で済めばよいが長くなると思うと苦痛である。

 なぜ、被害者が加害者を赦せないか。一つは加害者が謝罪しないからである。二つは償いをしないからである。加害者からの謝罪と償いが心からのものであると思えるとき、被害者は加害者を赦すことができる。

 「罪と罰」は「謝罪と償い」によって清算できる。キリストの十字架は私たちの罪を赦し、来るべき審判から救ってくれるが、私たちが人に対して与えた罪と損害を帳消しにしてくれるものではない。謝罪と償いには苦痛が伴うがそれは希望の苦しみである。人から本当に赦されるからである。
by maranatha | 2008-06-03 07:23
宗教問題