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村上 密 Blog

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インフォームド・コンセント

 教会員が教会に土地を寄附すると、教会員には後日みなし譲渡所得税が課せられます。簡単に言えば、教会に土地を献げると、国に税金を払わなければなりません。このようなことがないように、租税特別措置法第40条に適合する規則が教会に必要です。役員会もない、総会もない、収支報告もない教会は、いつまでも宗教法人を取得できません。もちろん、大型法人規則は不可能です。
 
 大型法人を取得していない教会は、教会員が「土地を寄附します」と申し出た時、みなし譲渡所得税のことを伝える必要があります。税負担を本人が了解したら、教会は感謝して、正式な手続きを経て教会の土地にすることができます。これは教会におけるインフォームド・コンセント(納得した上での同意)です。

 沖縄リバイバル教会の裁判で原告が敗訴した時、私は租税特別措置法第40条を思い出しました。Y姉への司法の冷酷な判断と今後の税負担を思うと心が痛みます。教会は教会員への魂の配慮だけでなく、税や法的な配慮も必要な時代を迎えています。沖縄リバイバル教会が贈与税を支払うことになったら、儀間氏は自分のサイフからではなく、「教会」の会計から支払うはずです。しかし、Y姉は、みなし譲渡所得税を自分のサイフから支払わなければなりません。もし、儀間氏がインフォームド・コンセントを行っていたら、この裁判はなかったことでしょう。牧師に必要なのは、信仰と常識です。
by maranatha | 2009-05-21 05:59

内輪の論理

 キリスト教の諸団体の理事会が、問題を解決する機関を設けることは、団体の自浄作用として重要です。しかし、しばしば客観性と平等性、透明性が確保できず問題が生じます。内輪の論理が働き、隠蔽する傾向にあります。それは、様々な宗教団体で不祥事が相次ぎ、社会的批判を浴びることで証明されています。

 このような内輪の論理防ぐために裁判に訴えることは重要です。必ずしも裁判が社会的正義を実現しなくても、宗教という密室の出来事を公の場に出すことは問題の予防に役立つからです。沖縄リバイバル教会の裁判は、原告側の敗訴となりましたが、沖縄の牧師会という内輪の論理を防ぎ、教会の問題性を多くの人々に知らせることができました。民主的ではないことが明らかになった教会を、これからも応援したり、すばらしいと賞讃する牧師や団体がいたら、見識が疑われます。信徒500名を超えても責任役員会も総会もない、創立以来収支報告もない、牧師中心の教会のどこがすばらしいのでしょうか。もし、このような教会を教会成長のモデルとして教会形成に取り組む教会が現れたら、その教会の将来が危ぶまれます。
by maranatha | 2009-05-20 09:29

判決

 2009年5月13日、沖縄リバイバル教会を相手取った裁判は原告側の敗訴となりました。今後、原告が控訴しなければ判決が確定します。その場合Y姉の土地の権利は教会に移ります。教会は宗教法人を持っていないので、多額の贈与税を支払うことになります。もし、税務署が沖縄リバイバル教会を見倣し法人として扱うならば、贈与税は免除されます。その時は、見倣し法人扱いの教会は公共性が高いと見倣されているのですから、閲覧請求訴訟を起こすことが得策です。封印された長年の収支と財産目録等の内状が露顕すれば、愛想が尽きる人も起きるでしょう。又、1億200万円の詐欺に教会が遭った時期に形成された牧師の多額の財産は、本来教会に弁償することが常識です。なぜなら、役員会も総会もない「教会」の中で、牧師が独断で、契約を進めたからです。一般ではこの時点で責任者は首です。そして、弁償しなければなりません。

 私が沖縄リバイバル教会の件で申し上げたいのは、教会にとって裁判に勝っても負けても有利にならないということです。「教会」という密室の出来事が様々に露顕し、日本中に広がりました。密室の出来事を公にされていく戦いを強いられたら、公にしたくない人にとっては圧倒的に不利です。裁判に勝って喜んでいる人は今を見ている人です。裁判に負けても揺るがない人は明日を見ている人です。1年間の献金が優に1億円を超える「教会」が「個人商店」だったと判明しました。収支報告がなくても、自分たちの教会はすばらしい教会だと信じる教会員によって形成される「教会」がどんな団体か見る人が見たら一目瞭然です。裁判に勝ったことは「教会」にとってとても残念なことです。間違っている教会運営に気付く機会が失われたからです。勝った勢いで高慢が助長され、もはや暴走を止める人がいなくなるからです。

 沖縄リバイバル教会には、多くの支援者から祝辞が寄せられている思います。特に「カルト化」が進んでいるところからは、手放しの祝辞でしょう。私は原告の支援者のひとりとして、祝辞ではなく忠告のことばを述べたいと思います。見る目を持たない人は聞く耳も持たないでしょうがふさわしい聖句です。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録4:17、18)

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示録4:22)は、一つの教会だけではなく、多くの教会に向けられたことばです。現代の教会への預言としても受け取れるこの聖句を、私も現代に生きる教会に属する者としてしっかり受け止めたいと思います。
by maranatha | 2009-05-19 22:45

偽使徒

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」(エペソ4:11)これらの職務がどんなにすばらしい人物によって、又、どんなにすばらしい場所で任命されようとも、キリストご自身がお立てになったのでなければ全て偽物です。最近使徒に選ばれた人物が問題を起こしました。その人を使徒に任命した「使徒たち」がいました。問題を持った人物を見抜くことができずに大切な職務に任命すると、監督や任命権者は責任が問われます。最近任命された閣僚がよく問題を起こして首相の責任が問われています。

キリスト「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:8-11)この聖句からわかるように、牧師に求められているのは、世俗的なリーダーシップではなく、「仕える」ことです。

ペテロは「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(5:2-3)と教えています。強制的な人物、利得を追求する人物、独裁的な人物、それは、ペテロが教えている牧者像ではありません。

サウロはガマリエルの門下で将来ラビ(わが大いなる者)になることを目指していましたが、復活のキリストに出合い、やがて「パウロ」(小さい)になりました。パウロは「わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられた」(エペソ3:7-8)と言っています。この務め「福音の僕」は自己推薦やだれかの推薦ではなく、ましてや、何かの功績でもなく、ただ恵みです。ただ神から一方的に与えられる愛顧です。偽者は尊大で、独裁的で、横柄で、高ぶり、空虚な誇りをもち、うわべを飾る人です。


現代の「使徒」と自称する人は、しばしば牧師たちの上に位置するかのような言動です。「牧師」から「預言者」となり、「預言者」から「使徒」と自称が変化して行きます。「神から油そそがれて」「神の啓示を受け」と彼らが主張してもすぐに信じてはいけません。彼らの結ぶ実(強制、利得、独裁)を見て判断してください。本当に偽使徒が増えてきたからです。
by maranatha | 2009-05-12 22:57
宗教問題