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村上 密 Blog

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サタンよ出て行け??

 カルト化した教会ではサタンの追い出しが盛んです。クリスチャンでない人から追い出すのではなく、クリスチャンの中から追い出します。クリスチャンは聖書によると「神の神殿」「聖霊の宮」「キリストの体」です。このように譬えられているクリスチャンの中にサタンが同居できるでしょうか。同じ家のなかに、神とサタンが同居できるでしょうか。ありえないことです。神が住んでおられるならサタンは住んでいません。住んでいないところから延々と追い出しをすると疲れます。不安になります。クリスチャンからサタンを追い出すことは教理的に問題です。福音派やペンテコステ、カリスマではサタンは堕落した天使で、サタンはひとりでたくさん存在しません。どこかに居たら他にはいません。天使ガブリエルがマリアの前に現れた時、そこ以外の場所にガブリエルはいません。ところがサタンを追い出す教会では、クリスチャンからサタンを追い出します。全てが嘘かひとつだけ事実です。そのひとつも疑わしいものです。私に言わせれば追い出す人に対して「惑わす霊よ、この人から出て行け。」と言いたいです。サタンはひとりですが悪霊はたくさんいます。しかし、恐れることはありません。悪霊の方がクリスチャンを恐れているのです。なぜなら、神がクリスチャンと共におられるからです。サタンや悪霊に対していつからクリスチャンがこんなに怯えるようなようになったのでしょう。「霊の戦い」が盛んになってからです。キリストの内住が強調されていればこんなことにはなりません。教理的に偏ったおしえがクリスチャンの中に拡がったために問題が起きています。「霊の戦い」は宣教の中で実践されているもので、聖書的な根拠が希薄です。体験を根拠に物語を作り過ぎです。霊的な地図の作成などは全くでたらめです。ダニエル書から導き出すことはできません。神社の出版物やクリスチャンでない人が書いた本を用いて霊の地図を作成するのは、否定している分野からの引用です。このおかしさに気付いてください。歴史的な場所、異教の敷地で歩きながら霊の追い出しをすることも変だと思いませんか。パウロは偶像の満ちているアテネで歩きながら霊の追い出しをしたでしょうか。聖書のどこにそんなことを実践している使徒がいるでしょうか。このようなことを実践する人を「使徒」「預言者」ともてはやしている教会と牧師には注意しましょう。もし、あなたがこのような教えに影響を受けたら、あなたの心は平安を失い、霊に怯えるようになります。そして、いつも心が戦争状態となります。戦いを意識しないと一日を始められなくなります。神の臨在なきクリスチャン生活は不毛です。
by maranatha | 2009-10-16 07:46 | 霊の戦い

させられた

 カルト化した教会を出た元教会員のカウンセリングをしているとき、気になる言葉があります。それは「させられた」です。「献金させられた」「奉仕させられた」「証をさせられた」「奏楽をさせられた」等々。これは教会での奉仕や活動が自主的なものではなく、強制が働いている証拠です。自分が属していたあるいは属している教会で、どれだけ「させられた」が飛び交っているか、また自分が使っているか振り返ってみましょう。それは、あなたが奉仕を自らしているか、強制、依頼に基づく奉仕かの判断に役立ちます。奉仕は自主的であって礼拝になります。日曜日の礼拝は礼拝会で礼拝の一部です。神を信じて、神のことばに応答する生活が礼拝です。ですから、自主的な奉仕は礼拝です。礼拝は強制されてするものではありません。それは自明の理です。ところが、礼拝会が絶対厳守で奉仕も命令、強制です。そこに本当の喜びはありません。喜んで奉仕をしている振りをするだけです。やがて疲れ、こんなに「してあげてるのに」とつぶやきに代ります。しかし、それを牧師にはいえません。だれかにこぼせば牧師に伝わり、不信仰呼ばわりされます。自分の言葉に気を使う生活は苦痛になります。あなたは「させられる」生活ですか。「・・・する」生活ですか。
by maranatha | 2009-10-12 18:04

あげる

 親子のカウンセリングで気になる表現があります。「大学に行かせてあげる(あげた)」「仕送りしてあげる(あげた)「助けてあげる(あげた)」「書類を書いてあげる(あげた)」「育ててあげた」親として当然のことです。このような丁寧表現は子供に対して不要です。また、依頼に基づかないことも同様です。頼んでもいないのに恩着せがましいと反発されます。好意が反発を招く表現は話し手の問題です。広辞苑には「あげる (動詞連用形に助詞『て(で)』の付いた形に添えて )その動作を他にしてやる意の丁寧表現。」と書いてあります。丁寧表現なのにいい気持ちはしません。目線が高い表現に聴こえるのでしょう。
 教会の中で、「祈ってあげる(あげた)」「教えてあげる(あげた)」「車で送ってあげる(あげた)」「訪ねてあげる(あげた)」「話を聞いてあげる(あげた)」と言う言葉が飛び交ったらどうでしょうか。いやですね。語る方は無意識に言っていますが、聞く方は気になります。
by maranatha | 2009-10-10 06:25

喜納政弘氏の陳述書

 喜納政弘氏の平成20年9月5日付けの陳述書を『随想 吉祥寺の森から』のブログで読みました。喜納氏は「この陳述書を南部牧師会の総意として提出致します。」と書いていますが、何年何月何日の牧師会でこのような重い決議をしたのでしょうか。そして、南部牧師会は沖縄リバイバル教会に「健全な信頼できる教会」とお墨付きを与えています。これが40以上のプロテスタントの教会の牧師会の総意とは驚きです。500名以上も教会員がいて、宗教法人を持たず、役員会、教会総会もない、収支報告もない教会のどこが「健全で信頼できる教会」でしょうか。南部牧師会の所属教会は健全性がないと証言しているようなものです。地域牧師会の見識のなさには驚きです。裁判長はこの陳述書を当然読んでいます。そして、裁判に提出された文書だけで第三者として判断します。原告2名と被告と被告を擁護する牧師40名以上の単純な比較は、真相を知らない人間の判断を曇らせます。南アフリカの教会は長くアパルトヘイトを支持してきました。過ちに気づいた時は遅く、数え切れない被害者が犠牲者となりました。教会が常に正しいとは限らないことを歴史は教えてくれます。沖縄に在住するカルト化の被害者は諦めてはいけません。自由と正義と公平を回復する働きは始ったばかりです。

 なぜ、沖縄リバイバル教会のことを何度も取り上げるのか、それは沖縄の牧師会が儀間氏を支持したからです。さらに、他府県の友人の牧師たちも彼を支持しました。そこには名の知れた教会の牧師たちもいます。沖縄リバイバル教会の問題は日本の教会の健全性が問われている問題なのです。沖縄キリスト福音センターやべテル教会を支持する教会はわずかです。彼らに対しては陰でカルト化していると発言しています。距離も置いています。しかし、沖縄リバイバル教会は仲間です。仲間ゆえに守りきらなければ自分達がカルト化していると言われかねないのです。そこには彼らの危機感があります。わたしに対する「破壊者」発言は、彼らの被害者意識の表れです。

 今後、沖縄リバイバル教会が宗教法人を取得するような事があれば、そして、教会員が教会の問題に気付いてわたしに相談があれば、まず閲覧請求をします。提出された収支報告と議事録をつぶさに調べ、健全な教会運営をしているかを判断します。おそらくいつまでも宗教法人を取得できないでしょう。透明性のない国が透明性を持つことは革命に拠らなければ起きません。
by maranatha | 2009-10-02 06:46
宗教問題