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村上 密 Blog

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恐怖から平安へ

 私はキリスト教系のカルト信者のカウンセリングを長年している。よって、手段を選ばない様々な嫌がらせ、強迫を受けてきた。カルトは信者に対して、いかに村上密が恐ろしい嫌な人物であるかを植えつけている。昔はこそこそと中傷ビラや電話による匿名の嫌がらせや強迫が多かったが、最近はインターネットによる中傷が多い。共通するのは一方的な行為で対話はない。だから、信者が信仰のことで村上に相談をすると言うことは大変勇気のいることである。悪魔ともサタンとも呼ばれている人物とコンタクトを取ることは、堕落であり、裏切り行為である。それにも関わらず信者が相談してくるという事は、こういう働きをしている人が少ないか、カルトが村上密の認知度(悪名)を高めているからである。

 カルトはまとまりの強い集団である。外部の情報は入らない。そして、独裁的な指導者が信仰と行動の一致を強要し、服従を強制する。この状態を維持するためには、悪魔(サタン)や強力な敵が必要である。その敵がカルト問題を扱っている人や私である。悪魔はただ一人である。しかし、悪魔はキリスト教系カルトではいつでも、どこでもいて、信者を攻撃してくる。それで、指導者や内部の情報以外を信じないように教えている。このような教え込みがされている信者が、何かの理由でカルトをやめても平安はない。心の病ならカウンセラーでよいが、カルトの場合は、マインド・コントロールを解く必要があるので、カルトのことを良く知っているカウンセラーに相談して欲しい。ズィビー・パスカルはマインド・コントロールに詳しいカウンセラーである。この分野でよく知られた人であり、長年の私の友人である。悪魔の友人は悪魔と思わずカウンセリングを受けて欲しい。心に平安を得るために必要なのは、逃走ではなく相談である。カウンセラーは一方的な話をする事はない。よく耳を傾け、対話を通して、コミュニケーション能力を高めてくれる。脱会して、直ぐ世の中で仕事をすると、人の要求を断る事が出来ないで苦しむ人が多い。カウンセラーは自分を取り戻すお手伝いをする人と思えばよい。恐怖から平安へ、それがカウンセラーの仕事である。
by maranatha | 2010-03-31 16:05

キリスト教と裁判

 独裁的牧師が刑法か民法に抵触した場合、教会役員会は牧師の罪を裁くことができるだろうか。牧師が独裁的であったら無理である。教会は確かに世俗の法に基づかず、聖書に基づいて裁く権限をキリストから委ねられている。しかし、独裁的な牧師は、その権限を教会から奪い盗っている。信徒を一方的に裁くことができるようにはしているが、自分が裁かれるようにはしていない。まず、役員会は有名無実である。役員会はすでにイエスマンで占められている。意見を言う信徒は独裁的教会に留まれない。教会が所属する教団に統治能力があれば心配ない。しかし、それがなければ裁判しかない。独裁的牧師は、信徒に不利なように自分勝手な教会運営をしている。これでは世の裁判を用いるしかない。世の裁判を否定する人は、被害者の深刻な状況を知らない人で、ステレオタイプの人が多い。私は今まで裁判を起こしたことはない。裁判を支援はしている。どういう裁判かと言うと、教団が統治能力を失っている場合である。または、牧師が独裁的な場合である。すなわち自浄作用をなくしている場合に限る。神を恐れる牧師なら自ら身を引く。人の忠告を聞く牧師なら問題は早期に解決している。時間が立てば立つほど人を巻き込み、悪あがきをする。傍から見るとぶざまであるが、本人は迫害されていると喚く。これでも牧師かと言うほど倫理観を失う牧師もいる。
 被害者が相談する相手を間違うと悲惨である。「赦しなさい」「忘れなさい」このように言う人を相手にしてはいけない。言う通りにしないとその人から裁かれる。裁くなと言う人がよく裁く。加害者の味方かと思うほどに不愉快になるだけである。キリスト教界の統治能力が低下している。至る所に綻びができている。プロテスタント、カトリックの区別はない。そして他の宗教界も政界も経済界もモラル・ハザードである。教会は真理で武装するだけではなく、教会が存在する時代や国の法を学ぶ必要がある。教会が法を無視すれば、法が教会が裁くことになる。教会が理性を否定すれば、ヒステリックな集団になり下がる。教会は世にある限り、治外法権を持つことはできない。それは国が許さない。いつの時代にも、教会は国と法との緊張関係に置かれている。その緊張関係の下で、クリスチャンは聖書に基づきキリストの教会を形成しなければならない。そして、遵法精神をもつ教会のみが世に警鐘を鳴らすことができる。

  悪人がどうして正しい裁きをすることができるかだろうか。
  それは悪人が自分を裁く行為である。
  悪人が自分を正しく裁けたら、もはや悪人は悪人ではない。
  悪人は正しい裁きを自分にすることができない。
  完全な善人はいない。完全な裁きを人はできない。
  しかし、神を畏れる人は裁く権限を委託される。
  誤れば自分が神から裁かれると知っているから。
  神を畏れる生活、それが礼拝である。
  神の心を自分の心とする、それが信仰である。
by maranatha | 2010-03-28 21:34 | 裁判

横井小楠

 享保十三年は1728年である。横井時在(小楠)は文化六年八月十三日(1809年9月22日)に誕生している。時在と時真(号求右衛門)の共通の先祖は時春である。前者は時春、時次、時国、時昭、時秀、時元、時昆、時直、時在に至る。後者は時春、時助、時真に至る。時真は時在の先祖ではないが、横井一族であることに変わりはない。時春から分かれた家系の人である。石碑の側面には「時真守忠孝祭先祖子孫昌栄祈〇有行事故當家の人々此墓  尊敬〇永可繁昌云」とある。 〇印は判読できない。素人が書き写したものであるから、横井一族の研究をしておられる方は直接現地に足を運んでいただきたい。必要があれば正確な場所をお伝えしたい。
 横井小楠の私塾(四時軒)は沼山津にある。坂本龍馬はここを3度訪ねている。どの道を通ったのだろうか。私が通った託麻東小学校と二岡中学校の北側には、肥後国府以来の古道で南郷往還がある。肥後から阿蘇南郷そして豊後に至る道である。もしかすると龍馬がここを通ったかもしれない。
 南郷往還には櫨の木の大木がある。この櫨の木は赤穂藩と関係がある。大石蔵之助は切腹するまで、熊本藩の江戸藩邸に預けられた。その鄭重な扱いに対して、赤穂藩は貴重な櫨の木の栽培と蝋の製法を伝えたと言われている。そのような由来を持つ櫨の木が、藩の収入源となるように南郷往還の道沿いに植えられていた。私の故郷の歴史である。
by maranatha | 2010-03-26 11:54

宗教トラブル相談センター

 宗教トラブル相談センターには、相談が毎日飛び込んで来る。カルト化した教会の被害者からの相談が多い。金銭的被害や性的被害の相談が、5年間立て続けである。今は被害者が黙っている時代ではない。しかし、どこに相談したらいいかがわからないでいる。私はカルト化した教会の被害者の支援活動を5年前から始めた。このような活動をする人がすくないのは苦難に巻き込まれたくないからである。労多く利益につながらないことは取り組む人の少なさで証明されている。私は以前はキリスト教の異端やカルトの相談がほとんどであった。今なにがキリスト教で起きているのだろうか。
 教会がカルト化する前兆はあった。その前兆とは、精神科医である工藤信夫氏の著書による啓発である。心病むクリスチャンの増加が、教会の内部における人間疎外にあると指摘されておられた。まさかである。事実を確認しない牧師たちから、工藤氏は多くの非難を浴びた。精神的虐待を浴びたのは信徒だけではない、被害者に耳を傾ける人にも及んでいたのだ。及ばずながら、私も非難を受けている。被害者の立場に立つということはそういうことである。だから、多くの人は傍観者である。以下は、なぜ心病むか、なぜカルト化するかを真剣に考えている人に是非参加してほしいセミナーである。工藤氏はセミナーの講師の一人である。

  第二回特別セミナー 「健全な教会と健全な信仰」
      ~なぜ教会で心病むのか~
  2010年6月25、26、27日 
  会場 ベッテルハイムホール(沖縄・浦添市)
  問い合わせ先 090-8666-4631 090-9782-5892
by maranatha | 2010-03-26 11:52

横井家の墓

     享保十三戊申年
  ○ 法山院宗照日高信霊
     十二月十一日

上記は墓石の表書きである。家紋は三つ鱗が○の部分に刻まれている。墓石は熊本市小山町、曹洞宗梅谷寺の東側の里の墓地にある。だれの墓か長く知られていなかった。数年前に石碑の縦書き文字を全文を書き写した。少しずつ調べているうちに重要さに気付き、慎重さのあまり発表が遅れてしまった。

  横井求右衛門尉平時真墓

上記は裏側である。これだけでは見過ごされる。右側面が驚くべき内容である。全てが漢字で三列となっている。内容は下記の通りである。

  平時政同義時同泰時同時氏同経時同時宗同貞時同高時
  時行時満利時時永号横井掃部助時勝号横井丹後守時延号横井
  雅楽之助時春号横井弥次右衛門尉時助号横井九左右衛門尉至時真

これは北条氏の家系図である。横井小楠の名こそ刻まれてはいないが、横井一族の墓である。横井家は三家が明治まで続いているが、これは家系図を調べている人にとって貴重な資料である。時助から時真に続く系図が他の資料にない。次回に調べたことを掲載して、郷土の歴史に貢献したい。
by maranatha | 2010-03-24 08:14

単純化

 カルトの特徴は単純化である。難しいことは普及しない。あるカルト化した教会の礼拝説教は、ヨハネの福音書14章だけである。信仰生活に必要なものは人差指だけである。毎日毎日、何事にも「サタンよ、出て行け。」の連呼である。病気も事故も失敗も、全てはサタンが原因である。牧師が指定した数だけ、「サタンよ、出て行け。」とカウンターで数える。町々でカウンターが品切れになり、信徒の親指が腱鞘炎になったと元信徒が証言している。毎朝毎朝、エペソ人への手紙6章の「武装」を唱え、動作をする。冗談ではなく、本気で行う。これは教えも行動も極端に単純化されたカルト化の実例である。
 読者が在籍する教会が下記のようであるなら要注意である。
全ての説教が弟子訓練になっていないか。
全ての説教が同じテーマばかりではないか。
牧師が絶えず従順を要求していないか。
どんな賛美も体を動かしてはいないか。
トランス状態になりやすい賛美が多用されてはいないか。
何でもハレルヤになってはいないか。
何でもアーメンになってはいないか。
什一こそが祝福と機械的に強調されてはいないか。
絶えず不信仰、不従順、サタンを聞いてはいないか。
過剰な単純化、それがカルトの特徴の一つである。このことを心に留めておけばカルトチェックができる。
by maranatha | 2010-03-17 06:45

礼拝

 ある牧師が独裁的な教会運営をするために、教会員が傷つき、礼拝に出席できなくなった。欠席の原因は教会員にあるかのごとく、牧師は説教で教会員の不信仰、不従順を詰った。ここでは説教が神の言葉を語るときではなく、自分の自己実現を徹底させるための話になることが多い。これでは、教会がキリストの教会ではなく、牧師の教会である。争いあるところで真の礼拝をささげることができるだろうか。礼拝の場は神への畏れの場ではなく、独裁的牧師への恐れの場になっている。これでは、教会員は多くても霊的に死んだ教会である。しかし、こういう教会は一見して活発である。それは、明るく、従順で奉仕する教会員が理想像として要求されているからだ。救われた喜びは束の間、やがて教会へ行くことが苦痛に変わる。演技するようになり、心がついていけなくなるからだ。やがて演技に疲れて、独裁的教会の強制労働を止める人が出る。教会活動が生活の多くを占めていた場合、喪失感は大きく、交わりの断絶により孤独に陥る。疲れと自責の念から心病む人も出る。悪いのは牧師であって教会員ではない。逃げたと思わず脱会だと自分に言い聞かせたらよい。宗教的奴隷から解放されたことを喜ぶことだ。しかし、この領域に至るためには、病に医者が必要なように、誤まった考えを正すための宗教的カウンセリングが必要だ。礼拝は自分のからだを生きたささげものとして神にささげることであって、牧師の自己実現のために無償の労働を提供することではない。又、礼拝とは礼拝堂に限定される礼拝ではなく、信仰生活そのものである。日々に神の言葉を生活化する歩みでありたい。
by maranatha | 2010-03-16 13:16

みせかけの無知

 みせかけの無知、これは臆病が原因だ。知っているのに知らない。知らないと言った方が自分にとって有利で安全。人がどうなろうと自分の知ったことではない。何を言ったら安全か。その為には知らないと言うだけではなく嘘さへも卑怯に吐く。このような生き方から別れ、何が事実で何が真実で何が真理かを追求する心を持ちたい。無知の知は良いがみせかけの無知は良くない。教会のカルト化問題に取り組み始めてから、祭司とレビ人をよく見かけ、みせかけの無知を見させられるようになった。鼻に息あるものを恐れてはいけない。神を畏れる生き方には勇気と信仰が必要だ。
by maranatha | 2010-03-16 13:15

足跡

 ある神学校に宿泊した時のことである。ソファーの上に猫の毛があった。そして、床の上には猫の足跡があった。足跡を辿って行くと風呂場の窓から侵入したことが分かった。興味が湧いて侵入したところから足跡を丹念に調べることにした。雨があがりの日であったためか、猫の足跡には土がくっきりと付いていた。まず、窓辺から風呂の縁に1m程うまく飛び降りて、今度は縁から床に30cm程飛び降りている。ところが、風呂床の水が乾いていなかったのか足跡が5cm程滑っている。尻もちはついてはいないようだ。その場の光景が脳裡を掠め、思わず笑ってしまった。風呂場から部屋へ、そして、ソファーへジャンプ。猫の毛は白と黒、茶はなかった。
 ある青年がアメリカへ留学して行方不明になった。いろいろな州から手紙を出しているが、手紙の消印のみで住所書きはない。しかし、ニューヨークの消印の手紙に「公園の近くに居る」と書いてあった。相談を受けた私は家族と共にニューヨークへ飛び、ニューヨーク市警を訪ねた。カルトのアジトがコロナパークにないかと聞いた。北側にあるカルトのアジトがあることが分かった。見張っていると本人が現れた。本人は驚いたが話し合いは出来た。連れて帰ることは出来なかったが、連絡が双方向でできるようにする事は出来た。
 最近、インターネット上に流れていた暴走バイクの映像が警察で解析され、運転手が逮捕された。このような記事には興味が湧く。
 以上のことからもお分かりいただけると思うが、私は究明することに興味が湧く性格である。私に興味のある人にこのブログで情報提供を試みてみた。イメージの修正に役立てていただければ幸いである。

 カルト問題を扱っていると、悪質な中傷が後を絶たない。用語の特徴、書かれた状況などから彼らの足跡を記録して置く。
by maranatha | 2010-03-09 07:39

被害者の怒り

 被害者の怒りは、本来加害者に向くべきものである。しかし、加害者に協力者がいる場合、被害者の怒りは加害者より協力者に向きやすい。ところが、被害者と加害者と協力者が属する団体では、しばしば力関係は加害者が勝っている。そのような中では第三者は自分の位置を中間に置くことで、公平であると思い込む傾向にある。被害者にとって無理解の中に放置されることほど辛いことはない。被害者の怒りはこの第三者に対して一層大きくなる。前者は悪への怒り、後者は偽善への怒りである。第三者は被害者への理解者、援助者であってほしい。
by maranatha | 2010-03-02 08:52
宗教問題