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村上 密 Blog

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おいしいコーヒー

 教会の近くには小川コーヒーの本店があります。この辺で繁盛している店です。京都ではイノダが有名ですが、小川も負けてはいません。なぜなら、コーヒー好きの私がイノダに行かなくても小川コーヒー本店で事足りるからです。何処にでもある有名なコーヒー店のコーヒーを飲んで美味しいと思ったことはありません。ただそこでアルバイトしていた○○兄が入れてくれたコーヒーだけはおいしいと感じました。ところが彼がロンドン大に留学したのでおいしコーヒーが飲めなくなりました。しかし、沖縄の天久にある「cafe de cantate」のコーヒーを飲むようになって満足しています。ここのコーヒーは本当においしい。「日本一おいしいコーヒー」と言ってほしいとブログにありますが、日本全国のコーヒーを飲んでいないので、「日本一」とは言えませんが、私が飲んだ中では「一番です。」 なぜおいしいのか考えてみました。私は新垣さんを知っている。そのコーヒーへの情熱も知っている。友人と一緒に飲む時にくつろいでいる。そこにあるコーヒー豆は何処にでもあるコーヒー豆ではない。親密さと希少性がここのコーヒーをおいしくしてくれているのではと思う。また、そこにはくつろぎの空間があります。店の前は広々とした公園、そこでくつろぐ家族や友人たちの姿、沖縄の青い空などなど。
 さて、久々にこの店に立ち寄った時、それは友人とでした。いろいろな話をしていると、「先生、わたしも参加していいですか。話を聞かせてください。」と突然新垣さんが声をかけてきました。しばらく会話をしていると彼女は「この店には癒しとくつろぎを求めて、コーヒーを飲みに来るお客さんがおられます。そういう人に先生の話を聞かせたい。ぜひ今度沖縄に来られる時、セミナーをお願いします。」と言って来ました。それで沖縄を訪ねる度に小さなセミナーを開いています。コーヒーがもたらす癒しと聖書がもたらす癒しのハーモニーが「カンタータ」にはあります。身びいきではなく、ここのコーヒーは本当においしい!
by maranatha | 2010-04-19 15:32

牧師の土下座

 牧師が土下座をして謝った。カルト化した教会の牧師は、問題を起こしたときこのような態度をとる。しかし、何について謝るかは明確にしない。牧師が期待しているのは被害者からの「赦します。」ではない。誰かが「牧師が土下座をして謝っているのだから、赦してあげなさい。」と言うのを待っている。それは一人の人が赦しても、他の人が罪を問題にするかもしれないので、全ての人の口を封じる為に演技しているだけである。その証拠に、牧師は悔い改めの実を結ばない。しばらくしたら、また元通りの傲慢な口と横柄な態度に戻ってしまう。その姿勢を注意する信徒はいない。ヘロデ大王を恐れる取巻きと民衆と同じである。あの時行動を起こしたのは、星を頼りにエルサレムに来た博士たちだけだった。恐れに打ち勝つのは、救い主を礼拝したいと言う願いであった。権威主義の牧師を恐れてはいけない。鼻に息あるものを恐れてはいけない。カルト化の中でも真実を求めるこころを失わない信徒が教会にいるなら、それは教会への神の憐れみである。まだ灯火がが教会にあるから。

 沖縄リバイバル教会の儀間牧師は、多額の献金を詐欺にあって失った時土下座をしたが、損失を補う為に償うことはしなかった。本当に責任を感じているのなら、詐欺師からもらった高級車に乗りつづけることはしない。沖縄キリスト福音センター(美浜教会)の仲原牧師は、教会の牧師が性的問題を起こした時、糾弾されて土下座をしたが、被害者に対して土下座をしていない。償い金を当時の牧師たちから集めているが、被害者にはそれは届いていない。何処にそれはあるのか。逮捕されたビュン牧師は教会で土下座をした。いったい何について謝罪したのか。裁判で開き直っているのを見ると、頭を下げた時、口から舌が出ていたのではないかと思う。

 パフォーマンスに騙されてはいけない。聖書は悔い改めの実を結んでいるかを問うている。結んでいないなら教会から追放であるが、結んでいないことを問題にする人を牧師は追放する。それがカルト化している教会の実態である。正しい裁きはカルト化した教会では無理である。罪を犯した牧師だけが裁判官だから。牧師会も裁かない。フェローシップだから。教会でも「裁いてはならない。」としか教えていないのに、聖書に基づく裁きなど思いもつかない。

 自分の教会はカルト化しているのではと思う方は、手にあるあらゆる資料を破棄しないように。その資料がやがて問題を糾す有効な証拠になるので。土下座をするのは、悪徳政治家で十分である。牧師までが同類のようで恥ずかしい。牧師がしなければならないのは、真実な悔い改めであり、何度も問題を起こすなら、そのものは牧師の職にふさわしくない。
by maranatha | 2010-04-18 20:35

牧師の裁判

 近々、北見か川崎の裁判所に決まる予定です。北見案を要望しているのは北愛チャペルの牧師竹内ですが、原告も私も北見案がよいと思うようになりました。なぜなら、北愛チャペルの信者、元信者、関係者、被害者の知人など多くの人が傍聴できます。もちろん、竹内の関係者も傍聴できます。竹内を問題視している人々はありとあらゆるところに傍聴の案内を配ると言っています。裁判があることを知らせることは名誉毀損に当たりません。狭い町ですから隅々まで竹内の裁判が伝わるでしょう。北見の元信徒は、彼ら自身が見たり、聞いたり、体験したことを、新聞社に知らせています。興味を持って記者は傍聴し、記事にするでしょう。川崎の裁判官より、北見の裁判官の方が、竹内のことを耳にしている可能性が高いのも北見案を希望する理由です。彼は近年AERAに取り上げられたので、問題牧師として有名です。北見案が墓穴を掘るのではと思う人もいます。ただ、北見で裁判となれば、費用が嵩むことになります。カンパをして裁判の支援をしたいと思います。もしそうでなくても私自身は支援します。涙を流した人々を知っていますから。原告は、これ以上被害者が出ないように立ち上がってくれました。裁判は民事です。
by maranatha | 2010-04-18 20:35 | 竹内一雄

牧師と裁判

 2010年6月17日、私は大阪地方裁判所で開かれる被告人テモテ朴(御国教会)の民事裁判を傍聴する予定です。朴は聖神中央教会事件の金保と関係の深い人物です。必要に応じて、これからブログで取り上げることにします。

 2010年4月26日、私は神戸地裁尼崎支部で開かれる前代未聞の「総会決議無効確認請求事件」の裁判を傍聴する予定です。この事件についてはいずれ詳しく書く予定です。、牧師は個人的な問題を教会員に隠して、教団からいじめられていると言って同情を引き、臨時総会を開いて教団離脱を強行した事件です。シュタイナー(キリスト教の異端)を信奉する人々と深い繋がりを持つこの牧師の問題を、私は5年間追及しています。裁判がどのような結果になっても仮面を剥ぎ、事件の内容を公にすることによって、将来に禍根を残さないようにしたいと思います。教団の今後の対応次第では実名を挙げて監督責任を追及する予定です。

 
 2010年4月14日、北愛チャペルの牧師竹内一雄の裁判が横浜地方裁判所川崎支部で開かれる予定でしたが、延期になりました。数人の女性から私は相談を受けてきましたが、やっと問題を明らかにするところまで来ました。原告の精神状態は深刻です。これを配慮しながら、竹内の問題を書こうと思います。原告は一人ですが、相談をしてきた女性たちが裁判を支援しています。

 2010年4月26日、ある教団の責任者と所属教会の牧師が引き起こした金銭問題と精神的虐待について交渉する予定です。和解交渉が成立しなければ裁判を視野に入れざるを得ません。

2010年4月16日、東京で、ある教会の信徒達の相談を受けます。神奈川県にある教会の牧師が、教会の多額の資金を個人的に使い込み、それを知った教会員が多数離脱しました。牧師の対応次第では刑事・民事で対応せざるを得ません。

 以上の裁判と交渉は、私が何をしているかの事例です。問題解決のためには被害者との相談を繰り返し、問題点を整理するために多くの時間を必要とします。この他にもカウンセリングを行っています。裁判の資料を読んだり、文書を書いたり、書くのを助けたりしています。
 
 牧師ですから当然教会の仕事もしています。アッセンブリー京都教会は教会員は約180名です。4名の牧師、4名の伝道師、2名の宣教師、1名の協力牧師、2名の引退教職、1名の神学校を卒業した伝道師候補生、4名の責任役員で、教会の伝道牧会、信徒教育、教会運営をしています。その他にも幾つかのミニストリーのためにボランティア・スタッフがいます。宗教トラブル相談センターはこのような多くの働き人と理解ある教会員によって支えられています。
by maranatha | 2010-04-12 23:01 | 御国教会

牧師の裁判

 AERAに掲載された北愛チャペルの牧師竹内一雄氏の初公判が4月14日でしたが、延期になりました。詳しい事は後日に。裁判の経過は差し支えない程度にブログに掲載する予定です。
by maranatha | 2010-04-11 06:27 | 竹内一雄

権威

 パウロは権威について次のように語っています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます」(ローマ人への手紙13章1、2節)。
 そのパウロがサンヒドリン(ユダヤ人の宗教的最高議会をさす名称)の最高指導者である大祭司に対して従ったでしょうか。いいえ、彼は従いませんでした。サンヒドリンで「大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じた。そのとき、パウロはアナニヤに向かってこう言った。『ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。』するとそばに立っている者たちが、『あなたは神の大祭司をののしるのか。』と言ったので、パウロが言った。『兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、【あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない。】と書いてあります。』」(使徒の働き23章2~5節)パウロは「さばく座に着きながら」と言っているのでアナニヤが大祭司と分かっています。なぜ、「大祭司だとは知らなかった」と言うのでしょうか。パウロは嘘を言っているのでしょうか。いいえ、これにはわけがあります。アナニヤが律法にそむいてパウロを打てと命じたからです。パウロは大祭司ががその務めにふさわしく振る舞うなら敬意を払ったでしょう。敬意を払うに価しなっかたので「ちっとも知らなかった。」と言たのです。回りの人はパウロに対して何の行動もしていないので、パウロの言葉を理解したようです。パウロは「あなたの民の指導者を悪く言ってはいけません」と言うユダヤ教のミドラシュの1節を引用したのです。それは権威を持つ者への敬意は、それに価する人に払うと言う意味を持っていました。パウロは白く塗った壁、偽善者に対して、イエス・キリストと同様にののしりました。
  「権威に従え」「牧師は神の代理人だ」「牧師に従うことは神に従うことだ」「牧師に従え」 このように権威を振り回す牧師を、読者は見たことがあるはずです。権威は振り回すものではありません。権威を具えている人は権威を口にすることをしません。それは強いられて認めるものではない性質のものです。最近、権威という言葉は不道徳で、欲深い、威張り散らす牧師がよく口にする言葉に成り下がっています。聖書に基づいた生活をしない牧師が権威を振りかざす時、「あなたは牧師ですか?ちっとも牧師に見えません。」と反論してみてはどうでしょう。あなたが牧師だと思うから腹立たしいのです。偽牧師だと思えばよいのです。事実、聖書を教えながら聖書から程遠い生活をしている牧師に敬意を払う必要はありません。
 最近、権威を主張する傾向がキリスト教会にあります。弟子訓練や教会成長の影響です。この教えの行き過ぎた結果が、HCC、ビュンの問題として表面化しました。私は沖縄でこの「権威」を振り回す牧師の話を度々聞きます。沖縄はカルト化が進んでいるところです。宗教法人をとらず、役員会も総会もない、億の年収があても収支報告もない独裁的な沖縄リバイバル教会を「健全な教会」と裁判の陳述書で持ち上げる牧師会が存在しています。そして、陳述書が牧師会の総意でないのに総意と書いた人物がいても問題にしません。日本教会成長研修所(JCGIネットワーク)の要職にある人物たちもこのような教会を「健全な教会」と証言しました。それを問題にしないことがJCGIの問題です。そして、「このように書く人物から悪霊よ出て行け!」と単純な思考で悪霊を追い出しをする「霊の戦い」に傾倒する教会も権威主義に陥っています。間違った権威に惑わされてはいけません。
by maranatha | 2010-04-09 22:15 | 権威

親切とおせっかい

 親切が通じないで悩んでおられる方が相談に来られた。そこでこんな事を申し上げた。「あんなにしてあげたのに」「とても心配してあげてるのに」では押し付けで親切ではない。それは自分の気持ちを満足させることを優先している事で、相手の心を斟酌していない。親切は相手の心を大切にする事だが、おせっかいは自分の心の満足を優先している。相手は押し着せられることが心の負担となっている。「ありがとう」と言えば自分の気持ちを理解してもらえない。でも言わないと何と言われるかが心配。相手の心を読めないで親切をしたと思い込んでいると、後で裏切られたような気持ちになる。迷惑そうな気持ちを相手がだれかに伝えて、回りまわって自分に帰ってくるから。親切は相手の心に負担にならない。おせっかいは迷惑になる。そこが親切とおせっかいの違い。親切は自然に「ありがとう」が言える。「ありがとう」の言葉だけでは足りないと思うのは、相手が犠牲を払っていることに気づいた時。愛の負債は犠牲を払った人にではなく、困っている人に返していく。親切は愛の中に内包されているが、愛に勝るものではない。
by maranatha | 2010-04-07 08:09

なぜ教会で心病むのか

 第二回特別セミナーが6月に沖縄で開催される。今回のテーマは「『健全な教会と健全な信仰』~なぜ教会で心病むのか~」である。ショッキングなテーマに読者は驚いておられると思う。私が心病むカルト信者をカウンセリングするようになたのは1990年代からである。心病むクリスチャンをカウンセリングするようになったのは2000年代からである。特に2005年からカルト化した教会の心病むクリスチャンのカウンセリングが急増した。なぜ心病むかで示唆に富む文章を目にしたので紹介したい。本は『人生の四季』(ヨルダン社)で、著者はポール・トゥルニエである。彼は教会の中で心病む人がたくさんいる原因を次のように指摘している。「その原因はキリスト教の偏向にあります。心理学者たちの攻撃はー私はこう確信しています。ー健全で真正な教会に向けられているのではありません。今日いたる所の教会を蹂躙している道徳主義に向けられているのです。道徳主義は人間に恩恵によるひろやかな解放をあたえるかわりに、過ちを犯すのではないかという抑圧的な不安の重荷を与えているのです。」これは今日のカルト化した教会に当て嵌まる。彼らは「悪霊からの解放」を叫びながら、「いつサタンに攻撃されるかわからない」と抑圧的な不安を絶えず信徒与えている。そして罪のリストを示して、「このような罪が悪霊が侵入するところとなる」と強調している。トゥルニエが指摘する「抑圧」はカルト化した教会に充満している。彼は道徳主義を「教会の幼稚退行現象である」と言っている。幼児は力と恐怖によって行動を縛られる。幼稚化した信徒も偽りの「権威」と恐怖で縛らている。これはキリスト教内に見られる病理現象である。この病理現象は教会成長を求める教会、ムーブメントを追っかける教会、権威主義的で物質欲の強い牧師に顕著に見られる。
by maranatha | 2010-04-01 21:00
宗教問題