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村上 密 Blog

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乗っ取り

 ある教団で、教会の乗っ取りが進行中です。教会の臨時総会で「規則変更に関する件」と事前の案内はありましたが、当日の臨時総会議案は「被包括関係の解消(教団離脱)」でした。現在、臨時総会手続きを問題視した教会員が、「総会決議無効確認請求事件」として、裁判を起こしています。この裁判中に、教会役員会は離脱反対信徒を含む約半数の教会員を総会直前に別帳会員とし、総会参加資格を剥奪しました。牧師と役員会が、総会における牧師の責任追及を阻止する為に行ったのは明白です。。牧師が赴任した時から、わずかの年月で約半数の信徒が去りました。今回さらに約半数が強制的に別帳会員にさせられました。4分の1に激減した教会員は、役員を含めイエスマンだけです。

 この教会の牧師夫婦は教団から、教区倫理規定と異端信奉者への洗礼問題で追い詰めれれていました。牧師はこのことを役員以外には知らせず、教団離脱を謀ったわけです。ある会合の席で、役員は教団離脱を臨時総会まで伏せていたのは、横槍が入らない為であったと涙ながら告白しています。また同じ会合の席で、ある役員は異端の名称をあげながら、<これは問題ない>と発言しています。これで、役員たちが牧師に同調してことが判明し、会合に出席した離脱反対信徒は唖然としました。前代未聞の乗っ取りが成立するかどうか、数ヶ月先に決着する予定です。

この記事において、いつ、どこで、だれがは省きます。読者で探究心のある方は事件に辿り着くとができるでしょう。
by maranatha | 2010-10-29 22:16

宗教と心の病

 15年程前からカルト宗教の信者で心を病む人が増えてきました。このような相談者を断るわけにはいかず、救出カウンセリングをしていた私は、この新しい問題にも取り組むようになりました。病んだ子の言葉を親は分りませんが、私とは会話が成立します。語る言葉(カルト用語)が分るからです。手探りだった時、ヒントになったのは役者病です。役をしていると自分に戻れなくなり、本来の自分を失ってしまう病です。役者は自分に戻るためにペットを飼うそうです。役は人前で演じるわけですが、ペットの前で演じる必要はありません。帰宅したら素の自分に戻れるのがペットと言うわけです。本来の自分に戻れるものは何だろうと私の中で模索が続きました。そして、その時々に気づかされたことを提案し、回復への取り組みをしました。

 カルト信者はその団体の理想的信者像を追い求めるような強制力を受けます。無理をしてよい信者を演じて過ごします。団体の中では演じても、自宅に帰れば自分に戻れます。ところが、宗教で集団生活をしている所では、自分に戻れる所がありません。演じつづけることが、精神的に負担になり、心を病むようになります。人は、気質、性格、役割性格を持っています。役割性格は自然な人間関係や職場関係で出来上がりますが、カルトでは一般社会では考えられないほどのストレス社会です。真面目な人ほど罹りやすいのではないでしょうか。両親がよく言われます。「この子は本当によい子でした。」この子たちが、カルトの使命観を植え付けられ、終末論を吹き込まれ、カルトの規範を叩き込まれ、カルトの戦士に育てられます。適応できない人は病みます。戦場で心を病む兵士は良心の極限状態に追い込まれるからです。カルト信者も無理やり自己を崩壊させられ、親しんだ親、兄弟、友人との関係を切られていくわけですから、絶えられない人は心を病むはずです。

 キリスト教のカルト化教会でも同じようなことが起きています。カルト化教会の信者の理想像は、。明るく元気で奉仕に熱心、献金に励み、聖日礼拝絶対厳守、さらに牧師に絶対服従。これは、自分の時間を失い、自由になるお金を失い、自分自身を失う過程です。「自我を捨てよ」と言う弟子訓練の美名の下で自己放棄が強要されています。人格改造の途中で心を病む人がいますが、まさしく同様なことが起きています。権威主義の教会は要注意です。

 何でも語れる環境が必要です。blogやネットの書き込みを見ていると、いろいろな人が匿名でカルト化した教会の問題を指摘しています。見たこと、聞いたこと、体験したこと、教え込まれたことが散見されます。書くことは大切な作業です。もっと必要なことは語り合うことです。私はいくつか語り合う場に出席していますが、回復していく人を見て、人は飾らなくてよい人間関係を必要としていると思います。思ったことを言える人を持っていますか。宗教で心を病む人は、本音でなく、宗教的建前で生きることに疲れた人ではないでしょうか。
by maranatha | 2010-10-24 07:58

統一教会

統一教会が、「拉致・監禁」キャンペーンをしています。関心のある方は、有田芳生の『酔醒漫録』
[補筆版]統一教会「拉致・監禁キャンペーンの大破錠」をご覧下さい。その他にも文鮮明の子どもが後継争いをしている情報も掲載されています。また、文鮮明の最近の精神状態を知ることもできます。統一教会の近況を知る貴重な「有田芳生blog」です。国会議員としてカルト対策に取り組んでいただければと思います。日本のカルト対策は欧米と比較して遅れていると霊感商法被害救済担当弁護士連絡会から指摘されています。
by maranatha | 2010-10-23 21:14 | 統一教会

悪魔払い、悪霊払い

「霊の戦い」を提唱する人たちがいます。この人たちはクリスチャンの中から悪魔や悪霊の追い出しをしています。そのような対応を受けたクリスチャンが、心の病に至る事例が多発しています。真理は人を自由にするものです。しかし、「霊の戦い」は人を自由にするどころか、不自由にしています。「霊の戦い」が真理か間違いか、聖書から検証してみたいと思います。

「使徒の働き」にはクリスチャンの中から悪魔や悪霊を追い出している記事がありません。「使徒の働き」は教会の誕生と発展の歴史的記録です。イエス・キリストの教えを信じた人々が、その教えを実践した記録でもあります。その中に,クリスチャンの中から悪魔や悪霊を追い出した記事が一つもありません。

「霊の戦い」の提唱者は聖書の中にないことを実践していることになります。聖書にないのに教理を作ることはできません。聖書だけではなく、組織神学や教理の本の中には、クリスチャンの中から悪魔や悪霊を追い出すと言う教えはありません。このような教えは体験から作られたものです。体験があってもそれが正しいとは限りません。聖書によって吟味することが大切です。クリスチャンの体験が全て正しいわけではありません。体験が正しいのなら、異端で起きている体験も正しいことなります。体験を聖書啓示の上に置くことはできません。

「霊の戦い」の」提唱者は、聖書にない事を聖書的だと思い込み、クリスチャンの中から悪魔や悪霊を追い出していることになります。キリスト教文化と聖書の教えがしばしば違うことがありますが、このこともその一つです。「霊の戦い」はキリスト教文化のリニューアル版です。キリスト教文化が聖書的に正しいとは限りません。

悪魔は一人です。悪魔払いをする人は世界中にいます。悪魔は同時にいろいろなところに存在できません。それでも、悪魔払いをする人は、世界中で「悪魔よこの人から出て行け!」と叫んでいます。正解は同一時間において一つか全てが間違いです。確率から言うとほとんどが間違っていることを、多くの人が実践していることになります。

悪霊は多数存在します。だから、悪霊はクリスチャンの中に住むことができると主張します。クリスチャンの中に存在されるのは三位一体の神です。「その方は、真理の御霊です。・・・その方はあなたがたとともに住み」(ヨハネ14:17)「わたしの父はその人を愛し、わたしたちは(父と御子)はその人ところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)この出来事は、使徒の働きの2章で起きました。聖霊降臨とも教会の誕生とも言われるところです。私たちがイエス・キリストを救い主と信じる時、神が内住されます。そのようなクリスチャンに悪魔や悪霊が神とともに内住できるかです。どうして聖なるお方が悪魔や悪霊を受け入れられるでしょうか。

「福音書」にはイエス・キリストが悪霊を追い出している記事がありますが、悪魔を人の中から追い出している記事はありません。また、弟子達が悪霊を追い出している記事はありますが、悪魔を人の中から追い出している記事はありません。「使徒の働き」も同様です。

私は、「教会成長」や「弟子訓練」、「霊の戦い」に影響されている人を見ているうちに、それは本当に聖書的に正しいだろうかと考えるようになりました。提唱している人が倫理的に間違いを犯す事例が目立つからです。それは個人的な問題で片付けてよいのでしょうか。教えの中に問題があるとは思いませんか。「教会成長」や「弟子訓練」、「霊の戦い」を実践している牧師が大勢います。私はこのようなムーヴメントには賛同しません。キリスト教文化や習慣が正しいとは限りません。読者も検証を心掛けましょう。私も正しいと思い込んでいる教えや解釈があるかもしれません。それを克服する為に学び続けています。気づいたことは人々にも分けていこうと思います。
by maranatha | 2010-10-22 07:27 | 霊の戦い

洗礼

 洗礼はイエス・キリストを神の子、救い主と信じた人に授けます。信仰告白は、洗礼前です。洗礼後はありません。信仰告白を確認して、洗礼を授けます。洗礼の前には、洗礼講座があります。牧師は洗礼講座でその人の信仰の状態を判断していきます。他宗教や異端の教えをまだ信じている場合は洗礼を授けることはありません。教育的指導を条件に授けることもしません。
 ある教会では、異端を信じている人に牧師が洗礼を授けました。教育的指導と後付けで弁明をしたようですが、その後、その教会では同様の異端を信じる人が増えていきました。このような場合は教育的指導が本当か疑問です。人によっては、牧師が異端を容認をしているから、同じ異端を信じる人が増えると指摘しています。異端を信じたまま洗礼を受けた人が、所属する教会員に、その後異端を勧めると言う最悪のケースが起きました。
 単立で上記のことが起きたら大変です。教団の中で起きたら、その事実が過去に属していても、教団の執行部は事実調査をしなければなりません。事実調査の担当者が、穏便に問題を片付けたい場合、問題視した人を、事を荒立てしているかのように思う場合があるようです。このような公平でない判断が問題を長期化させます。事実が究明され、公開されるまで、問題を指摘した人は、洗礼を授けた牧師の友人や知人の牧師から冷たい目で見られます。その後、おおまかに問題が判明しても、人間関係を回復するのには時間がかかります。知らないで弁護した牧師が謝罪してくれば、心の傷も少しは癒されるでしょう。なかなかそういう人はいません。教団の自浄能力を疑う人が増えても当然です。
 異端信仰者に洗礼を授けた牧師が、依然として教職として留まる場合は、誰かの指導下に牧師を置き、再教育を施します。それを受けたくなければ、教団の教職を辞し、自主開拓と言う道があります。一からの開拓が経済的に困難と判断し、教会ごと教団を出ると言うケースは、そうあるわけではありません。どこかでそのようなケースがあれば、その教団は最終的に事実を公表しなければなりません。
 日本のキリスト教界の中に、外国から異端が導入されるケースが増えています。教会ごと押っ取られるケースもキリスト教系の新聞で報道されています。私は長く異端問題やカルト問題の相談を受けてきましたので、実例がたとえ少なくとも安心はしません。それは氷山の一角だからです。
 
by maranatha | 2010-10-09 07:18

手をつなぐちいろばの会

 教会のカルト化の被害者と理解者が、「手をつなぐちいろばの会」を結成しました。カルト化の予防のための第1回セミナーは、「健全な信仰とは何か」です。開催日は10月10日、11日です。講師は、ウィリアム・ウッド師、パスカル・ズィヴィ-氏、村上密です。参加者も増えているようです。わたしは「間違いやすい聖書解釈」「権威主義について」です。村上密blogで少し書きました。ご覧下さい。
 セミナーはhttp://chirobanokai.web.fc2.com/を検索してください。
by maranatha | 2010-10-05 23:17

服従しなさい!?

 権威主義の教会では、牧師が次の聖句を用いて服従を強調します。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人々たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」(へブル13:17)確かに、ここでは服従を勧めています。しかし、指導者ならばだれにでも服従するように勧めているかと言うとそうではありません。へブル人の手紙の13章7節から17節はひとつの段落です。その始めに「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(へブル13:7)と書いてあります。指導者の「生活の結末」を見極めることが大切です。高慢で、金銭に貪欲、不品行な指導者に服従する必要はありません。次の聖句も心に留めましょう。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタイ7:15)にせ預言者とは、神の言葉ではなく自分の心から湧く言葉を語る人物です。彼らはインスピレーションを啓示と主張します。狼であるにせ預言者の性質は貪欲です。にせ預言者の同類は、にせ使徒、にせ教師、にせ牧師たちです。にせ者たちがゴールド(金)、ガール(女性)、グローリー(名誉)を貪っていることが、インターネット上に散見されます。しかし、信徒は見ても見えない、聞こえても聞こえない、マインド・コントロール下にあります。マインド・コントロールは、貪欲から生じる支配欲です。支配欲の強いにせ者たちが、「服従しなさい。」と吼えています。あなたは拒否することも、その人から離れることもできます。服従から逃走し、自由の尊さをこれから体験してください。
 
 
by maranatha | 2010-10-04 22:34

赦しなさい!?

 「赦しなさい。」と牧師やクリスチャンから言われます。赦せない自分が悪いのでしょうか。このような悩みの相談がひんぱんにあります。それ程「赦しなさい。」が乱用されています。聖書には「もし、兄弟が罪を犯したら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」(ルカ17:3)と書いてあります。赦しなさいと言った人は、罪を犯した人を戒めたのでしょうか。悔い改めに導いたのでしょうか。このことを赦しなさいと言った人に聞いてください。今後ただ赦しなさいと言う人とは距離を持った方がよいでしょう。その人の偏った信仰理解があなたを傷つけます。赦すのは悔い改めた人に対してです。悔い改めない人を赦し、罪を放置する教会は秩序のない教会です。そういう教会に留まり続ければ、傷つき、自分が悪いと思い込まされてしまいます。戒めないなら、悪い人がのさばる教会になり、傷つく人が増えていくでしょう。自分の教会は説教や牧会の中で「赦しなさい。」が多く語られているか自問自答してみましょう。多かったら、問題の多い教会だと言うことです。特に権威主義の教会で乱用されています。健全な教会は、大騒ぎしないで、プロセスを踏み、問題が取り扱われます。「赦しなさい。」が人前で強調されることはありません。解決されて、「赦しなさい。」を大勢の前で言う必要がないからです。私には乱用されている「赦しなさい。」が力で押さえ込む言葉に聞こえます。聖書の言葉を理解するのに大切なのは文脈です。
by maranatha | 2010-10-03 19:19 | 赦し
宗教問題