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村上 密 Blog

<   2011年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧

断想

情報コントロール
 情報コントロールは、情報をもっている人物が、自分の利益と立場を永続させるために、都合の好いように操作することである。情報を小出しにする。情報を隠す。情報を溢れさせる。情報を片寄せさせる。情報を思い違いさせる。情報を信じ込ませる。


強者の嘘
 人の前で、強者の嘘が弱者の真実に打ち勝つことがある。しかし、神の前では、嘘は嘘であり、真実は真実である。強者の嘘の効力は一時であり、弱者の真実は永遠であり、希望がある。


経験の絶対化
 目や耳の感覚器官は不完全である。しかし、「この目で見た」「この耳で聞いた」という体験は説得力がある。体験主義に陥ったキリスト教は神学を否定し、反知性主義に陥る。これに共感する人は、知の営みを継続できない人である。


離脱
 「鶏口となるも牛後となるなかれ」(1) 
 小集団の鶏口となったのが雌鳥であったら、「雌鳥が歌えば家が滅ぶ」(2)
広辞苑によると(1)と(2)の意味は
(1)小さい集団であってもその中で長となる方が、大きな集団の中でしりに付き従う者となるより良い
(2)女が男に代わって指図をすれば、それが禍となって遂に家が滅びる
by maranatha | 2011-03-31 06:59

教会成長ムーヴメントの問題点

 日本のキリスト教は、特に福音派はピューリタンの影響を強く受けています。昔は聖書に親しみ、よく祈り、内省する人が多くいました。そして、清く、貧しく、勤勉な信仰生活を続けてきました。一般の人が持つクリスチャン像はこのような清貧の人です。しかし、そのような人を段々見なくなってきました。いつ頃からでしょうか。

 1980年代、教会成長が盛んに強調されました。始めはペンテコステがこれを取り入れ、成功モデルを宣伝しました。福音派はこれに遅れまいとして、教会成長ムーヴメントを取り入れました。この頃から、清貧から成金的に成っていきました。大教会と言われる教会の牧師のライフスタイルは清貧とは程遠いものです。

 教会成長は、信徒の数と献金の多さを祝福と見なす、現世利益なところがあります。また、教会成長は体が弱いことや貧しいことを不信仰と見なし、清さより、躍動感を求めます。理想のクリスチャン像が変わってしまったのです。教会成長のためなら、聖書的であろうがなかろうが何でも取り入れる、ハウツー重視の教会は、聖書重視のピユーリタンとは相容れません。

 教会成長を求め、それを達成できなかった牧師の中には、燃え尽き症候群が見られるようになりました。以前はなかったことです。清貧の思想には勤勉はあっても、がむしゃらはありません。活動重視の教会成長は、どこか猛烈社員を求める企業のようです。牧師への服従を要求するのも、企業に忠誠を求めるのに似ています。企業の中に燃え尽き症候群が見られるのは、頑張っても報われないことが多々あるからです。教会成長のためがむしゃらにいろんなことに取り組み、実を結ばなかったら、失望感が深くなります。望んだ祝福が手に入らないので、献身さえ疑い、暗い淵に落ち込んでしまいます。組織はどんな組織でも献身の対象ではありません。献身の対象を間違えると失望することになります。

 「彼(キリスト)に信頼する者は失望させられることがない」(ローマ9:33)聖書にこのような約束があります。失望するのは己に軸足があるからです。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(Ⅰコリント3:6)パウロの軸足は神です。私たちの軸足は己でしょうか、神でしょうか。
by maranatha | 2011-03-30 14:59

マキアヴェッリと教会成長の類似


 最近『宗教と権力の政治 「哲学と政治」講義Ⅱ』(佐々木毅講談社)を読みました。読んでいくうちに、マキアヴェッリに関する部分が、教会成長にそっくりだと思い始めました。そこで、何がそっくりと思ったか、比較してみました。教会成長に問題を感じている人の参考になればと思い、メモ程度ですが、書き留めました。

マキアヴェッリは権力をいかに獲得し、維持し、拡大するかを教えます。
教会成長は教会成長のためのハウツーを教えます。

マキアヴェッリの議論は哲学的ではありません。
教会成長は神学的ではありません。

マキアヴェッリはステート(権力)を多用します。
教会成長は権威(実は権力)を多用します。

マキアヴェッリはルールを重んじません。
教会成長はルールを重んじません。

マキアヴェッリは強い君主の必要性を強調します。
教会成長は強い牧師の必要性を強調します。


マキアヴェッリはトップダウンです。
教会成長はトップダウンです。

マキアヴェッリは装うことを強調します。
教会成長は祝福を装います。

マキアヴェッリは軍隊の必要を訴えます。
教会成長は弟子訓練の必要を訴えます。

マキアヴェッリは戦術論を強調します。
教会成長は教会成長論を強調します。

マキアヴェッリは民主制を否定しました。
教会成長は民主的な運営を否定します。

マキアヴェッリは高い道徳を要求しません。
教会成長は高い倫理性を要求しません。

 教会成長のためには何でも取り入れることが、キリスト教会に混沌をもたらしたのではないでしょうか。取り入れたのが必ずしも聖書からではないからです。聖句は使いますが、プラス思考のスローガンになっています。聖書を深く理解し、内省するタイプのクリスチャンは教会成長の教会には存在しなくなってきました。教会成長論を取り入れた教会にピューリタンが存在しなくなるのは、清貧の思想が教会成長論と相反するからです。教会が変質したのは、福音派の大半がピューリタンの影響下にあったのに、ペンテコステが教会成長を導入して成功モデルを宣伝したからです。福音派は遅れまいとして、ムーブメントを追いかけ、自分たちのアイデンティティーを捨てたのです。そこで、ペンテコステも福音派も関係ない成長すれば祝福された教会と思い込む人が増えて、教会は変質したのです。
by maranatha | 2011-03-26 08:35

東日本大震災対策

 今、京都教会で何ができるか。
地震発生と同時に東北と関東の関係者に安否確認を始めた。
原発事故による放射性物質拡散のニュースを聞き、
関係者への避難を呼びかけた。
教会を避難先(疎開先)として提案。

避難の事例

14日、仙台在住者に、放射性物質の危険性を伝え、避難を促す。
15日、仙台(宮城県庁前)から高速バスで山形(山形駅前)へ。
閉館のホテルが受け入れ。
16日、山形(山形交通バスターミナル)から高速バスで鶴岡へ(所要時間2時間半)。
鶴岡から特急で京都に到着(9時間半)。
3日間インターネットと携帯で連絡を取り、それぞれの時刻を伝えて誘導する。

現在進行形の事例

何人かの関係者が京都へ避難を検討始める。交通手段を伝える。
避難を渋る人々には、各国の大使館員や在留者、留学生が帰還を始めている事を伝える。
by maranatha | 2011-03-17 12:53

控訴

 2011年3月7日、神戸地裁尼崎支部で、平成21年(ワ)第1647号総会決議無効確認請求事件の判決が言い渡されました。原告の請求は却下されました。3月9日、原告たちは協議し、控訴することにしました。

 裁判を初めから傍聴して来た者としての感想です。裁判官は今まで何度か<宗教に詳しくない>と発言していました。原告はその発言に不安を抱いていました。判決文には、総会の「招集通知の記載に不備があるからといって、直ちに本件総会決議を取り消すべきものとはいえない。」と記載されています。事実認定しながらの却下です。教団離脱という重要な議案を事前に十分信徒に伝えないで、計画的で抜き打ち的な総会は原告を裏切る行為です。1月24日の口頭弁論で、山田博被告は、原告側弁護士の尋問に対して、何度も苦しい答弁をしました。それは、原告が不誠実な権利侵害によって傷つけられた人格が唯一慰められた出来事でした。「神に誓って」ではなく「良心に誓って」の軽さを世俗の裁判で見たからです。
by maranatha | 2011-03-11 13:38

教会はいかに裁くべきか(コリント5章と6章の関係)

 コリントの教会の中で起きている問題は、「異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいる」(5:1)ことです。このような問題がどのように扱われてきたか、類似した問題を歴史的に見てみましょう。

1 モーセの律法
「あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。」(レビ18:8)これに対する裁きは「これらの忌みきらうべきことの一つでも行なう者はだれであろうと、それを行なう者は、その民の間から断たれる。」(レビ18:29)この断たれるの意味は死です。

2、イエス・キリストの教え
イエスはペテロに「天の御国のかぎ」(マタイ16:19)を与えられました。この「天の御国のかぎ」とはマタイ18章15節から20節で、イエス・キリストが解説しておられます。それは兄弟が罪を犯したとき、どのようなプロセスで解決するかです。「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(18:17)それは、教会の交わりに入れないということです。ここでは死ではなく、関係の断絶です。

3、エルサレム会議
「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。」(使徒5:28,29) ここではどのように裁くかは書かれてありませんが、不品行に対する裁きはモーセの律法ではなく、イエス・キリストの教えが適用されます。

4、パウロの判断
パウロの「不品行」に対する判断は「あなたがたの中から取り除く」(1コリント5:2)ことです。パウロは「天の御国のかぎ」をコリントの教会の不品行を犯した人に適用しようとしました。しかし、教会は「天の御国のかぎ」を用いませんでした。教会は秩序を維持できない、無力な共同体となっています。

 コリント教会は異邦人の中にもないような不品行を犯した人を裁くことができないばかりか、「ごく小さな事件」(1コリント6:2)さえ裁くことができないで、不正をした人が世の裁判に訴訟を提起しました。パウロは不品行と不正な訴訟人を念頭に「正しくないものは神の国を相続できない・・・不品行な者・・・盗む者・・・略奪する者はみな・・・神の国を相続することができません。」(6:9、10)教会が共同体から取り除くことができなくても、神の国からは除外されることを伝えています。この世においては、破門に価する人が教会にいても、神の国では受け入れられないのです。教会の不完全さは「最後の審判」の最終判決で補われます。これがクリスチャンの希望です。
by maranatha | 2011-03-10 22:17

クリスチャンの裁判2

 前回のblogで「クリスチャンの裁判」を書きました。コリント教会のクリスチャンが裁判を提起したことについて、前提が何であるかによって結論が変わるとお伝えしました。

 今回は、当時の裁判について、重要なことをお伝えしたいと思います。私が調べた限りでは、次のことについて言及している注解書はありません。これは、コリントの裁判の問題を解明する手がかりにもなります。「ローマ法の研究からひきだされた一般的原理は、審理の過程において、絶えず広められ、裁判所もまた、ときに、これを是認したり解釈したりしたのであった。一例をあげれば、不道徳な目的のためになされた合意については訴訟を提起することはできないというローマ法の格言(不正の原因からは訴権は生ぜずexinjusta causa non orituractio)がそれである。」(*)ローマ法の一般原理では、不正なクリスチャンが裁判に訴えること事体が無効だということです。パウロはローマ市民ですから、このようなことを知っています。彼がコリントの不正なクリスチャンの裁判について否定的な見解を述べ理由のひとつとして考えていいでしょう。それは、全ての裁判を否定することではないことは前回のblogでお伝えしました。

 次に、ローマ時代の裁判について補足しておきます。
1、ローマ時代は階級社会で身分の高い人に裁判は有利でした。
2、富める人が貧しい人を裁判に訴えることが多く、職業弁士を雇うので有利でした。
3、賄賂が横行し、判決を左右しました。貧しい人は訴訟を提起されたら不利でした。
以上のことから、パウロが裁判を低く見ていることが、時代背景としてお分りいただけると思います。このような時代の裁判と今日の裁判を同等に見ることは間違いです。コリントの手紙第1の6章を、クリスチャンは裁判を提起すべきではないと解釈すると、教会は犯罪者が保護され、被害者は保護されない社会になります。神がそのような社会をお望みでしょうか。

(*)『法における常識』P.G.ヴィノグラドフ/末次三次・伊藤正己訳 岩波文庫
by maranatha | 2011-03-09 09:46 | 裁判

クリスチャンの裁判

 クリスチャンが裁判を提起すると、周囲のクリスチャンは、「なぜ、クリスチャンが裁判を起こすの?」と批判します。原告の被害内容を十分知ろうともしないで、反射的に禁めようとします。裁判に反対する理由は、パウロがコリント人への手紙(Ⅰコリント6:1~8)で裁判を否定していると思っているからです。本当にパウロは裁判を否定しているのでしょうか。正しく判断するためには、結論が何を前提としているかを知る必要があります。

 まず、「殺してはならない。」(出エジプト20:13)は殺すことの全否定ではありません。なぜなら、「殺してはならない。」とモーセに十戒を与えられた同じ神が、モーセに「おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」(出エジプト32:27)とも命じられました。結論の「殺せ」の前提は、「偶像を造ってはならない。」(出エジプト20:4)の命令に逆らって金の子牛を造ったからです。同じように「殺せ」は姦淫、御名の冒涜、父母に従わないとき等にも当てはまります。

 次に、「上に立つ権威にしたがうべき」(ローマ13:1)を取り上げてみましょう。パウロはローマ帝国の機関を「上に立つ権威」としています。パウロが「ローマ人への手紙」を書いたとき、信仰の自由がまだありました。それで、従うように勧めています。しかし、ヨハネが「黙示録」を書いたときは、クリスチャンが迫害されている時代です。ヨハネはローマ帝国を黙示録13章で獣に譬え、その獣に権威を与えたのが「竜」(すなわちサタン)であると言っています。ここでローマに従ったら偶像礼拝(皇帝礼拝)に陥ります。「従え」は無条件ではありません。誤まった牧師の指導に服従する必要はありません。また、会社の上司の法律に抵触する命令に従う必要はありません。

 パウロが、全ての裁判を否定していると判断することは早計です。ここで取り上げられている訴訟事件は「ごく小さな事件」(Ⅰコリ6:2)です。詳訳聖書では「最下級の裁判で取り扱うような〔ささいな事柄を〕審理」と訳されています。それも、不正を働き何かをだまし取った加害者(クリスチャン)が被害者(クリスチャン)に対して裁判を提起しています。パウロは「盗む者、貪欲な者・・・略奪する者はみな、神の国を相続することができません」(Ⅰコリ6:10)と断罪しています。教会はこのような盗む者に対して、教会の内で裁くことさえできないでいます。そのことをパウロは怒っています。コリントの被害者(クリスチャン)は加害者(クリスチャン)に対して告訴しました(Ⅰコリ6:6)。例えば、被害額が3万円で裁判費用が30万円だったら告訴を勧めますか。私なら勧めません。パウロも勧めないでしょう。「なぜ、むしろ不正をも甘んじてうけないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」(Ⅰコリ6:7)の意味がお分りいただけたと思います。もし、あるクリスチャンが教会の土地と建物、多額の預貯金を裁判で取り上げようとしているのに、「裁判をしてはいけない。」とパウロが言うでしょうか。盗まれるままにしておくことは、泥棒に手を貸すことで、加害者をのさばらせえることになります。パウロが黙って見ていると思いますか。責め、戒め、聞かなかったら、教会から追放したことでしょう。
 
 最後に、結論が何を前提に下されているか、前後関係をしっかり読んで判断してください。牧師が聖書の一節を取り上げて、何度も強調するとき、取り上げた聖句の前後関係を見て下さい。その強調が文脈に合っているか判断してください。
by maranatha | 2011-03-04 10:08 | 裁判

エホバの証人

 エホバの証人は定期刊行物『目覚めよ!』を発刊しています。2010年7月号の21頁を下記に掲載しますのでご覧ください。ここには神の名「ヤハウエ」がへブル語で書かれていますが、「666」と読めなくもありません。疑問に思う方は、類似した問題を扱っている「JW解約ーエホバの証人の真理を検証する」の「不思議なシンボル」を参照してください。ホームページはhttp://www.h3.dion.ne.jp/~pbwzwdq/jw/jw_kaiyaku/です。絵や数字に意味をもたせることはよくあることです。少しであれば偶然で済ませられますが、多数であれば意図的に書かれたことになります。『目覚めよ!』の中にはフリーメーソンのシンボルが多数散見されことから、エホバの証人との関係が疑われます。エホバの証人を信じている信徒にとって、エホバの証人が純粋な宗教団体かフリーメーソンの下部組織か検討するときです。統一教会がKCIAの影響下にあったことはよく知られています。また、他の宗教で外国の政府機関の人物が、宗教団体の大会に来賓として挨拶することは大いに疑問です。宗教団体に、いろいろな人が潜り込み、活動することは避けられません。シンパや「第五列」の養成は間接アプローチの戦略の一環です。統一教会の銃砲店やオウム真理教の化学兵器(サリン)製造は、宗教団体の「武装化」と見なされる危険な兆候でした。何を言いたいのかというと、宗教団体は政治家や国家、情報機関に利用されやすい団体です。エホバの証人は利用されていないでしょうか。『目覚めよ!』は外への言葉ではなく、証人への言葉として投げかけたいと思います。


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by maranatha | 2011-03-04 10:07 | エホバの証人
宗教問題