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村上 密 Blog

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乗っ取り

 韓国のキリスト教の異端である新天地が、日本に上陸し、キリスト教会に侵入していることが報じられています。この団体の特徴は乗っ取りです。熱心な信者を装い、教会活動の中心的役割を担い、時期を見て乗っ取ります。日本でも某教団ではドイツのキリスト教異端を容認する牧師によって、教会が乗っ取られました。牧師が役員会で教団批判を繰り返し、情報統制と操作で総会で離脱の決議を成功させました。教団離脱後、信者の半数強を切り捨てるという暴挙を行いました。これは広く報じられているので、日本での教会乗っ取りの事例として悪用されるでしょう。今までの相談では、2つの教会の乗っ取りを防ぎ、1教会が防げず、1教会は防戦中です。この問題の難しいところは、牧師の方が事前に対策を立てて実行に移すので、事実が先行し、信徒が後手後手に回り、信徒の協力が分断され、対策が取れにくいということです。教会規則をほとんどの教会員が知りません。教会運営を役員会に一任している教会がほとんどで、教会員によるチェック機能が果たされていません。そのような中で、対策を立て、教会を守るのは数か月から数年かかります。牧師から言葉の暴力を受け続ける教会員は精神的に大変です。しかし、教会を去れば、牧師の乗っ取りは成功します。自分のために教会を去るか、教会のために残るか、いや、自分と教会のために残るという選択もあります。何が行われてきたのかを見据え、教会の健全化のために戦うとき、はじめて教会員は自立していくのです。その時によって立つのは、聖書と、法律と、良心、教会規則です。
by maranatha | 2012-04-30 08:36

キリスト教異端

 大韓民国の人口は2008年の統計によると、48.333.000人です。キリスト教は、2005年の統計庁の発表によると、約3割です。クリスチャン新聞の2010年5月2日号では韓国の異端がキリスト教の25%に急成長していると報じています。アジアでも有数なクリスチャン人口を有する韓国で何かが起きています。韓国には40人のキリストを自称する人物がいます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4)「また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」(マタイ24:11)キリストが世の終わりの前兆として語られた内容の一部です。クリスチャンの4人に1人が異端とはいったいどういうことでしょう。キリスト教会が眠っていたわけではありません。対策も立てられてきました。しかし、大半の教会は自分の教会の成長に多くの時間を割いてきたのが実情です。牧師の権威が強調され、牧師中心の権威構造が作られている中で、このようなことが起きているのです。第2次世界大戦前後キリスト教は、民族主義と結びつき、急成長しました。1980年代には、更に繁栄の神学と結びつき、急成長しました。イデオロギーやキリスト教のおかしな神学と結びつきが、脆弱な教会体質になったのでしょうか。今や、韓国でもカルト化した教会が急成長しています。これは日本でも同様です。更に韓国発の異端が日本に浸透していることはすでに知られています。なすすべもなく浸食されている状況を警戒し、対策を立てている教団はわずかです。日本のキリスト教の3大異端、統一教会、エホバの証人、モルモン教の公称信者数の合計は約80万です。これはプロテスタントとカトリックを合わせて約90万人と言われるクリスチャン人口に匹敵します。韓国のキリスト教異端人口の割合より、日本のキリスト教異端人口の割合が断然多いということです。すでに公然と惑わしが浸透しているのです。
by maranatha | 2012-04-30 08:35

本当にそうか

 『獄中からの讃美』『讃美の力』(マーリン・キャロザース)を読まれた方は多いと思います。その本の影響を受けた方々は、次の聖句を生活の中で実践し、人にもそれを善意から勧めます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)果たして、紋切り型的に勧めて良いのでしょうか。

 「いつも喜んでいなさい」は、「いつも」であって「何でも」ではありません。その「いつも」はこの世と調子を合わせた事柄ではなく、「いつも主にあって喜びなさい。」(ピリピ4:4)にあるように、「主」と結び合わせて考えるべきです。家族の誰かを亡くしたら悲しいです。「いつも喜んでいなさい。」と言われたら、とても喜べません。けれども、家族として過ごせたことは喜べます。そこで、「○○が亡くなって悲しいです。けれども、共に過ごせたことを感謝します。」と祈ることはできます。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:12)とあります。泣いている人に、喜びなさいとは書いてありません。けれども、泣いている人が、この悲しみの中にも、神が共にいてくださることを感謝して、祈ることはできます。

 「絶えず祈りなさい。」カルト化した教会を出たクリスチャンは、しばしば祈れなくなります。「神さまを信じていたのに、神さまはどうしてこんなことが起きることを許されたのか。」「助けて下さいと祈ったのに、神さまは聞いてくださらなかった。」神に失望して、祈ることをやめたクリスチャンにたくさん会いました。「絶えず祈りなさい」と私はお勧めしません。「私は祈れませんと神さまに語りかけたら」と勧めます。「語りかけでいいからね。」と。祈りに反発を覚えるからです。私たちの祈りは、しばしば自己中心的です。私たちの祈りがことごとく実現していたらと思うと赤面します。強欲で高慢な人になっていたかもしれないからです。座して祈ることを祈りだと思うと、いつまでも祈れません。歩きながらでも、日々の中で、「主よ。私を導いてください。」「私をお助けください。」と短く語りかけることはできます。何かを失ったりした時、私は救われていることを感謝して祈ります。「私はあなたから一番すばらしい救いを頂きました。これに勝るものはありません。」この祈りは私に喜びと平安を与えてくれます。一番大切なものは失っていないからです。どんな状況でも、状況は感謝できませんが、神がどんな状況の中でも共にいてくださることは感謝できます。ですから、私の場合は「絶えず祈りなさい。」は対応できます。祈れない人は従来の祈りができないのであって、祈り方を変えれば、祈れるようになるかもしれません。

 「すべての事について、感謝しなさい。」この感謝は、すべての事の中に神が働いてくださると信じることができると、受け止めることができます。神がすべてを支配しておられると信じ、神の主権を信じるとできます。ところが、カルト化した教会では、悪魔の活動を強調して教えられているので、感謝より、戦いのことばが多くて、心が不安定です。「先祖の因縁を断ち切る」「○○の霊を断ち切る」「○○の罪を断ち切る」「○○の霊よ出て行け」彼らは感謝するより、すべての悪しきことに対して戦いを挑み、攻撃的なことばを吐きつづけています。そうして。恐れの念に支配されています。勝ちつづけているより、負けつづけている感じが勝っているからです。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)と言う約束は、起きた出来事を思い出しては残念な思いになりがちな私たちに、未来に希望をもたらす言葉です。ただし、思いもよらないことが起きた直後、人から聖句を押し付けられたらいい気持ちはしません。証もそうです。湧いた感情を否定されないなら、人は他の人の言葉を受け止められます。穏やかな提案であれば、反発する必要はありません。命令や強制に対して過敏になっている人には、提案調で良いと思います。悪魔の働きを感謝することはできませんが、悪魔から私たちを守ってくださる神さまに感謝することはできます。聖書では迫害に対して感謝していませんが、迫害の中でも神が共におられることや宣教が進んでいることを感謝しています。

 御言葉の意味が少し分かりかけたり、受け止め方を学ぶと今まで押し付けがましかった御言葉が違ってきます。本当は良い言葉が歪められたりして、傷つけることばになっているのは残念です。この機会に思い直していただければ幸いです。『獄中からの讃美』『讃美に力』は積極的思考に傾き過ぎています。聖書の一部を集めて強調しすぎると、聖書が言わんとしている事が歪められます。感謝できないと不信仰に思われるから、無理をして「感謝します。」は信仰を育てません。信仰からではなく、不信仰と思われたくないと言う防衛意識から出ているからです。聖句をたくさん覚えて、会話の中に聖句を使うと信仰的に見られるので使うでは、信仰の成長になりません。それは誉められたいと言う意識から出ているからです。もし、何か気にかかっている聖句があれば、静まって考えてみましょう。
by maranatha | 2012-04-27 17:02

主の十字架クリスチャンセンター

都合と不都合
 主の十字架クリスチャンセンターは、教会のカルト化の代表的な教会です。現在の活動内容をホームページで見てみました。『獄中からの賛美』『賛美の力』で有名なマーリン・キャロザースとの交流が恒例となっています。今年の3月に米国で開催された「2012感謝と賛美とリバイバルキャンプ」では、マーリン師と大川従道師が講師です。大川師が問題視されている教会の講師として招かれることを、大和カルバリーチャペルでどのように紹介されているか、2012年3月25日の週報を見てみました。「石の枕」には「明日突然ですが、渡米します。マーリン・キャロザース先生とお会いします。」これは事実ですが、一部です。突然ではありません。講師として招かれるのですから、計画的です。事実が省かれています。主の十字架クリスチャンセンター側では、ホームページ内で紹介されています。しかし、大和カルバリーチャペル側では、キャンプの講師の件は伏せられています。宣伝としての効果と不都合な事実が見てとれます。

吟味
 教会がだれを講師として招くか、講師がどの教会に行くか、これは双方にとって、とても重要なことです。「招かれたらどんな教会でも行く、出されたものは何でも食べる」をうたい文句にしている人がいますが、見直さなければならない時代が来ています。特に、カルト化した教会が自分たちの「健全さ」をアピールしようと、著名な講師を招くケースがよくあります。知らなかったでは済まされないことです。なぜなら、カルト化の被害者は、講師が利用されたと善意に解釈しないからです。被害者は講師の無神経な行動で傷つけられています。それで、その後被害者は講師を加害者側に置いて批判し始めます。それは講師にとっては不都合でしょう。
by maranatha | 2012-04-23 08:04

魂の病院

 国会図書館、琉球大学、神戸女学院、明治学院、首都大学東京、茨城大学の各図書館に刻まれた共通の言葉は、新約聖書にある「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8:32)という言葉です。「あなたがた」の中には、カルトの奴隷(宗教的奴隷)が含まれています。彼らの自由の回復のために、長年カルト問題に取り組んできました。牧会(パストラルケア)を教会に限定する人がいますが、私は限定しません。牧会は「魂への配慮」と言われ、救いと自由(解放)を求めるすべての人に開かれたものです。1980年代、心理学を応用したカルトの研修会等で、心を病む人々が出てきました。その原因は、宗教的な恐れや誤った罪意識による心身の疲労です。牧会カウンセリングでは、真理を語り、誤りを正しています。真理は心を病んだ人々をも自由にするからです。「知識がないことは心の病」という言葉が刻まれた図書館があります。NHKのシリーズ世界遺産100で紹介されたザンクト・ガレン修道院の図書館です。ここは中世ヨーロッパにおける神学研究の拠点で、真理である聖書を学ぶ施設です。中世の修道院は、肉体も魂の病気も扱いましたが、図書館はその魂の病院です。そして、自由と癒しをもたらすものは、図書の中にある真理です。
by maranatha | 2012-04-18 09:31

天の御国のかぎ

 イエスはペテロに「天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19)ここでは「あなた」ですが、「あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐ(禁じる)なら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解く(赦す)なら、それは天でも解かれているのです。」(18:18)ここでは「あなたがた」です。天の御国のかぎはペテロだけではないことが分かります。弟子そして教会に与えられていると判断することができます。

 イエスは天の御国のかぎを使いました。「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。『異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤの家に行ってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。』」(マタイ5,6)イエスは、異邦人とサマリヤ人への宣教を禁じ、イスラエルに限定しています。しかし、「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(28:18、19)とあるように、イエスの十字架と復活を通して、イスラエル限定を解きました。

 
 弟子たちは天の御国のかぎを使いました。エルサレム会議です。会議では、異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守るように命じるべきであると主張するものたちがいましたが、「聖霊と私たちは、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。」(使徒15:28、29)と異邦人教会に伝えるように決めました。 天の御国のかぎは、イエス・キリストをメシア(救い主)と信じる共同体(教会)の中に起きる様々な問題を扱う決定権を指しています。信仰する兄弟間での罪の問題をどのように処理するか(マタイ18:15~20)、マッテヤに使徒職の地位を継がせること(使徒1:15~26)、配給の件(使徒6:1~6)、ヨーロッパ伝道(使徒16:6~10)等は、いずれも教会における重要な決定です。

 
 今日、礼拝厳守、十一献金厳守を聖書的と教える教会がありますが、それは聖書的ではなく、律法的です。割礼を守らせている教会があるでしょうか。いいえ、ありません。律法的だからです。自ら進んで、日曜礼拝を休まないことは問題ありません。しかし、厳守するように命じることは律法的です。自ら進んで、十一献金することは、問題ありません。しかし、必ずしなければならないものと命じることは律法的です。礼拝厳守と十一献金厳守は、個教会が決定したことだから、それは天の御国のかぎを使ったことだと主張するならば、エルサレム教会会議で解かれたことを再びつなぐことになります。律法的です。
by maranatha | 2012-04-11 07:15

天の御国のかぎ

 天の御国のかぎについて考えてみました。16章(13~20節)と18章(15~20節)を読み比べれば、天の御国のかぎはペテロだけではなく、信仰の共同体である教会に与えられていることが分かります。「つなぐ」(16:19,18:18)「解く」(16:19、18:18)の意味は、「禁じる」「赦す」です。16章で語られた言葉が、18章では具体的に説明されています。イエスご自身の生涯の中で、このかぎを使用されたかどうか見てみましょう。イエスは福音宣教をイスラエル以外を禁じておられました。「イエスは、この一二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。『異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町へはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。』」(マタイ10:5,6)しかし、イエスは十字架と復活を通して、天においても、地においても、いっさいの権威を与えられて、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と世界宣教を命令されました。ここでつながれていたこと(禁じられていたこと)、解かれています(赦されています)。もし、禁止命令が解かれていなければ、私たちのところに、福音は届かなかったのです。これは私たちと世界を変えた言葉です。このかぎを使徒たちがどのように使ったかを見てみましょう。パリサイ派の者で信者になった人々が「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守らせることを命じるべきである。」と主張しましたが、使徒たちは会議で「偶像に供えた汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように」と決定しました。異邦人を律法遵守から解いたのです。この決定が、ユダヤ教とキリスト教の分岐点となりました。異邦人に対しては、少ない禁止事項を守るように勧めました。ですから、律法の十分の一のささげものを、現代の異邦人教会に義務として要求するのは聖書的ではありません。ただし、教会の規則に「十分の一献金は信徒の義務」と書かれてあれば、その教会の中では義務となります。それは聖書的な取り決めではなく、規則による取り決めです。聖書の中には、異邦人教会に対して十分の一献金の勧めは一度も出てきません。当然です。エルサレム会議の決定を、異邦人教会が受け止めたからです。
by maranatha | 2012-04-06 07:56

偽預言者

 近年、キリスト教界で問題となっているのは「預言」です。預言者でない人が、他人の未来について預言したり、個人の隠れた罪を指摘して悔い改めを勧めたり、裁きを伝えたりしています。それは当たったり、外れたりします。それでは巷の占い師と変わりません。聖書の基準で、預言を吟味する必要があります。申命記(18:18~22)には、真の預言者と偽りの預言者を見分ける方法が書いてあります。「預言者が主のみ名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(22)この基準では、現代の預言者は、不遜にも主のみ名で語っていることになります。申命記では「その預言者は死ななければならない。」(20)と断罪されています。今日では、このような厳しい基準を、預言するものが自分自身に対して当てはめていないのが現状です。厚かましくも預言者と自称している人物たちには気を付けましょう。そして、預言者と自称しないけれども預言の賜物が与えられていると自称している人物にも気を付けましょう。なぜなら、預言が神からのものであるならば、必ず実現するからです。しばしば、預言を人々が歓迎するするのは、学問的な権威でもなく、教会的な権威でもなく、それが神からのものと思われるからです。それは、人々が神からの直接的な啓示を待ち望んでいる表れでもあります。日常を変える力を望む心には危険が潜んでいます。聖霊によって必ずしも語っているとは証明できないからです。惑わしには、人々の期待に応える振りをして、人々を利用し、支配しようとする思惑が潜んでいます。キリスト教の諸教派では、牧師や伝道師、教師、宣教師を任命してきましたが、預言者を任命することをしてきませんでした。それは群れを守り、聖書に基づく信仰の継承を重んじてきたからです。このような立場をを否定し、自分を権威化する人物がいたるところに出てきました。これこそ聖書が警告している偽預言者です。
by maranatha | 2012-04-04 22:18

京都の桜

 京都には桜の名所がたくさんあります。わたしのお勧めは仁和寺の御室桜です。うつくしい桜の園に入ると香りが楽しめます。上品な桜餅の香りのようです。樹高は3m前後、京都では鼻の低い美人に譬えて「わたしは御室の桜です。」と言います。わたしの熊本の叔母は背が低く「わたしは御室の桜です。」と言っていました。次のお勧めは、「花の寺」とも呼ばれている勝持寺です。北面の武士佐籐義清が出家をした寺として有名です。西行は「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と歌を詠み、その通り旧暦2月16日に入寂しています。15日が満月で、望月です。「望月のころ」とは前後を含める言葉です。望月に照らされた満開の桜のころ亡くなるとは、生きざまも死にざまも見事です。同時代の平清盛とは違った生き方をした人物を偲ぶため、花の寺へ行くのも良いものです。
by maranatha | 2012-04-02 20:38
宗教問題