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村上 密 Blog

<   2013年 01月 ( 17 )   > この月の画像一覧

証言

 証言を依頼されて、それを断る人の心境はどのようなものだろうか。ヨハネの福音書9章には、盲人の息子をだれが癒したのか、証言を断る両親が出てくる。ユダヤ人の会堂から追放されたくないために、両親は保身に走った。ある裁判で証言を依頼された人々がいたが、証言を断った。加害者に不利な証言をしたら安心して暮らせないからである。神の前に生きることよりも、安心して暮らすことを選択したのである。教会のカルト化の中で被害者が生じている。しかし、被害者のために証言してくれる人がどれだけいるだろうか。恐怖と不利益が証言を阻んでいる。不利な状況の中で、被害者はなぜ戦うのか。それは真実を知ってほしいからである。被害者がこれ以上でないようにしたいからである。証言できるのに証言しない人は、被害者にとっては真実を証言しない冷たい傍観者である。なぜなら、助けることができるのに助けないからである。時と場合によっては加害者よりも被害者を傷つけることがある。クリスチャンはキリストの証人、真実の証人であって欲しい。
by maranatha | 2013-01-30 18:03

修道女フィデルマ

 ピーター・トレメインは、7世紀のアイルランドを舞台に、数々の事件の謎を解く、先王の王女で法廷弁護士の資格を持つ、修道女フィデルマを魅力的な人物として描いている。シリーズが創元推理文庫から刊行されている。司法と聖書の立場から事件の解決に挑む彼女の叡智は、現代の宗教問題に取り組む人々に勇気を与えてくれる。『王妃の離婚』(佐藤賢一集英社)を読まれた方、この手の小説を読みたいと思ってお方には絶好の本である。
by maranatha | 2013-01-29 12:04

オバマ大統領の2期目の就任式の祈祷はだれか

 オバマ大統領は、21日に2期目の就任式を迎える。興味があるのは、だれが今回祈祷を担当するか。予定されていたパッション・シティー教会のルイ・ギグリオ牧師は、同性愛を否定した過去の発言から、祈祷の担当を下ろされた。代わりに、同性愛を支持する聖公会のルイス・レオン司祭が祈祷を担当する予定だ。アメリカの伝統的な価値観を否定する今回の交代劇は、アメリカの宗教界に大きな驚きを与えている。前回のリック・ウォレン牧師を支持する立場ではないが、なぜ継続して祈祷を担当しないか知りたい。以前、この役割はビリー・グラハム氏の指定席だった。彼についても私は支持していない。なぜ、両氏を支持しないか、私の過去のブログを参照していただきたい。
by maranatha | 2013-01-21 09:11

油注がれた方に手を下すな

 部下はサウルを殺すようにダビデに告げるが、ダビデはそれを拒否した。「私が、主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対できないことだ。彼は主に油注がれた方だから。」(Ⅰサムエル24:6)これは権威主義の牧師とカルト化した教会の牧師の強調する聖書箇所である。この聖句を用いて、彼らは自分への批判や訴訟を押しつぶす。サウルはダビデに対して自分の悪いことを認め、謝罪している。彼らは自分の悪いことを認め、謝罪することはない。「手を下す」とは殺すことである。ダビデはサウルを殺そうとしたことはないが、サウルはダビデを殺そうと執拗に追跡した。それでもダビデはサウルを殺そうとはしなかった。サウルが油注がれた方だからだ。どの時代にも主君殺しはよく思われない。カルト化牧師を殺そうとする人はいない。教会員が牧師に対して批判するのは、今のままの教会運営はよくない。改善の要求である。それに対して「手を下してはならない」とは拡大解釈もはなはだしい。牧師が罪を犯しても、教会員の要求は悔い改めてほしいで終わる。しかし、それに対しても拒否である。彼らは頑なである。サウルにも及ばない。このような愚かな牧師に対して従う必要もない。ましてや悔い改めてもしていない牧師を赦してあげる必要もない。教会を正常化しようと思うなら、牧師の犯した犯罪は、刑事事件は刑事訴訟で、民事事件は民事訴訟で、粛々と法の下で裁きを勧めることである。なぜなら、教会は彼の支配下にあり、正しい裁きを期待できない。聖書のもとで平等を得られないなら、法のもとで平等を用いるのも知恵である。虐げられ続けることはない。法廷に立てば、被害者の立場は逆転する。加害者が法で裁かれる。教会では被害者が裁かれてはいなかったか。牧師は教会内で自分の絶対性を強調する。しかし、教会員は教会規則に準拠する教会運営を取り戻すべきだ。教会に独裁者はいらない。独裁者を排除するためには法を用いる。それは悪いことではない。放置していることが悪いことである。
by maranatha | 2013-01-18 17:15

権威の誤用

 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ13:1)権威の誤用は、この聖句をどのように解釈するかにかかっている。

 ペテロは、最高議会の命令を拒否している。最高議会は「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない」(使徒4:18)と命じたが、ペテロは「神に従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分が見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒4:19、20)このように命令を拒否している。

 ヨハネは、黙示録の13章において「権威」を4回使用している。この権威は神からのものではなく、竜からのものである。ローマの迫害下にあった当時の教会は、ローマの政治的権威に無条件で従ったわけではない。皇帝礼拝を拒否したことはよく知られている。

 パウロは、裁判の中で大祭司に反論している。大祭司がパウロの口を打てと命じたからである。パウロは打たれる理由がない。確かに「あなたの民の指導者を悪く言ってはならない。」(使徒23:5)。しかし、それは無条件ではない。民の指導者は、民の構成員らしく民に振舞うときのみ、尊敬を受けることができる。ミドラシュ(ラビの聖書注解書)を引用して反論しているわけである。

 権威主義の牧師やカルト化教会の牧師は、牧師の権威を振りかざす。「私は神に立てられた牧師である。」「神の代理人である。」これは権威の誤用である。彼らはローマ書13章1節を用いて、無条件の服従を教会員に要求する。しかし、無条件に従う必要はない。彼らが神に従っていないからである。彼らは次の聖書の言葉に従っているだろうか。「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」(マルコ10:44)「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(Ⅰペテロ5:2、3)これを守っているならその牧師は尊敬に価する。しかし、聖書が示す牧師像にいかに遠いことか。権威に従うことを無条件と誤解すると悲劇が起きる。時には、ペテロのように、ヨハネのように、パウロのように、抵抗することもクリスチャンの選択のひとつである。
by maranatha | 2013-01-18 12:48 | 権威

奥山実氏の問題発言

 2013年1月11日、12日に、沖縄キリスト教学院大学で、沖縄福音連盟(OEF)有志教会主催の第51回OEF新年聖会が開催された。講師は奥山実氏である。クリスチャントゥディは、この聖会についての記事を書いているが、問題を指摘してはいない。奥山氏は<改革派は携挙を信じないので再臨の時地上に残される>と、改革派の牧師も教会員も出席している聖会で発言している。これは福音主義に立つ教会に対して大変失礼な、そして、一方的な立場からの高慢な発言である。満座の中で精神的虐待を与えたに等しい。「日本基督改革派教会創立20周年記念宣言」の「歴史」の中には、「恵みの契約は・・・キリストの受肉と十字架と復活によって成就され、再臨において完成される」と書いてある。改革派は再臨を否定しているわけではない。改革派が再臨の時に地上に残されると言う発言は見過ごしできない。福音派の神学は、カルヴィン主義とアルミ二ウス主義を両翼として、歴史の中を飛んで、今日に及んでいる。その一つの翼をもぐような発言は、福音派の将来に禍根を残すことになる。ここで沖縄福音連盟に、一言苦言をしておきたい。奥山氏の発言をそのまま放置して、改革派の教会に対して誠意ある対応をしないなら、沖縄福音連盟は信頼を失うであろう。聖会の内容については、ここでは控えめに書いている。読者には、情報を収集し、吟味し、今後の参考にされることをお勧めする。
by maranatha | 2013-01-17 16:55

楽天の社会貢献

 日本経済新聞の楽天の三木谷浩史社長に関する記事が連載されている。楽天は社会貢献に熱心な人が多いそうだ。会社には企業の社会的責任担当の執行役員がいる。三木谷氏は創業の頃に社会貢献の志を掲げた。そこにあるのは儲け主義ではなく社会との共存である。志を高く持って生きる企業人に共感を覚えた。
 私はブログで何度も教会成長の問題点を指摘してきた。教会成長は、競争原理をキリスト教界内に導入し、大きい教会は祝福された教会というイメージを広めてきた。その結果、教会が、数量(教会員数・献金額)を追及するようになり、伝道に力を入れるばかりか、転入(他教会からの移動)を奨励する教会も現れた。このムーブメントの弊害は、成長という目的のためには手段を選ばない教会が問題を起こすことである。企業の儲け主義的なところがあり、教会の社会貢献に関心はない。もし、あるとすれば宣伝として役立つという考え方である。キリスト教では社会的貢献(社会的責任)を強調する教会は「左派」とのイメージがある。言葉が与える力は恐ろしいものである。福音派では、戦後長くこの社会的貢献を遠ざけていたきらいがある。しかし、キリスト教の徳目である隣人愛を放棄して、キリスト教は社会の中でどうやって共存して行くのだろうか。キリスト教が、明治に禁教を解かれてから、社会に浸透し、尊敬を得たのは社会的貢献を果たしたからである。
by maranatha | 2013-01-12 11:42

水はいつから存在するか

 水はいつから存在するのか。この問いに、答えてくれる記事があった。科学者が、地球の海水の100兆倍の水が、120億光年離れたクエーサー(准恒星状天体)に存在すると明らかにした。ビッグバン説によると宇宙の誕生は136億光年前にできたと言う。16億光年後には、水が存在したことになる。因みに太陽は46億年前に誕生した。太陽より前に水が存在していた。創世記にも、太陽より前に水が存在している。科学と聖書の興味深い一致である。

*「地球の海水の100兆倍 120億光年」を検索すると関連記事が掲載されている。
by maranatha | 2013-01-10 22:11

イエスとサマリヤの女

 ヨハネの福音書4章に、この物語がある。ヨハネの本書の目的書いている。「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(20:31)この箇所は、サマリヤの女が、如何にしてイエスがキリストであるかに至ったかをしっかり記録している。女は、「あなた」「先生」「預言者」「キリスト」と段階的にイエスに語りかけ、イエスとの対話を通して信仰に至った。何が「あなた」を「先生」に至らせたのか。何が「先生」を「預言者」と思わせたのか。何が「預言者」を「キリスト」と思わせるに至ったのか。イエスは、誰も拒むことはないであろうを「水」を、差別されている女に求められた。もし、イエスから親切も申し出られたならば、女は頑なに拒んだことだろう。小さな親切を求められるところから、築きにくい関係を築こうとされるイエスの配慮が見られる。女は「あなたはユダヤ人なのに・・・どうしてサマリヤ人の」女の私に、お求めになるのですか。」女にとってはありえない出来事であった。女が「あなた」を「先生」にかえたのはイエスが「生ける水を与える」と語られたからである。女はこの水は渇くことのない水を求めた。しかし、これを得るためには、狭き門を通らねばならなかった。それは自分に正直なること。女は「夫をここに呼んできなさい。」に対して正直に答えた。女が語る以上に女の状況を言い当てられるイエスを、今度は「預言者と思います。」と語りかけた。しかし、キリストに至ってはいない。では何がこの見知らぬ「あなた」を「キリスト」に至らしめたのであろうか。それは、イエスが礼拝について奥義を語られたからである。イエスはサマリヤ人が礼拝する場所を否定したばかりか、ラジカルにもユダヤ人が礼拝する場所をも否定し、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのからです。」神を「父」と呼び、場所に捉われない、心からの礼拝を求めておられると解かれるイエスに、女は「キリスト」を思い起こし、「その方が来られるときには、いっさいを私たちに(サマリヤ人)に知らせてくださる」と。女は差別することなく真理を解かれるこの人に「キリスト」を見たのである。神は、人に指差される生活をする女であっても、心の片隅に抱いている希望に目を留められた。「サマリヤを通っていかなければならなかった。」(4:4)これは摂理を現す言葉である。父が計画されたことをイエスは行われた。信仰は、他人で会った「あなた(イエス)」と「私」を間を、なくてはならない関係にすることである。
by maranatha | 2013-01-10 15:23

動物たちの小話



 神学校に宿泊したとき、部屋の扉が閉まっているのに、椅子に猫の毛が落ちていた。どこから侵入したのか部屋を調べると、バスルームの扉と窓が開いていた。よく見ると、窓の桟に足跡が。次に、バスの縁にも。そして、バスルームの床に、滑った足跡が。思わず笑ってしまった。

イタチ
 屋根裏にイタチが登って騒がしいと聞いたので、登り口を捜して、バラの枝を切ってばら蒔くように勧めた。効果はてきめん。野生の動物にとって、足はいのちである。傷ついて獲物を追いかけられなくなったら死活問題である。足場の悪い所にわざわざ来ることはない。

へび
 開拓伝道の最初の年、なかなか人が来ない。玄関の戸を開け、窓を開け、鳥でも虫でも蝶でもトンボでも何でも入れるようにしていた。夜は机のライトに蛾がやって来てもしめないでいた。ところがある日、20センチ程の小さなへびが玄関の敷居を超えようとしていた。思わず目と目が合ってしまった。ここはお前の来るところではないと声をかけると、外へ行ってしまった。


 開拓伝道1年目、窓を開けっぱなしで寝ていると、胸が苦しい。金縛りにあって動けない。手と足の先を少しづづ動かして、やっとの思いで目を開けると、近所の黒猫が僕の胸の上で寝ていた。思わずわっと驚いたら、猫の方がもっと驚いた。飛び上がって逃げていった。来る者は拒まずと言うけれど、胸の上に来るとは思わなかった。


 ある日、鳶が空から河原に急降下した。バサバサと音がするので見に行くと、飛べずにいた。へびにでも噛まれたのだろう。捕まえて肩に乗せて歩いていると、土地の人がこんなの見たことないと言う。しばらく遊んでいると回復したのか、飛んでごらんと言ったら飛び立って行ってしまった。その後何もない。鶴だったらどうなっただろうか。


 小学生の時、犬を飼っていた。名前はコロ。呼べばどこからでも駆け寄ってくる。コロ。コロー。コ~ロ。コㇿ。コロコロ!。みんな自分の名前とわきまえている。ある時、父が車でバックをすると、いつもはすぐに動くのに、ひかれてしまった。私は泣きじゃくって、コロを抱き上げ、自転車ののせて家の墓地に行った。一番いい所に穴を掘り、葬った。父は怒らなかった。
by maranatha | 2013-01-09 10:46
宗教問題