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村上 密 Blog

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沖縄大使

 「沖縄大使」、耳慣れない言葉である。沖縄タイムス(2013年9月26日)に「高田沖縄大使が本社表敬」とある。国内に大使を派遣するとはどういうことだろうと思って検索したところ、民主党の早川久美子議員の2013年3月の外務委員会での質問への答弁が一番詳しい。疑問に思った方は、「早川久美子」「外務委員会」を検索すれば確認できる。答弁に「北海道担当大使」「関西担当大使」「成田担当大使」が出て来たのには驚いた。京都に30年近く住んでいるが「関西担当大使」を聞いたことは一度もない。
by maranatha | 2013-09-28 21:08

神との平和

 カルト化教会を脱会或いは退会した信者は、神の裁きをことさらに恐れている。もし、神との平和を教えられていたら、恐れることはない。パウロは私たちが義と認められたことによって神との平和を持っていると教えている。それは、私たちの罪が無罪放免となり、罪責から赦免されたことを表す。それゆえ、私たちは、神を恐れる必要はない。むしろ、神は罪深い私たちを救てくださり、私たちの将来がむしろご自身の栄光を現すように取り計らってくださるのである。だから、私たちは希望をもって、喜んで進んで行け。カルト化教会を脱会した或いは退会した信者は、ある種の後遺症を抱えている。艱難が来ると、神の裁きだと思い込み、憂鬱になる。キリスト者を迫害したパウロは、キリストをメシアと信じ、神との平和を持った。それで、彼は「艱難はさえ喜んでいます。それは艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ロマ5:3、4)神との平和を持っていると、艱難への見方が違ってくる。艱難にだけ目を向けるのではなく、艱難の向こうを信仰の目で見るようになる。神が善にして善なるお方と信じているからである。まず、カルト化教会から脱会或いは退会できたことを喜ぼう。独裁者から解放され、自由を手に入れたのだから。神の裁きは、神を知っていると言いながら、神の教えに従わないで、信者を虐待している牧師に下る。下っていない今の状態を我慢できないで怒るのではなく、必ず下ると信じることである。神の裁きは不敬虔な者の上に絶えず下されている。神は、私たちの罪を贖ってくださるばかりか、失ったものさえ、違ったかたちで回復してくださるお方である。神との平和を得てる私たちは、将来に希望を持って歩み出せる。
by maranatha | 2013-09-23 23:05

自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(新改訳 レビ19:18)
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」新改訳 マタイ19:19)
「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」(口語訳 レビ19:18)
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」(口語訳 マタイ 19:19)

 ある人が「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」の「自分を愛するように」はどのように愛することでしょうか、と真剣な質問をしてきた。いろいろと注解書を調べてみたが「自分を愛するように」について十分な解説はなかった。隣人愛を勧めている聖書箇所であるから、十分でないことは分かる。他にもいろいろ調べてみたが、なかなかふさわしい解説を見つけることはできなかった。また、聖書の中に、自分をどのように愛したらよいかを教えているところも見当たらない。新約聖書では「愛する(マタイ19:19)」はアガペーで表現されているから、自己愛、自己中心な愛を勧めているわけではない。それでは、自己犠牲的な愛(アガペー)で、自分を愛する(アガペー)ことができるのかである。キリストの私たちへの愛を知って、私たちは自分の愛する(アガペー)ことができるようになった。キリストは十字架に架かって、私たちの罪を赦して下さった。これほどまでにキリストは私たちを愛してくださった。罪深い自分を愛することはできないが、罪赦された自分を感謝して受け入れることはできる。何かをする力を十分持ていない自分を愛することはできないが、神が共にいて力を与え助けてくださる自分を受け入れることはできる。神の愛から離れた自分ではなく、神の愛の中に生きる自分、神との関係が断たれた自分ではなく、神と共に生きる自分を愛することはできる。それでは、私たちが自分を愛する(アガペー)のは神の前に正しい生活を過すことができるときだけか。いや、私たちは神を信じていながら、罪を犯すことがある。その罪から神の下に帰るために、自分の罪を憎み、悔い改めるとき、実は自分を愛しているのである。なぜなら、神とのあるべき姿、あるべき姿に帰ろうとする生き方は、神のみ心にかなっているからである。だれも、罪を犯さずに生きていける人はいない。私たちは罪赦された罪人である。しかし、罪に甘んじ、悔い改めることをしないで、罪にまみれて生きるなら、悔い改めを説いてあられる神を軽んじることになる。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)が先立ってこそ、自分と隣人を愛することができる。自分と向き合い、自分をどのように愛するかを問うても答えは出てこない。自分と神との愛の関係を築かなければ、自分を愛することはできない。だから、自分をどのように愛するかは、神を愛することから始めることである。罪を犯し、神を恐れ、自分の弱さに泣くときも、神の前に正直に悔い改めて生きること、これもまた、自分を愛することである。随分と長い回答になってしまった。思い切って自分を愛することはどんなことか、短い回答にするならば「義人は信仰によって生きる」ことである。最初に回答すればいいのにと突っ込まれそうであるが、長々と書いていて最後に湧いて出た回答である。
by maranatha | 2013-09-18 08:21

繁栄の神学 最新情報

繁栄の神学の指導者 ケネス・コープランドに関する韓国発の情報
ハングルであるが自動翻訳で文意は充分に知ることができる。
http://news.sbs.co.kr/section_news/news_read.jsp?news_id=N1001960934
by maranatha | 2013-09-06 21:56 | 繁栄の神学

さばいてはいけない 


  「さばいてはいけない」(マタイ7:1)は、カルト化教会でよく使われる聖句である。この言葉は、聖書が伝えたい内容をしっかり知るまでは、カルト化教会を脱会しても痛みを伴う。これは人のあら捜しを戒める言葉である。兄弟(信仰者の同胞)の目のちりを取り除く親切を申し出ていながら、自分の目の梁(誤った判断力)を取り除かないことは、偽善的である。
 カルト化教会では、さばきそのものが否定される。それは、やがて牧師がさばかれないための布石である。その割には、牧師はよく人をさばく。イエス・キリスト、預言者たちは、人の偽善や不信仰をさばいた。キリストの倣う者がキリスト者であるなら、さばきを否定することこそ、寛容を装った偽善である。さばく人に必要なのは、正義、公平、憐れみである。うわさに基づいた批判ではなく、事実に基づいた批判でなければ、目の梁を取らないでさばくことになる。
 カルト化教会で傷つけられたクリスチャンが、さらに傷つけられるのは、傷を癒そうとして、他の教会を訪れる時である。牧師に事情を話して、以前の教会を「さばいてはいけない」と忠告されると、ここでも同じことを言っている、という思いが湧いてくる。この時、傷つけられた人は、なぜ、あなたはカルト化を防ごうとしないで、カルト化教会を庇うのか、それではあなたはカルト化の加担者か、と受け取ってしまう。
 牧師が、被害者に寄り添わないで、第三者として諭すことは、公平を装った偽善と取られる。カルト化教会の被害者は、回復のための教会を捜している。牧師は耳を傾け、自分の判断をしばらく控え、心の痛みに耳を傾け続けていただきたい。性急な対応は、心に壁を作らせるだけである。
by maranatha | 2013-09-03 15:18

後の雨運動について

 後の雨運動については、「村上密blog」「後の雨運動」をキーワードにして検索していただきたい。日本ではこの件での情報は少く、問題性があまり知られていない。しかし、現在のカルト化教会の原因ともいえる内容を含んでいるため、注意していただきたい。エンパワード21を推進する人々の中に、後の雨運動の信奉者が多数含まれていることは、すでに、何度も私は指摘している。知らないで、関わることは、牧師として問題である。祈りを通して一致していくことに問題性を感じない牧師もいる。何を一致したいのか。日本のリバイバルか。もし、リバイバルが起きれば、教会のカルト化の被害を受ける人が増えるばかりである。取り組まなければならないのは、教会の聖化である。支配ではなく、牧会の復権こそ急務である。
by maranatha | 2013-09-02 17:33 | 後の雨運動
宗教問題