人気ブログランキング |
ブログトップ

村上 密 Blog

<   2013年 10月 ( 33 )   > この月の画像一覧

カルトと暴力

 カルトでは、暴力は悪ではない。暴力は、悪への制裁である。制裁は、悪ではなく、正義である。よって、暴力は、カルト内では善である。暴力が日常的に行われるのは、非宗教的なものを、信者から除くために、必要な手段としているからである。それは、カルトでは、訓練、修行、クレンジングとも言う。たとえば、ある人が重い病気を患っている。その原因は、悪霊と思っている。悪霊を追い出すことによって、病気は治る。何時間もかけて悪霊払いをする。癒されるまで、何日も何カ月も、場合によっては何年も。来る日も来る日も繰り返される悪霊払いの祈祷は、患者によっては、暴力である。死に至る暴力でも、悪化する症状でも、双方が治療行為と思い込んでいる時は、この暴力は外に漏れることはない。しかし、悪霊払いが達成されずに、団体から追放された時、患者は悲惨である。彼らは、精神的には極度に疲弊しており、内容を正しく伝える能力を奪われている。家族・友人によって、対応できる人に知らされて明るみに出る。そして、回復のためのカウンセリングが行われる。ここまで、相当な期間が経っている。悪霊払いを受けてひどい状態になった人を扱ったことのない人は、無責任なことを発言する。傍観者は、癒すことに関わることは無い。自分の安全を確保した場所から、無責任な発言を繰り返すばかりである。回復期にある人にとって、傷つけられるのは、このような口先だけの傍観者である。そして、この傍観者の暴力は、精神的なものなので、彼らは暴力という思いに至らない。

推薦図書
1、『攻撃と暴力 なぜ人は傷をつけるのか』(大渕憲一 丸善ライブラリー)
2、『暴力とゆるし』(ジャン・ヴァニエ 原田葉子訳 女子パウロ)
3、『暴力と宗教 闘争か和解か、人間の選択』(ホアン・マシア オリエント宗教研究所)
4、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(ラス・カサス 染田秀藤訳 岩波文庫)

注 上記3の7章は4について触れている。参照のこと。
by maranatha | 2013-10-31 07:58

米沢興譲教会 「心のノート」

 米沢興譲教会では、献身者、いわゆるスタッフ(受付や事務など奉仕をする人)、心病む人(「翼を休めているスタッフ」と言われている)を含む人たち全員をスタッフと言っている。このスタッフは「心のノート」「を田中信生牧師に毎日提出している。一日の出来事、何を思ったか、心の中をさらけ出さなければならない。「一行でもいいから書け」と言われたり、人によっては書いている内容が少ないと、強い叱責を受ける。米沢興譲教会には統一教会出身者が多いと言われているが、なぜ、統一教会の「心情日誌」と同じことを要求されているのに問題を感じないのか。これは、マインドコントロールの中で感情のコントロールと言われるものである。田中牧師は説教で「心のノート」から引用することがある。これは、プライバシーの侵害ではないか。しかし、田中牧師は、普段から「治そうとしているのに、恥ずかしいとはなんだ。」「服を着たままで診察してもらおうとするのか」等と言って、プライバシーの侵害と発言しようものなら、高慢と思わせているので、だれも反論する人、注意する人はいない。
by maranatha | 2013-10-27 21:36 | 田中信生

視覚障害者への配慮

視覚障害者の方への対応を聖書はどのように言っているのだろうか。
「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」(申命記27:18)
「目の見えない者の前につまずく物を置いてならない。」(レビ19:14)

 忘れることのできないことがある。伏見のアーケード街で、視覚障害者の方が、白い杖を振り回し、大きな声を上げておられた。何事だろうと、耳を澄ませて聞くと、「なぜ、こんなところに自転車を置くんだ。」確かに、通行の邪魔になんるほど自転車が通路に食み出している。アーケード街の商店組合に改善するように申し入れすれば良かったのだが、私はその人と同じように、悲しく、いらだたしく、その場を去った。今日、視覚障害者の方から相談があった。タクシーに乗車したら、いろいろプライバシーに関する質問をされ、やんわり断っても、なお質問を続けるので、不安と恐れを抱いた。どうしたら良いだろうか。よく利用しているタクシー会社に、プライバシーに配慮するように、次から、その運転手を配車に回さないように申し入れするように提案した。その後、タクシー会社に電話を入れると、タクシー会社は、その旨を聞き入れ、運転者には注意をし、配車しないようにする、と対応してくれた。私は、アドバイスの中でこうも言った。心の中で、今度またあの人だったらどうしようと思い煩わないで、対処してください。解決するためには、思いで終わらない事が大切と伝えた。
   視覚障害者の方への質問で、何が失礼だろうか。これは、教会内でも気を付けたいことである。「いつ頃から見えないの?」「病気で?」「何の病気?」 「家族と住んでいるの?」「仕事しているの?」「何の仕事?」何百回、何千回質問をされた事だろう。気を付けたいのは、聞き出すことである。聞き手が見えないのであるから、いろいろ質問されたら不安になる。信頼されたら、会話の中で知ることができる。自分の興味を満足させる対話をしないように気を付けたい。

 ブログの読者に、以下の記事を読んでいただきたい。

視覚障害者への配慮 http://www.minikuru.net/psv/data/sikaku.htm
by maranatha | 2013-10-26 21:58

パウロの獄中書簡

 エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙、この4つの手紙は、パウロが獄中にあるときに書いたので、獄中書簡と呼ばれる。エペソ人への手紙(6:21、22)とコロサイ人への手紙(4:7、8)にはテキコが共通して出てくることから同時に書かれた。コロサイ人への手紙には「また彼(テキコ)は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。」(4:9)これで、オネシモがコロサイの教会と関係が深い人物だと分かる。ピレモンへの手紙は、回心した逃亡奴隷のオネシモを主人であるピレモンへ送り返すために、個人的に書いた手紙である。パウロは、獄中からオネシモを送り返すにあたって、テキコを同伴させ、この二人に3通の手紙を託したことになる。ピリピ人への手紙は、大病をしたエパフロデトが癒されたので、送り返すために手紙が書かれた。私たちが手にしている獄中書簡は、逃亡奴隷が、大病した人が手紙のきっかけとなっている。盗難、大病、それはどれもうれしくない出来事である。しかし、出来事は出来事で終わらない。神はご自身を信じ、愛する者のために、出来事を益としてくださる。早々と失望と嘆きを口にしないようにしたい。
by maranatha | 2013-10-26 18:39 | パウロ

創世記の区分

 創世記は50章ある。本来の区分は12である。区分は、1:1、2:4、5:1、6:9、10:1、11:10、11:27、25:12、25:19、36:1、36:9、37:2。第1区分は創造の順序である。第2区分は、創造の3日目、そして、6日目。人間の創造と堕落、それから、「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」(4:26)とある。第3区分はアダムからノアまでの系図であり、罪の増大に対する審判の予告である。第4区分は、ノアの洪水物語と、もはや洪水で滅ぼすことはないノア契約である。ここに、希望がある。第5区分はセム、ハム、ヤペテの歴史である。第6区分はセムの歴史である。ここまでが大きな区切りで、第7区分から、族長史が始まる。イスラエルの始祖アブラムが、神の語りかけに応答して故郷を旅立つ記述は、信仰生活を営む者にとって、感動とあなたは神の言葉に応答して歩んでいるかと迫る。
by maranatha | 2013-10-26 18:38

赦しなさい

 「赦しなさい」は言っても「償いなさい」「弁償しなさい」を言う牧師は少ない。教会内で虐待があった場合、牧師は、被害者に対して、加害者を赦しなさい、と片付けてしまう。加害者が力と富を持っていた場合、牧師が加害者側に立ってしまうため、被害者は自分が悪いのかと思わされる。カルト化教会の被害者にとって最も傷つく言葉の一つは「赦しなさい」である。言葉は、悪い言葉ではない、ただ悪用されているのである。
 奴隷が主人の物を盗んで逃亡した。その奴隷は、やがてパウロと出会い、救われ、主人の所へ帰されることになった。そのとき、パウロは「赦しなさい」と言っただろうか。「もし、彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」(ピレモン18)パウロは、加害者の赦しを乞うために、被害者に対して代理弁済を申し出ている。このような牧師が現代にいるだろうか。あまりにも軽々しく「赦しなさい」を言ってはいないか。精神的な被害であれ、物質的な被害であれ、被害を与えている場合、弁償を十分考慮すべきである。損害は、損害分で済まない。だから、損害額+αである。謝罪があり、弁償がある。そうしたら赦すか赦さないかは被害者の問題となる。このような経過を踏まれたら、今度は加害者の問題ではなく、被害者の問題となる。問題の公平な判断は、手続きが正しく踏まれているかであって、高飛車な「赦しなさい」で片付くものではない。
by maranatha | 2013-10-24 14:46 | 赦し

シュタイナー 無宗教か  

 村上密ブログに掲載した「シュタイナー」の記事は、巧妙な幼児教育の仮面を被ったオカルトの危険性について警鐘を鳴らすものである。この記事の出所は、「PLANS」というHPである。元々はアメリカのHPで、アメリカで元シュタイナー教育の関係者がそこから脱退して、その危険性を世に知らしめる為に立ち上げた団体である。その翻訳サイトが日本語のHPに取り上げてある。

・日本語(翻訳):http://steiner.jpn.org/hihan/artindex.html#top

・英語(オリジナル):http://www.waldorfcritics.org/

 アメリカでは、シュタイナー教育の信奉者達が、「無宗教の公教育」と偽り、公金を使用してオカルト教育を施していた事が判明し、訴訟にまで至っていた。シュタイナー問題の危険性を再確認して頂きたい。
by maranatha | 2013-10-23 13:18 | シュタイナー

シュタイナー

 シュタイナーの危険性は、日本では余り知られていない。「シュタイナー」で検索しても問題を知ることはできない。 しかし、「シュタイナー 危険」で検索してたら、現時点で以下の記事がトップに出てくる。シュタイナー教育の体験者が、その思想から抜けるのに、20年を費やした。深刻な精神的被害である。自分のような人が起きないように、啓発をしている。傾聴に値する記事である。日本国内でも、シュタイナーは宗教としてではなく、教育、思想として紹介される傾向にある。実態は、宗教であり、キリスト教からは異端とされ、オカルトの範疇に属する。宗教的神話の世界に引き込まれるので、現実生活の対人関係に支障をきたすことが考えられる。「おかしな人」と見做される恐れがあり、人々がなぜ自分から離れていくのかに気付かず、人間不信に陥ることも考えられる。思想を克服することは、自分だけでしないことである。学び、語り、深める、小グループが必要である。特定の宗教を恐れるあまり、無宗教のグループに安心感を覚えるのは、避けた方が良い。私は、宗教を危険視する立場ではなく、聖書との比較によって、シュタイナーの思想の検証を試みる方が、早く克服できると思っている。しかし、牧師やキリスト者の中にも、シュタイナーの危険性に気付かない人がいるので、この分野を知っている人と、学ぶことを勧める。

http://steiner.jpn.org/hihan/artunholy.html
by maranatha | 2013-10-21 22:33 | シュタイナー

自分を捨て、自分の十字架を負い

 「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして、わたしについて来なさい。」(マルコ8:34)の「自分を捨て」「自分の十字架」とはどんな意味ですか、と質問があった。ここは弟子についての教えである。「自分を捨て」は、自己否定であり、自己嫌悪ではない。欲深い、自己を否定することである。「自分の十字架」とは、誰かが自分に課す重荷ではなく、自分が他者のために、自発的に取り組む救いに関係する行為である。例えば、パウロは福音のために、己が誇りとしていたものを捨て、福音のために、迫害を物ともせず生涯を全うした。この生き方が、自分を捨て、自分の十字架を負いである。イエスは、弟子に対して、甘い将来像を約束していない。イエスは、弟子の心得を、引き続き35節から38節で教えている。
 私ごとであるが、「仕事大変ですね。」と尋ねられた時、「いいえ。」と応えている。「何故ですか。」との質問に、「イエス・キリストは、『わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い』(マタイ11:30)と語られた。もし、私が重荷を負っていたら、それは自分が背負い込んだ荷であって、イエスのお与えになった荷ではない。私が背負っている荷が軽いのはイエスに委ねられた荷だからである。」と応えている。私は「自分の十字架」が何かを知っている。それは、異端、カルト、カルト化した教会に捕われ、虐げられている人々を解放することである。キリストに導くことである。
by maranatha | 2013-10-15 18:51

十字架を背負わされた人、十字架を背負った人

 十字架を背負った人が、ゴルゴダへの途上で力尽た。ローマの兵士は、傍にいた名もない男に、むりやりに十字架を背負わせた。やがて、彼はキリスト教界で、十字架を背負った人として知られるようになった。マルコは、福音書に、「アレキサンデルとルポスとの父、シモンというクレネ人」(15:21)と書いている。このシモンは、アンテオケ教会の指導者の一人「ニゲルと呼ばれるシメオン」(使徒13:1)である。アンテオケ教会は、キプロス人とクレネ人によってギリシャ人に福音が伝えられた。おそらく、このクレネ人はシモンであろう。シモンがいつイエスをキリストとして信じたかはわからない。しかし、彼はある時点で、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」(マルコ8:34)といわれたイエスの言葉を実践した人となった。そして、子どもも十字架を背負うようになった。あの時、ゴルゴダの途上で、十字架を背負わせたのはローマの兵士だろうか、いや、力尽きた傷だらけの人が、シモンを選んで背負わせたのである。そして、シモンはその十字架の意味を知る時が来て、もう一つの十字架、「自分の十字架」背負う人となったのである。私たちは、あの木の十字架を背負うことはできない。しかし、イエスが語りかける「自分の十字架」を背負うことはできる。今度はだれがこの十字架を背負うだろうか。
by maranatha | 2013-10-14 22:16
宗教問題