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村上 密 Blog

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カウンセリングの悪用

 カウンセリングを利用して、家族関係を壊すようなことが起きている。カウンセラーが、子どもは記憶にないが、親から性的虐待を受けていたのではないか、あなたは、悲惨な体験だったので、心の奥に封印しているのだ、と語りかける手法である。カウンセラーが確信を持った話し方をすると、そうかなと思い始め、そうだと思い込む。インナーヒーリングやインナーチャイルドの癒し方には注意が必要だ。

 あなたは、母親のお腹にいた時、父親が母親へ暴力を振るうとき、深い痛みを経験したんだ。あなたが、父親を憎んでいるのは、暴力を振るった父親を赦してあげないからだ。関係を修復するため断ち切りの祈りをするべきだ。こんな話にも注意した方が良い。

 人は、記憶にないことを、物語として聞かされると、本当であるかのように思う傾向にある。記憶は作られる。作り替えられる。すり替えられる。私の小さい頃、私が悪さをして寝ていたとき、それを聞いた父親が私を足でけり、私は気絶した、と母親から聞かされたことがある。全く覚えていない。だが、自分では映像が浮かんでくる。私は見ていない。覚えてもいない。しかし、映像が浮かんでくる。それは作られた映像で、記憶に基づくものではない。聞かされた話で、作り出した映像である。映像は同じようなシーンある。

 黒澤明監督の『羅生門』は出来事を三人が三人とも違うことを証言していて興味深い。出来事は出来事だけでは、記憶する力がないために、物語として記憶しようとする。そこに、個人の解釈が入り、異なった物語が出来上がる。事実と証人がいても、それを聞いた人人の理解は異なることがある。人は自分の経験や物事の理解の程度で読み込んで取り入れるからである。

by maranatha | 2014-03-29 19:23

「ノア 約束の舟」

 「ノア 約束の舟」映画の上映が近付いている。アメリカでは物議を醸している。インドネシアでは放映禁止となった。クリスチャンは、聖書に忠実な映画になっているか、と考える。ハリウッドの映画だからそれを期待してはならない。あくまでも娯楽映画である。むしろ何が違うか。どこが、インドネシアで上映禁止となった箇所だろうか、と思って鑑賞すればよい。
 「舟」は「船」がふさわしいと思う。舟に八と口でノアの方船には8人が乗り込んだ。昔、口は人を数える単位だった。人口ともいうではないか。

by maranatha | 2014-03-29 18:05

「密-hisoka」

 大正製薬から女性のための美容サポート飲料が発売された。製品名は「密-hisoka」。私の名前が「密」(hisoka)なのでちょっと驚いた。珍しい名前なので、漢字だけだと、何と読むのでしょうか、とよく聞かれる。大正製薬のおかげでこの質問はこれから減るだろう。

 「密」の意味は、辞書を引けばどれも同じように書かれてある。ところが、白川静氏の『字訓』(平凡社)には深い意味が書いてあり、興味深い。「密は宀と必と火とに従う。・・・宀は廟屋、必は秘で、威の頭部の形。廟中でこの聖器に火を加えるのは、何らかの祝儀であろう。・・・おそらく、神意を安んじるための祝儀であろう。」

 私の名前は、父が、近代郵便制度の創設者のひとりである前島密から取った、と教えてくれた。小学生のころは、漢字が書きにくかったが、漢字に意味が分かりはじめてから好きになった。白川静氏の『字訓』で更に気に入った。父は前島密に肖るために命名したが、私は意味を体現したい。

by maranatha | 2014-03-29 17:26

あるべき教会像

 3月15日、御殿山コミュ二ティーセンターで、手をつなぐちいろばの会がセミナーを開いた。私は「あるべき教会像」について語った。いろいろ考えた結果、マタイの福音書から「教会」を取り上げ、その教会に「天の御国の鍵」(16章)が与えられ、それをどのように用いるか(18章)を語った。教会は神の愛と正義と公平を実現するキリストのからだであることを強調した。「天の御国の鍵」は、イスラエルでは律法に基づいて裁判が開かれたが、今後形成されていく教会の中では、罪の問題をどのように扱うか、その権限を与えられていることを意味していると伝えた。罪を犯した人が、罪を認めたら神の正義が実現され、悔い改めたら赦しが与えられて神の愛が実現される。教会では、愛が強調され過ぎて、悔い改めていない人に対しても赦すように求められてきた。罪の問題が公平に教会内で扱われ、悔い改めた人に赦しが与えられてこそ、「地上で解く(赦す)なら、それは天において解かれ(赦され)ている」(18:18)のである。「天」とはマタイでは「神」を表す用語であるから、教会は18章15節から17節の3段階のプロセスを正しく踏まえることが大切である。教会が罪の問題を扱うことは神との共同の業である。この教えに反することがカルト化教会で行われている。それは私的裁判で聖書的ではない。被害者が加害者からだけではなく、教会や牧師から被害を受けるのは神の愛と正義がと公平があらわされていないからである。教会には愛と正義と公平が求められている。イエス・キリストは、十字架の上で私たちの罪をその身に負い、神の裁きを受けられた。そこに神の正義が現された。そこで私たちの罪が赦され、それを信じる者に神の愛が現された。平行線のようにあった神の正義と愛が十字架で交差(クロス)するように、私たちが罪を認め、悔い改めるとき、そこに神の正義と愛が交差(クロス)する。

by maranatha | 2014-03-25 10:39

エクマンとコン・ヒー

 エクマンがペンテコステからカトリックに改宗したことが大きなニュースになっている、と以前伝えた。その後、なぜそこに至ったのか、十分な経過説明がないので、関連記事を捜したが、納得のいく公表がない。ペンテコステの何を否定したかである。CTに興味深い記事を見つけた。シンガポールのメガチャーチのコン・ヒー牧師が、エクマンが友人であり、メンターである、と書いている。コン・ヒーは教会財産の多額の不正流用で刑事告訴されている。コン・ヒーの尊敬するチョウ・ヨンギも教会財産の不正流用で判決を受けた。教会成長と繁栄の神学は、度重なる指導者のスキャンダルで信用を失いつつある。エクマンがコン・ヒーの事件で精神的なダメージを受けたと思われる。エクマンはこのようなムーブメントに身を置いてきた人物である。このムーブメントは指導者の間違いとして片づけるのか、教えの中に間違いを内包しているか、見解を述べるべきである。このムーブメントに深く失望し、挫折感を抱いたのであればそのように表明したらよい。しかし、このムーブメントへの反省なしに、宗派間の団結に取り組んで行くのであれば、改宗しないでも取り組めるはずである。

*CTとはChristianity Today 3月14日の記事より

by maranatha | 2014-03-18 08:27

危険な教会

 牧師を神格化する閉鎖的な教会は危険である。神格化された牧師の教えは無謬である。よって、従えば祝福を受け、救いに与るが、逆らえば悪魔の餌食で地獄行となる。教会外の集会参加は許可制であり、牧師が動員する教会外の集会参加は自己顕示である。閉鎖的な社会では、教会内の被害が漏れにくく、差別や虐待が継続的に行われる。その虐待は、精神的、肉体的、性的であり、経済的搾取を伴う。羊の群れに襲いかかる狼は多くの羊を食い殺す。それは空腹を満たすためではなく、食い荒らすためである。閉鎖的な教会で、虐待を行なう牧師がサイコパスである場合、被害の深刻度は計り知れない。まさに狼のように食い荒す。被害を心の中に押しとどめるために、心病み、精神病院に長く入院する者、自死する者が出てくる。被害者は長年トラウマを抱え苦しまなければならない。カウンセリングが必要であっても、訴える力を回復するまで時間がかかる。それから相談になると、時効であったりして、訴訟に持っていけない。困難を克服した人をサバイバーというが、このサバイバーの証言は貴重である。この人々こそが閉鎖的な教会で何が起きたかを証言できる存在である。しかし、常識で物事を考える習慣を身につけている人にとって、その証言は大げさに聞こえる。もっと深刻であることに気付かない。それぞれの証言は部分的であり、全体像を捉えるには、なお多くの脱会者の証言が必要であった。沖縄キリスト福音センター(美浜教会)で起きた事件は「危険な教会」に近い。これは忘却してはならない教会の暗黒史である。

by maranatha | 2014-03-13 22:30

赦し

 「赦しなさい」について前回書いた「『「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度をの七十倍するまでと言います。」このイエスとペテロのやり取りだけでは、悔い改めが語られていないので、ただ赦しだけが強調されているように思われる。事実、教会の中では、赦しが強調されてきた。しかし、マタイの23節から35節とルカの17章3節から4節と読めば、無条件の赦しを説いているわけではないことを指摘した。

 今回の「赦し」はマタイの18章の文脈から、ただ赦しなさいと教えているのではなく、やはり悔い改めを条件とした赦しであることを証明したい。18章15節では「あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたの兄弟を得たのです。」と書いてある。21節からのペテロの質問は、15節からのイエスの話に対する質問である。このイエスの話には「、罪を責める」こと、すなわち忠告をすること、罪を正すこと、けん責することを勧めている。「聞き入れる」こと、すなわち忠告を受け入れて改めることを教えている。このように兄弟間で起きた罪の問題をどう取り扱うかが18章15節から35節までの教えなのである。この文脈から、赦しには、悔い改めが必要であることが明白である。

by maranatha | 2014-03-13 21:02 | 赦し

赦しなさい

 カルト化教会は、赦しなさいで問題を解決する。それは解決ではなく、回避である。被害者救済がない。むしろ、被害者に赦しが強制される。彼らは、ペテロの何度まで赦すべきでしょうか、の質問に対して、イエスは「七度を七十倍するまで」(18:22)と応えられた言葉を強調する。この言葉を文脈で理解すると無条件でないことが分かる。悔い改めた人を赦すようにとの勧めである。一万タラントを返済できないしもべが、ひれ伏して猶予を求め、全部支払うと言っているので、主人はしもべの借金を免除してやった。ところが、このしもべから百デナリ借りていた仲間が、返済できず、猶予を求めた。それをしもべは承知せず投獄した。そのことを彼の仲間たちが知って、主人に一部始終を伝えた。主人はこの猶予を与えなかったしもべに対して赦しを撤回し、投獄した。この物語は、悔い改めた人を赦すようにが、真意であて、どんな人に対しても赦せではない。

 マタイの福音書は、ユダヤ人クリスチャンの為に書かれたと伝えられている。だから、言わなくても分かることは省いている。ところが、ルカは、異邦人クリスチャンの為に福音書を書いた。だから、説明的に書いている。「気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るならば、赦してやりなさい。」(17:3、4)ルカとマタイのどこが違うか。「悔い改めれば」が条件として書かれてある。カルト化教会の無条件ではない。よく読むと、「兄弟が罪を犯したら、彼を戒めなさい。」とある。はたして、牧師は罪を犯した人を戒め、悔い改めに導いているだろうか。支払い能力があって悔い改めていれば、当然返済をするはずである。しかし、単なる赦しなさいが横行している。さらに聖書を見ると「『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るならば」とある。カルト化教会でこのようなプロセスが踏まれているだろうか。それがあったら、被害者は悩まない。苦しまない。悔い改めているとは思えない言動を罪を犯した人が続けているので被害者は悩み苦しむのである。それも、形式的に一度来ても、それ以上来ることはない。謝罪のパフォーマンスでは、謝罪を得ることはできない。悔い改めが赦しを得る道である。ただし、返済免除を期待してではなく、返済する覚悟を持って赦しを求めなければ本当の悔い改めではない

by maranatha | 2014-03-12 18:18 | 赦し

教会で6000万円の盗難

 CTによると、ヒューストンにあるレイクウッド教会が60万ドル(約6000万円)の盗難にあった。現在の所、被害は3月8日(土)9日(日)の献金に限定されているが、現金、小切手、クレジット・カード情報が含まれているために、教会員に個人情報の保護を呼び掛けている。CTは、キリスト教界での盗難や詐欺が増加していると報告している。レイクウッド教会の牧師は、繁栄の神学でよく知られているジョエル・オースティンである。この盗難は、アメリカ最大のメガチャーチの献金状況を明らかにした。2日間で約6000万円である。
 教会は注意しなければならない。大半の牧師は、詐欺被害や盗難を経験している。その経験を次に生かさなければ、いつまでも狙われることになる。もっと注意しなければならないものは心を盗まれることである。真理を異端にすり替えるにせ牧師、にせ預言者が増えてきたからだ。、盗難は金銭的困難をもたらすが、異端は滅びをもたらす。教会は個人情報を守る一方、永遠のいのちを守ることに注意を向けてほしい。

*参考、CTはChristianity Today

by maranatha | 2014-03-12 10:39

ハイディー・ベーカー

 ハイディーは南アフリカのモザンビークで宣教師として働いている。その働きであるアイリス・ミニストリーはよい評価を受けていることは確かである。彼女は、かつてロンドン大学で組織神学を学んだ。しかし、現在の彼女の神学的な立場に対しては、私は疑問を抱いている。彼女は仕事の行き詰まりを覚えて、カナダのトロント・エアポート・クリスチャンフェローシップの集会に参加し、いわゆる「トロントブレッシング」を体験した。彼女は、第42回ペンテコステ教役者大会に、ジョン・アーノット牧師夫妻と彼女の夫ローランドと共に、講師として招聘されている。ジョンはトロント・エアポート・クリスチャンフェローシップの牧師である。彼女の「トロントブレッシング」体験は1995年である。教役者大会が2007年である。彼らの交流が続いていることが伺える。佐野リバイバルセンターは最近彼女を招いた。彼女の足跡を辿ってみると、彼女はカリスマが主催する集会に招かれ、そこで預言をしていることが分かった。私が度々指摘している繁栄の神学、レストレーション、後の雨運動の影響を受けていることは明らかである。アイリス・ミニストリーは評価できるが、神学的には問題である。宣教と慈善活動を大々的にしている人が、神学的に問題である場合、如何に関わるべきだろうか。私は関わらない方を選択する。

by maranatha | 2014-03-11 16:02
宗教問題