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村上 密 Blog

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非難

 預言者アモスは、諸国に対して非難の声を上げた。もし、5つ目で止めておけば、イスラエルからもユダからも喝采を浴びただろう。しかし、彼はイスラエルに、そしてアモス自身の国であるユダに対しても非難の声を上げた。アモスは神の代弁をしたにすぎない。しかし、非難はアモスに向けられた。アモスの裁きの宣告は、遠い国から始まった。段々、ユダに近づいて来るのをだれか気付いただろうか。

 私は、異端問題、諸宗教の問題、カルトの問題、そしてカルト化教会の問題、キリスト教会内の問題を扱って来た。カルトの問題、初期のカルト化教会の問題までは良かったが、その後のカルト化教会の問題、キリスト教会の内問題を取り上げた頃から、露骨な非難を受けるようになった。私は身内の問題でも問題は問題として明らかにするのが公平と思っている。

 内部告発は正しくても、内部告発者は冷遇される。組織は自己保身的である。しかし、告発によって組織が正されていくことがある。誰かが声を上げることで、組織の改善がされれば、告発の役割は果たされる。声が無視されれば、組織(そしき)はやがて葬式(そーしき)を迎える。

by maranatha | 2015-01-15 21:09

東京リビングストーン教会

 最近、ヨハン教会から出た牧師達が、東京リビングストーン教会を建てた。インターネット上に、金ビョンスという人物が金圭東の息子だ、と言う誤った情報が流れている。彼は金圭東の息子ではない。牧師について行った宣教師の1人である。金圭東の息子は金ソンソプでヨハンの元宣教師である。金圭東一家は半年間は表立った牧会は出来ない契約となっている。今のところ、金圭東一家の名前は表に出ていない。今年の3月で6ヶ月の契約期間が終わる。4月から何か動きがあるだろう。水面下でいろいろ動いている情報も流れている。すでに、東京リビングストーン教会の早稲田大学での伝道が始まっている。親から離れて生活している大学生がターゲットにされている。大学カルトのリストの中に東京リビングストーン教会の名称を加えなければならない。

by maranatha | 2015-01-14 22:41

凶暴な狼と異端者

 「パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ」(使徒20:17)この長老たちに「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てにになった」(20:28)と語りかけている。ここでは、長老は監督とも言われている。ペテロは、自分自身を「長老のひとり」(1ペテロ5:1)と言っている。ペテロは使徒であり、長老でもある。ともあれ、長老と監督が同じ人々に使われていることは、未だ、長老制とか監督制とか、教会制度が確立していないことを表している。パウロから呼ばれたエペソの長老たち(=監督)に、「私が出発したあと、凶暴な狼があなた方の中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています」(使徒20:29)と予告している。凶暴な狼は外からである。そして、「あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こる」(20:30)と、長老たちの中から異端者が現れると予告している。パウロがミレトを出発した後、エペソの教会は、凶暴な狼と異端者によってどうなったのだろうか。

 黙示録には、エペソの教会のことが書かれてある。「使徒と自称しているが実はそうではない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている」(黙示2:2)また「ニコライ派の人々の行いを憎んでいる」(黙示2:6)ニコライ派は初期の異端である「凶暴な狼」(使徒20:30)は、自称使徒たち(黙示2:2)、「曲がったこと」(使徒20:30)とは「ニコライ派」(黙示2:6)と当てはめることができる。

 現代でも同じことが起きている。自称使徒は、世界中を荒らしまわっている。彼らは凶暴な狼である。また、異端は、どの教派の中にも、潜り込もうとしている。超教派を装って接触し、独自の集会やセミナーに誘い、短期間のうちに時間とお金を巻き上げ、マインドコントロールする。

 この記事を読んだ後、「村上密ブログ」と「異端」、「カルト」、「カルト化教会」、「虐待」、「にせ使徒」、「にせ預言者」、「にせ教師」、「にせ兄弟」を組み合わせて検索し、どんなに彼らが横行しているかを知っていただきたい。

by maranatha | 2015-01-09 21:56

善管注意義務

 牧師と責任役員は、教会の運営の責任を担っているので、教会内で問題が生じた時、責任が問われることがある。民法第644条、出エジプト21章から教えられるのは、善管注意義務である。

善管注意義務の意味
 善管注意義務とは、「デジタル大辞泉の解説」によると、≪「善良な管理者としての注意義務」の意≫業務を委託された人の職業や専門家としての能力、社会的地位などから考えて通常期待される注意義務のこと。注意義務を怠り、履行遅滞・不完全履行遅滞・行不能などに至る場合は民法上過失があるとみなされ、状況に応じて損害賠償や契約解除などが可能となる。善良なる管理者の注意義務。[補説]民法第644条に「受任者は、委任の本旨に従い、善良な管理者の注意をもって、委任事務を処理する義務を負う」とある。

聖書から見た善管注意義務
 聖書は「責任」の重要性を説いている。人は、未然に防げたかもしれない悪い出来事、自分の不注意や思慮の欠如から生じた問題に対して責任がある。聖書は次のように教えている。「牛が男または女を突いて殺した場合、その牛は必ず石で打ち殺さなければならない。その肉を食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は無罪である。しかし、もし、牛が以前から突くくせがあり、その持ち主が注意されていても、それを監視せず、その牛が男または女を殺したのなら、その牛は石で打ち殺し、その持ち主も殺されなければならない。もし彼に贖い金が課せられたなら、自分に課せられたものは何でも、自分のいのちの償いとして支払わなければならない。」(出エジプト21:28~30)この箇所の後(出エジプト21:33~36)にも善管注意義務について書いてある。

by maranatha | 2015-01-08 17:29

「村上密ブログ」の読み方

 ブログを書き始めたのは2005年である。聖神中央教会事件を広く知らせると同時に、教会のカルト化に警鐘を鳴らすために書き始めた。すると、教会のカルト化被害者から、堰を切ったように、相談が寄せられ始めた。おそらく、「宗教トラブル相談センター」はもっとも宗教問題の相談を受けている所になっているのではないか。あれから10年、異端問題、カルト問題、カルト化教会問題をブログで取り上げてきた。ブログは、ただ記事を掲載してきただけなので、読みたい記事を捜しづらいかもしれない。その場合は、知りたいことや人物等をキーワードに、「村上密」と合わせて検索すると便利である。インターネット社会になって、人々はまずネットで調べてから、となっている。この「村上密ブログ」が「転ばぬ先の杖」の役割を果してくれることを願うが、実際は宗教問題を抱えた人の「闇夜の灯火」となっている。

by maranatha | 2015-01-07 05:12

なぜ、教会成長のための弟子訓練は問題か

 牧師は教会を成長させたい願望を持っている。ある牧師たちは、その願望達成のために、教会成長に弟子訓練テキストを取り入れている。テキストは日本の牧師が作成したものではない。弟子訓練が教会成長に貢献している、と言っても、それはその教会の取り組みにによるものであって、普遍的なものではない。もし、弟子訓練でどの教会も成長するなら、一様に取り組んだ教会は成長を遂げているはずである。むしろ、教会成長のために弟子訓練を取り入れ、名を馳せた教会で、様々な問題が起きている。このことを考慮すると、教会成長のための弟子訓練が健全な教会形成に至らなかった、と言うことである。

 なぜ、教会成長のために弟子訓練は問題か。牧師は弟子訓練を「正しい」、そして聖書的だと思い込んでいる。確かに、福音書にはキリストの弟子が登場する。イエスは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:)と命じられた。ペテロもヨハネもキリストの弟子である。しかし、ペテロやヨハネの弟子はいない。パウロはテモテに対して弟子とは言っていない。同労者である。教会成長のための弟子訓練の問題は、教会の中に上下関係を持ち込んでいることである。同労者意識があったら、権威主義的教会はできないはずである。ビュン・ジェーチャンやキム・ギョドンは弟子訓練を取り入れ、やがて、それを欲望を満たすために悪用して堕落した。

 弟子訓練が、キリストに仕える人を養成するのではなく、牧師に仕え、個教会に仕える人の養成に重点が置かれると、視野の狭い従属型の「弟子」が出来上がる。弟子訓練をする牧師は、自分を超えるほどの「弟子」を養成できない。牧師を超える器を養成するためには、各分野に秀でた器たちから学ぶ必要がある。弟子訓練が牧師に従う取り組みであるなら、動機が不純である。問題牧師でさえ、キリストの弟子を養成するため、と言う。大義を額面どうりに受け留める人が、弟子訓練に誘われやすい。弟子訓練の実態がどのようになっているかを考える人は、距離を置いて考えることのできる人である。この10年、どれだけ弟子訓練を強調した牧師が問題を起こしてきたことだろうこのことを人物が問題を起こしたに過ぎないと片付ける牧師はやがて問題を起こす。方法論の問題であると反省し、同労者意識をもって宣教に取り組む教会は逸脱から守られる。

by maranatha | 2015-01-02 17:00 | 弟子訓練
宗教問題