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村上 密 Blog

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カイロスの会主催セミナー

        「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」

 カルト化教会では、自分を愛することを学ぶことはない。否定されるだけである。ラブシャワーを受けた期間は束の間である。あの時、愛されたのに、なぜ自分を愛してはいけないのか。それなら、なぜ、ラブシャワーをくれたのか。罠だったのか。

 今回のセミナーは、自分を愛することを学び、誰が隣人なのかを学び、隣人愛に取り組む。歴史的な解釈の間違いを学び、正しい理解に基づく信仰生活を提案する。

●講師 村上 密 牧師

●日時 2015年5月30日 土曜日 13時30分より

●場所 沖縄船員会館 第二会議室
    (那覇市前島3-25-50 TEL 098-868-2775)
 *お車でおこしの方は、とまりんの駐車場をご利用ください。

●参加料 1000円

 ①13:30~15:30 発題

 ②15:45~16:45 質疑応答

●お問い合わせ newlife0102@hotmail.com  090-9782-5892 (新垣)

by maranatha | 2015-02-26 21:40 | カイロス

カルト2世

 カルトにはカルト独特の文化がある。カルト2世がそこを出ると、世間とのギャップに戸惑う。カルトで生まれ、育っているので、ほかの世界をよく知らない。カルチャーショックである。馴染めないのは、世間は罪深い世界、悪魔の支配する世界と教え込まれているからである。二元論の世界観を身に着けているので、不安と恐れを抱き続ける。このままだったら、罪を犯してしまう、悪魔や悪霊に攻撃されてしまう、と言った強迫観念に囚われている。また、罪悪感で自分を責めている。死にたいという思いにも駆られる。できるだけ罪を犯さないようにと家で過ごすうちに引きこもりになり、整理できない心の状態からうつ状態になって行くこともある。ここで、治って行くか治らないかは、親身になってくれる人がいるかいないかである。カルトのことをよく扱ってくれるカウンセラーならば、文化適応できるように案内してくれる。信仰を否定しないで、誤りを正しながら、実生活に適応できるように、信仰と生活のアドバイスをしてくれる。段々心が変化して行く。カルトに対する怒り、悲しみ、それから憐れみ、憐れみは自分が本当に救われて良かったと思えるからこそ、カルトの中にいる親しい人への同情心である。気付いてほしいと言う気持ちである。でも自分の無力感に失望したりする。無力ではないのに無力だと思い込んでしまう。聖書の神は、あなたの力で行って救いなさい。わたしがあなたと共にいるからと語りかけられる。自分にできることをする、そこに神が働きかけてくださる。友人たちや知り合いや家族が救われるのは、勇気を出して取り組むからである。必要なことは自分がではなく、神が共にである。神は信じる者と共に働かれる。

by maranatha | 2015-02-25 22:22

キリスト教カルト化被害者支援ネットワーク

「キリスト教 カルト化被害者支援ネットワーク」の働きが始まった。
詳細は、下記のサイトに掲載。
http://cvsa.jp/

今週、立川市で下記のセミナーが開かれる。
手をつなぐちいろばの会との共催である。

主題  「何が、教会のカルト化の原因か?」
講師  宗教トラブル相談センター・アッセンブリー京都教会)村上密牧師
日時  2015年2月28日(土) 13:30~17:00
場所  99+TACHIKAWA(東京都JR中央線立川駅徒歩5分)
主催  手をつなぐちいろばの会

http://eirene-in-christ.sblo.jp/

参加希望の方は、tewotunagu-roba*tbk.t-com.ne.jp
*は@に読み替えること。

by maranatha | 2015-02-25 19:43

サウルとダビデ

 神はサウルが王であった時、すでに、次の王位をダビデにと定めておられた。主は言われる。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)私たちは、ダビデの心を17章で知ることができる。サウルはゴリヤテを目の前にして恐れるイスラエル軍を鼓舞するために3つの約束をしていた。1つは、ゴリヤテを殺す者がいれば、大いに富ませる。それは魅力的な約束である。2つは、娘を与える。それは王族に名を連ねと言う地位の約束である。3つは、何の義務も負わせない。それは8章にある民が負わねばならない王の権利からの免除である。これは一族の繁栄の約束である。誰もが厭うため、誰もが願うことをサウルは提案する。それでも兵の中から立ち上がる者はない。ダビデが立ち上がったのは、約束を聞いたからではない。彼は、富と地位と繁栄を望む普通の人ではなかった。「主は心を見る」と仰せられた。彼が立ち上がったのは、ゴリヤテが「生ける神の陣をなぶった」(17:36)からであり、「イスラエルに神がおられることを知」(17:46)らせるためである。神はご自身を愛するものを知っておられる。彼が立ち上がりその手に持ったのは剣や槍ではなかった。使い慣れた石投げ器である。神は特別な環境でダビデを育てられたのではない。職業は羊飼いである。ダビデはその中で神を敬い、誠実に務めを果たす人であった。彼は石投げの業を羊を守るために身に着けた。神はこのような者に勝利を与え、やがて王位をお与えになった。ダビデは、人々が望むものではなく、神が望まれることをしようとした人物である。今日、このような人物がどこにいるだろうか。人々は、ゴリヤテがいないので、富と地位と繁栄に飛びついている。もし、神のために立ち上がる者がいたら、その人に待っているのは苦難である。ねたまれ、疎まれ、追われ、殺されそうになり、飢え渇き、艱難辛苦が伴う試練である。それでも従うとしたら神からの召命体験したからである。何を大切にしなければならないか、それは召しに応えることである。これこそ神を愛する者の真の礼拝である。

by maranatha | 2015-02-24 16:30

人間疎外

 社会を温かいものにする要素は、愛、憐れみ、正義、公平である。このような倫理がいつまでも保たれてほしいものである。教会成長が提唱されるようになってから、これが目的化され、効率が優先されるようになった。効率の優先は、トップダウンの徹底と低賃金の教職若しくは無給の奉仕者によって支えられている。ブラック企業よりも悪いと揶揄されるのは、企業が労働への対価として低賃金を支払うのに対して、教会は賃金のない「奉仕」と言う名の労働になっているからである。奉仕には自ずと限度がある。教会はこれをもっと考慮すべきである。目的の正当化のために、聖句で敬虔を装っているため、信徒にはしばしば識別できない。熱心に奉仕をしている時は気付かないが、体調を崩したり、また生活環境の変化で奉仕ができなくなると気付くことがある。客観視が大切である。無理をして奉仕に戻る人がいる。一方気付いて、適度な距離を取ると、熱心を要求する教会では、不信仰と言われ疎外され始める。教会の中における人間疎外は、キリスト教倫理の欠如と効率化によって拡大している。

by maranatha | 2015-02-24 16:29

腹の赤いイモリ

 沖縄のある池で腹の赤いイモリをたくさん見かけた。子どもの頃、寺の境内の池に、アカハライモリが生息していた。しかし、環境悪化でいつのまにか見なくなってしまった。現在は準絶滅危惧NTである。沖縄で見かけたのはアカハライモリとはちょっと違うように思えた。図鑑を見ると、沖縄にはシリケンイモリ(準絶滅危惧NT)とイボイモリ(絶滅危惧Ⅱ類VU)が生息している。そこまでの情報がなかったので、どちらであるか特徴を十分見なかった。残念である。生息の場所はブログには書かない。絶滅危惧種の研究者の問い合わせには応えるつもりだ。 

by maranatha | 2015-02-24 09:31

カルト牧師2世  

 カルト牧師は権威主義的教会を作り上げている。それは、教会規則より、牧師のことばが絶対の世界である。信徒は牧師に従うしか、教会に居場所を得ることができない。教会に捧げられた献金は、しばしば収支報告もなく、牧師の使い放題になっている。このような牧師の下で育った牧師の子どもが牧師になる時代が来ている。このような牧師の子どもには、幾つかのパターンがある。1つは、甘やかされて育てられた為、教会のお金を自分の財布と勘違いして育つ牧師2世がいる。次は、親の裏表を知っているだけに、親に対して裏表を使う。親の前ではおとなしくしているが、人前では親のように振舞う牧師2世がいる。一般常識の金銭感覚はない。次は、親が厳格であるために純粋培養された牧師2世である。親しか見本がないために、親の生き方にどっぷりと染まっている。支配者意識と差別意識を持っている。暴君が誕生する確率の方が高い。ヘロデの子はヘロデである。

by maranatha | 2015-02-23 20:25

かわいそうに思い 

 カルト化教会の被害者は、カルト化教会を脱会し或いは退会して、何処か良い教会はないかとしばらくさまよう。訪ねた先の教会の牧師が、「良きサマリヤ人」から、祭司やレビ人にならないで、良きサマリヤ人になりなさい、と説教するのを聞くと、彼らには牧師が祭司やレビ人に見える。カルト化教会の被害者に無関心なことが分かるからだ。牧師は、教会に来た人を迎え入れている、と主張する。しかし、カルト化被害者のところへ行って、話を聞き、具体的な対応はしない。よき隣人ならば、来たら対応するではなく、行って対応することではないか。来たら対応するは上からの目線である。行って対応することは仕えることである。サマリヤ人は、瀕死の旅人が近づいて来たから、介抱したのではない。サマリヤ人が旅人に近づき介抱したのである。せめて、訪ねてきた被害者に、時間をかけて耳を傾け、何か私にできることはありませんか、と聞けば、ああ、理解してくれようとしている、と安堵する。「かわいそうに思い」(ルカ10:33)のような深い同情があれば、傾聴と対応に結びつくはずである。ただ、頭の中で「かわいそう」では行動に結びつかない。この「かわいそうに思い」は「内臓、はらわた」を表す言葉からできた。へブル人は、感情が内臓に宿ると考えたからである。頭の「かわいそう」ではなく、腹からの「かわいそうに思い」で行動する牧師が起こされることを願っている。なぜなら、イエスが「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と勧めておられるからだ。(2014.7.29の記事を修正加筆して再掲載)

by maranatha | 2015-02-16 19:38

親切と律法

 ボアズがルツに親切にすることは律法に適ったことである。親切は正しい行為であるが、ボアズより近い買い戻しの権利のある人を超えることはできない。ボアズは、門のところで、10人長老を招き、会衆の前で、優先権のある親戚に、買い戻しの権利について問いかける。彼がこれをボアズに譲ったので、ボアズが買い戻すことになった。そして、ルツを妻として迎えた。

 
支援と法
 親切で何でもできるわけではない。宗教トラブル相談センターへは多くの相談が寄せられる。その時、重視するのは、その人が所属する宗教団体の規則や規約、宗教法人法、民法を踏まえながら、交渉をすることがある。衝突が起きるのは、規則ではなく、教会内の文章になっていない約束事のようなものを私が踏み越える時である。訴えている人を救済する時、不文律を私は知っているわけではない。私が立って交渉するのは、民法であり、教会規則である。しばしば、教会は教会規則を大きく逸脱することを行なっていながら、正しい教会運営と思い込んでいる場合がある。それを正すのは、教会規則であり、宗教法人法や民法である。聖書に適っているかは言うまでもない。私の親切が、教会への脅威となり、混乱をもたらすのは、教会規則や民法を侵害しているからではない。外部から教会の問題を扱われることへの教会の集団主義による拒否感である。私は教会の自治を重んじているが、それは教会が正しく運営されている時である。そうでなければ、教会の中で、抑圧されている人、虐待されている人、不当な扱いを受けている人を支援する。

by maranatha | 2015-02-13 08:26

ほかの福音

 手をつなぐちいろばの会のセミナーが、2月28日、立川市で行われる。語ろうとしていることの一部をここで紹介しておきたい。

 「ほかの福音」(ガラテヤ1:6)は、パウロの信仰義認の教えを否定するユダヤ主義キリスト者が、ガラテヤ教会にもたらした。彼らは、救いの条件として、律法を守ることを勧めた。彼らもキリスト者である。イエスをキリストと信じている。しかし、彼らの福音は異なっている。この「ほかの福音」は、厄介で、パウロの宣べ伝えた福音に反する。この教えが、ガラテヤ教会に流れ込んだ。パウロはこれを正すためにガラテヤ書を書き送った。これを「正しい福音」と書いて置こう。「ほかの福音」が出てくることで、何が「正しい福音」かが手紙で説かれることになった。ガラテヤのキリスト者は、ほかの福音を見破ることが出来ず、教会は危機を迎えていた。キリスト者の大半はその危機に気づいていない。  

 今日のキリスト教会の危機は、神学を疎かにし、ムーブメントに流れてしまったことに原因がある。1980年代から今日までの流行したムーブメントが聖書的なのかどうかを検証する必要がある。メディアは新しいことに飛びつき。キリスト者もそれに続く。吟味することは、悪影響が出てからである。「正しい福音」に思えたので飛びつくわけであるが、その中に異なるものが混入している。これをⅩとする。このⅩにもいろいろ異なるものがある。Ⅹ1、Ⅹ2、Ⅹ3・・・。食品なら混入した異物は、成分分析して、特定できる。しかし、教えはそうはいかない。

 申命記には「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。」(申命記4:2、12:32)とある。黙示録には「これにつけ加える者があれば…この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば」(22:18、19)とある。このことから「異なる」とは、「正しい」教えの根本的な構成要素に対して、加えたり減らしたりすることである。ムーブメントは、福音を語っていると思っているが、ムーブメントの性質上、まんべんなく聖書を教えているわけではない。教えは特化され、あるいは強調されている。そしてムーブメントに共通することは聖書+Ⅹである。このⅩが異物である。Ⅹには猛毒、有毒、微毒、無毒(?)がある。Ⅹが無色無臭無味であった場合見分けることは困難である。被害者が出てから検証しても手遅れである。牧師はその意味で責任が重い。ムーブメントを取り入れる時、神学的に問題かどうか吟味しているだろうか。興味で飛びついてはいないか。友人の牧師が取り組んでよさそうだからと安易な選択をしてはいないか。食品は口に入れてからでは遅い。牧師は毒味役である。。だから牧師は神学を学んだ。神学とは、学問的な切り口で、深い吟味である。

by maranatha | 2015-02-10 13:19
宗教問題