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村上 密 Blog

<   2015年 04月 ( 17 )   > この月の画像一覧

混ぜ物をして売る

「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(2コリント2:17)

 「多くの人」、「神のことばに混ぜ物をして売る」に目が留まった。パウロの時代にも混ぜ物をして売る者が多かった。福音は只で受けたのだから、只で与えなければならない。ところが、只では生きていけない。そこで、只にならないように、特別な解釈で人々の興味を引き、生活の糧を得るような人物が現れる。「知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たち」(1テモテ6:5)である。ペテロも長老たちに勧めている。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。」(1ペテロ5:2)このように卑しい利得を求める者がいた。「神のことばに混ぜ物をして売る」人は自分の利得のために生きている。DVD、CD、本やテープを次々と作成し、クリスチャンに高額で売る。特定な人物の本が数年もしないうちに自分の書棚に一杯に並んだら気を付けるべきである。その人は特定な人にかぶれている。只で頂いたもので並ぶなら良いが、購入であるならば、売っている人の生活ぶりを観察すべきである。その人が質素でなければ、生活の糧の為に、福音の名を借りてその本やCDを売っているのである。従来の解釈を否定するからこそ、人々は新しい真理を解き明かした本だ、CDだと飛びつくのである。新しい真理はない。真理は変わらないからである。変わったのは解釈である。こうして、短い間に急速に多くの人々に特定の解釈が拡がって行く。これは危険な兆候と言える。パウロもペテロも福音を利得の手段にしなかった。現代は福音を利得の手段にしている者が多い。
by maranatha | 2015-04-29 23:12

カルト化教会の非常識

 カルト化教会では、常識が不信仰として否定されるために、指導者の考え方が常識に取って代る。なぜ、信者が急速に非常識になるのか、指導者が非常識だからである。彼は自分を特別な人と誤解している。信者も彼を特別な人と誤解している。カルト化教会では両者の誤解の上に「特別な教会」(カルト化教会)が形成されている。他の教会は否定されている。地域の教会と超教派の活動を共にしていても、それは優位性を誇示するためである。信徒は指導者の言動に疑問は持っても間違いとは思わない。不都合なことが起きた時は、不信仰か悪魔の所為にされる。指導者が自分の非を認めることはない。彼が誰かに何かに責任転嫁できる間は良いが、それがないと適当と思われる人物が虐待の対象になる。信徒は自分に火の粉が飛んでこないように、牧師への従順を装う。こうして、カルト化教会の規範構造のひとつが出来上がる。それは支配と服従である。
by maranatha | 2015-04-29 22:09

偽預言者

 近年、キリスト教界で問題となっているのは「預言」です。預言者でない人が、他人の未来について預言したり、個人の隠れた罪を指摘して悔い改めを勧めたり、裁きを伝えたりしています。それは当たったり、外れたりします。それでは巷の占い師と変わりません。聖書の基準で、預言を吟味する必要があります。申命記(18:18~22)には、真の預言者と偽りの預言者を見分ける方法が書いてあります。「預言者が主のみ名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(22)この基準では、現代の預言者は、不遜にも主のみ名で語っていることになります。申命記では「その預言者は死ななければならない。」(20)と断罪されています。今日では、このような厳しい基準を、預言するものが自分自身に対して当てはめていないのが現状です。厚かましくも預言者と自称している人物たちには気を付けましょう。そして、預言者と自称しないけれども預言の賜物が与えられていると自称している人物にも気を付けましょう。なぜなら、預言が神からのものであるならば、必ず実現するからです。しばしば、預言を人々が歓迎するするのは、学問的な権威でもなく、教会的な権威でもなく、それが神からのものと思われるからです。それは、人々が神からの直接的な啓示を待ち望んでいる表れでもあります。日常を変える力を望む心には危険が潜んでいます。聖霊によって必ずしも語っているとは証明できないからです。惑わしには、人々の期待に応える振りをして、人々を利用し、支配しようとする思惑が潜んでいます。キリスト教の諸教派では、牧師や伝道師、教師、宣教師を任命してきましたが、預言者を任命することをしてきませんでした。それは群れを守り、聖書に基づく信仰の継承を重んじてきたからです。このような立場をを否定し、自分を権威化する人物がいたるところに出てきました。これこそ聖書が警告している偽預言者です。(2012年4月4日の記事再掲載)
by maranatha | 2015-04-19 16:40

預言者の息子たち

 「預言者のともがら」(新改訳、口語訳)は、「息子たち」と訳すことができる。預言者たちが家族のようにして生活していた時代があった。「息子たち」にこだわるのは、エリシャがエリヤに対して「『では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように』と言った」(2列王2:9)からである。これは、申命記21:15~17にある長子の権利の要求である。長子は親から兄弟の中で二倍の相続を受けることができる。エリシャは、エリヤを父とする預言者たちの共同体の中で、長子の立場、後継者となることを求めた。そして、「『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている』」(2列王2:15)と他の預言者に認められた。

 このようなことは欲深い話のように受け取る人もいるが、エリヤの後継がどんなに大変なことを知っていたらなかなか要求できるものではない。欲深いのではない。エリシャが神の力を心から必要jとしていたことを表す言葉である。信仰の表れである。それゆえ、神はエリシャの願いに応え、エリヤの霊を与えられた。エリヤの霊とは預言者の霊である。預言者としての力を表す言葉である。エリヤのような人が、エリシャのような人が出てきてほしい。しかし出てくるのはエレミヤの時代のにせ預言者ばかりである。

by maranatha | 2015-04-17 23:12

惑わされるな

 バビロン捕囚前、それは捕囚されるだけの原因があった。神に仕える者たちの中に不正と不品行が充ちていたからだ。エレミヤの23章は大部分がにせ預言者に対する罪の宣告である。「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。――主の御告げ――」(エレミヤ23:11)「エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行なう者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、その住民はゴモラのようである。」(14)「万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。」(16)

 キリスト教の歴史の中で、もっとも多くの「預言者」が存在する時代を迎えた。そして、その預言者たちの資質と品性の低さはユダ王国の末期のにせ預言者に類似している。それは、彼らが「主は言われる」と言いながら「自分の心の幻」(16)を語っているからだ。そして、その多さが、終末の近さを思わせる。イエスは言われた。「にせ預言者が多く起こって、多くの人を惑わす」(マタイ24:11)今やバビロン捕囚前の一国のにせ預言者の数ではない。世界中に多くの自称預言者が起きている。そのほとんどが後の雨運動、レストレーションの影響を受けている人々である。誤った運動から真の預言者が起きるだろうか。聖書は何度も「惑わされないように」と警告している。

by maranatha | 2015-04-16 12:13

にせ預言者


 「ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオンの出の預言者、アズルの子ハナヌヤが、主の宮で、祭司たちとすべての民の前で、私に語って言った。」(エレミヤ28:1)そして「預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ。」(17)これは「預言者エレミヤは、預言者ハナヌヤに言った。『ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。それゆえ、主はこう仰せられる。『『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。』』」(15、16)と言ったエレミヤのことばの成就である。

 「『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカデネザルがこの所から取って、バビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの所に帰らせる。バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる。――主の御告げ――わたしがバビロンの王のくびきを打ち砕くからだ。』」(2~4)ハナヌヤの預言は誰れもが歓迎するような内容であった。彼は平安を預言する当時の王に仕える職業的預言集団の代表者であったと思われる。「そこで預言者エレミヤは、主の宮に立っている祭司たちや、すべての民の前で、預言者ハナヌヤに言った。預言者エレミヤは言った。『アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰って来るように。しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語っているこのことばを聞きなさい。昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」(5~9)本当にそうあって欲しいものだ、しかし、ハナヌヤの預言は、先の預言者たちと一致していない。イスラエルへの預言は審判であった。預言者を見分ける基準は「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記18:22)と書いてある。ハナヌヤは「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。」(2)「主はこう仰せられる」(11)と言うが、主からの言葉ではなかった。「ことし、あなたは死ぬ。」(16)そしてそのような成った。ハナヌヤの罪、それは「この民を偽りに拠り頼ませ」(15)「主への反逆をそそのかした」(16)罪である。そのにせ預言に対する審判は死である。 

 なぜ、にせ預言が民に受け入れられるのか。それは、民の願望に適うからである。民は適わなかったら拒否する。昨今の個人預言や預言の流行は、願望の実現をほのめかすような甘言が含められ、迎合主義である。エレミヤ28章から教えられることは、古の預言者との一致があるかどうか。それは、預言を吟味する基準である。今日の預言は、聖書との一致があるだろうか。個人預言の流行は占い的でいかがわしい。神により頼ませるのではなく、何度も個人預言(個人の未来)を求めるなど、預言するものへ依存度を深めている。預言ブームに乗っている人々は神により頼む信仰と聖書を深く学ぶことから遠ざかっている。

by maranatha | 2015-04-16 11:04

宗教トラブル相談センターの案内

 4月から、宗教トラブル相談センターの電話番号とメールアドレスが変更になった。宗教トラブル相談センターに電話の相談をするが、つながらないことが多い。不在が多いためである。携帯電話は持たない。京都府外に出張する場合は小型パソコンを携帯している。メールでの相談はどこででも対応している。電話相談は、21時から22時半までが比較的つながりやすい時間帯である。電話相談の頻度の多い方には、日中ではなく21時以降にと伝えている。23時以降は緊急に対応する時間帯なので相談は控えていただきたい。相談される方は、京都に常時在宅と思ておられるかもしれないが、仕事の性質上、私は出張が多い。ご理解を願いたい。

連絡先
電話 075-321-4320 
mail kyoto.murakami*gmail.com 
(メールする場合は*を@に変更)

by maranatha | 2015-04-13 11:00

軌跡

軌跡

 ずいぶん昔の話である。北海道へ友人を訪ねたとき、はじめてカーナビ搭載の車を借りた。使い方が分からないので、そのまま車を運転した。ところが帰りが夜になり、ただただ広い北海道の大平原で迷子になった。そこでカーナビを開いて見た。何か画面の隅に点々が続いている。何だろうと思って点々のところへ車で向かった。そして覚えのある道に着いた。往路の軌跡だったのだ。
わたしの仕事は、案内人のような仕事である。迷路から自力脱出できない人のために、数数取り組んだ宗教問題の経験を軌跡のように役立てる働きである。

by maranatha | 2015-04-13 10:04

頬を打つ

 イエスは、頬に関することで次のように教えておられる。「わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:39)「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。」(ルカ6:29)また、次のようにも教えられた。「イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、『大祭司にそのような答え方をするのか』と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。『もし、わたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし、正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。』」(ヨハネ18:22、23)前者は法定外での悪人に対する対処法で、後者は法廷における対処法である。

法定外における対処法
「右の頬打つような者には、左の頬を向けなさい。」これは右の頬を打つためには右利きの人は右手の甲で打たなければならない。それは酷い侮辱である。それで、左の頬を差し出し、そんな侮辱を受ける理由はないと無言の抗議をしている。イエスは、マタイにおいても、ルカにおいても、なされるままではなく、積極的に頬を出すように教えておられる。この箇所における注解書はどれも十分な説明を仕切れていない。ところが哀歌を開くとイエスの教えが良く分かってくる。「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主はいつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。地上のすべて捕われ人を足の下に踏みにじり、人の権利を、いと高き方の前で曲げ、人がそのさばきをゆがめることを、主は見ておられないだろうか。」(3:30~36)これは打つ者と打たれる者の間に正しく裁かれる神を置く積極的な取り組みである。また、イザヤ書50章6節から9節においては侮辱について神が助けて下さると書いてある。「神である主は、私を助ける」(7)「神である主が、私を助ける。」(9)自分の力では抗えないような出来事に対して神に希望を持ち、現状を信仰によって克服している。

法定での対処法
 証拠もなく、私的な侮辱を法廷で受ける覚えはない。ただ、身を任せるのではなく、公的な場所では、積極的に抗議している。法廷を否定しているのではなく、法廷の場で正しい扱いを要求しているのである。

by maranatha | 2015-04-13 08:03

絶えざる犠牲者

 「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」(ヨハネ11:50)これは大祭司の政治的決断である。これによって、イエスの死は避けられなくなった。
 
 昔も今も変わりなく宗教指導者は、全体を守るために、個人を犠牲にする。全体を守ることが彼らにとって絶対善である。だからこそ、憐れみの心もなく個人を切り捨てることができる。ところが全体を守るとは聞こえは良いが、実は自分にとって不利益と思われることを切るのであって、全体は利用されているに過ぎない。権威主義的な宗教指導者の犠牲者は、こうしていずれの団体でも起きている。団体にとって危険人物は外部からは知りえないことを公にして正そうとする内部告発者である。内部告発者は、その人がしていることは正しくても、団体の存在を脅かすために、その存在が団体にとって脅威となり、排除の対象となる。このような人が歴史の中では絶えず犠牲者となっている。今日、内部告発が法律で守られていても、告発された側は寛容ではない。何らかの報復が待っている。正義を貫けられない人はことの顛末を見通して自己保身を図る人である。そうするとどういうことになるか、大きいか小さいは関係なく、自己保身が正義の実現を妨げていることになる。自己義が社会正義を妨げ、神の正義を妨げていることになる。「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)罪深さを自覚し、自分もまた正されなければならない存在との自覚が必要である。これがあれば改善、改革、悔い改めを受け入れることができる。

by maranatha | 2015-04-12 17:55
宗教問題