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村上 密 Blog

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モーセでヨハネの福音書を読む

 「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(ヨハネ1:17)この聖句を鍵の言葉として、ヨハネの福音書を読むと、とても興味深い。

1章では、ある人々は「ことば」をフィロンと関係づけて論じるが、むしろ、ヨハネは、モーセ五書の創世記にある神のことばによる創造を思い起こすように書いている。

2章では、水が葡萄酒に変わる奇蹟は、出エジプト記にあるエジプトへの第1の災いであるナイル川を血に変えるモーセを思い出させる。

3章では、イエスは言われた。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」民数記にある荒野での救いを引き合いに、十字架による救いが語られている。

4章では、モーセの五書を信じるサマリヤ人へ福音が伝えられている。そこにはレビ記の礼拝を超える奥義が語られている。

5章では、イエスは、モーセの安息ではない先祖たちの安息の教えに縛られている病人を癒し、安息を与えるお方としてご自身を顕しておられる。

6章では、荒野で天からのマナを人々に与えたように、イエスがパンの奇蹟を行なっておられる。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(39)の中には当然モーセの五書が含まれている。なぜなら「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」(46)と書いてある。

7章では、「もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(23、24)律法をもたらしたモーセと比較してイエスが恵みを与える、安息を与える主として書かれてある。また「このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、『あの方は、確かにあの預言者なのだ』」と(40)申命記18章を思い起こさせる言葉を書いている。

8章では、イエスが、姦淫の現場で捕まえられた女を、モーセの律法によれば石打ちにされかねない女を救っておられる。

9章では、イエスは再び安息日に盲人が癒される奇蹟を行ない、神から遣わされたことを証言しておられる。盲人は、イエスを預言者と語り、やがてキリストと信じた。

ひとまず、以上のこと分かる通り、ヨハネは、イエスがモーセが次のように語った預言者であると証言しているのである。「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。」(申命記18:18、19)

by maranatha | 2015-09-29 23:41 | ヨハネの福音書

村上密ブログ アクセス数

エキサイトブログの記事別アクセス数を読者に提供し、
何がよく読まれているかを知っていただきたい。
書き手としては、読者が何を知ろうとしているのかの判断にしている。

9月 月刊レポート(抜粋)9月29日現在
順位 記事タイトル アクセス数
1 牧師の解決能力  1,372
2 札幌キリスト福音館が変わって行く 1,048
3 裁かれる牧師  1,010
4 田中信生 その光と闇 966
5 峯野龍弘牧師の動き 881
6 繁栄の神学(後の雨)はアッセンブリーの聖...880
7 山田博氏はどこに立っているか 800
8 村上密ブログ アクセス数 784
9 教材で学ぶか、聖書で学ぶか 738
10 正義と自己義 409

8月 月刊レポート(抜粋)9月17日現在
順位 記事タイトル  アクセス数
1 滝元明牧師 召天   1,996
2 峯野龍弘牧師の動き  1,429
3 偽使徒来日    1,280
4 フランクリン・グラハム  1,061
5 ビル・ジョンソン ケノーシスか 964
6 田中信生 その光と闇 880
7 記憶操作 871
8 金山昌秀 油まき事件の進展は 862
9 朝日新聞に宗教トラブル相談センターが 686
10「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」 663




by maranatha | 2015-09-17 22:12

山田博氏はどこに立っているか

 最近、山田博氏は、私のブログに対して、赤文字や青文字を交えて、ヒステリックな反論を書いている。彼はかつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教職だった。彼は、ある教会に対して起こした問題で、処分される前に辞任し、教会員を情報操作して、教会を教団から離脱させた。責任逃れをした、卑怯な人間である。牧師の夫人である晃美氏は、しばらく単立で過し、やがて日本基督教団に加入する、と言っていたが、その後、言葉通り実行しようとしているのだろうか。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から日本基督教団に加入するとしたら、信仰的転向と言える変化である。ペンテコステ信仰だった教会員の同意を取り付けないと加入できないわけで、離れ業で教団離脱をした腕前で、今度は教会員を説得して、日本基督教団に加入するのだろうか。阪神間の牧師会に参加しているが、日本基督教団にもし加入すれば、着物を脱ぎ棄てるように、そこを去るだろう。帰属意識を失った人間は自分の都合で渡り歩いていくものである。そこに信仰と思想的節操を求めることは無理な話である。この記事は過去にあった事実と発言に基づいて書いている。

by maranatha | 2015-09-15 20:02

マルタの信仰告白

 マルタは、マリヤがイエスの足もとにすわってみことばに聞き入っていたとき、もてなしのために、マリヤが私の手伝いをするようにとイエスに申し出たことがあった。イエスは言われた。「マルタ、マルタ、あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41、42)また、マリヤは過越しの祭りの6日前にナルドの香油をイエスの足に塗り、彼女の髪の毛でぬぐったことで良く知られている。このような出来事から、どちらかと言うと、マリヤの方が信仰深いと見られがちである。ところが、マルタはヨハネの福音書の中で明瞭な信仰告白をした最初の人である。「はい、主よ。あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:27)その後「マルタは給仕していた。」(ヨハネ12:2)とある。私たちは、マルタとマリヤを比較して、どちらが信仰深いだろうかと見るのではなく、それぞれが、イエスを愛し、仕え、最善をしていると判断すべきである。マルタはイエスにたしなめられた人、と言う理解に留まっている人は、ペテロの信仰告白に匹敵する信仰告白をした人、と理解を深めてほしい。

by maranatha | 2015-09-15 14:23

繁栄の神学(後の雨)はアッセンブリーの聖書理解と関係ない

 長い間、私は繁栄の神学を否定してきた。後の雨運動も否定してきた。そのことで有益な情報を以下に訳して掲載した。訳は依頼したが、訳文の責任はブログに掲載した私にある。

原文サイト
http://www.christianitytoday.com/edstetzer/2015/june/exploring-evangelicalism-assemblies-of-god.html


訳文

インタビュー

福音主義の探訪:アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団

「福音主義の探訪」シリーズの第一回目として、米国アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のCEO兼理事長であるジョージ・ウッド博士にお話を伺います。これから数ヶ月をかけて様々な福音主義運動の指導者たちにインタビューをしていこうと考えていますが、これはそのシリーズの第一回目の記事となります。同じ福音主義の傘下にありながら、聖霊、洗礼、礼典、賛美形式を含めた教会生活のほぼ全ての側面に関して人々は異なった意見をもっています。私の最初のインタビューの相手はジョージ・ウッド博士です。ウッド博士は2007年、米国アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のCEO兼理事長に選任され、今日に至るまでその職を務めておられます。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の成長は著しく、25年間連続の成長を記録したばかりです。私はその件に関する報道発表の一部を担当させていただきました。私はまた、ペンテコステ派が何故成長し続けているのかについての記事も書きましたし、「The Exchange」という番組にアルトン・ギャリソン氏をお招きし、ペンテコステ派に関するお話を伺ったこともあります。最後の宣伝になりますが、ペンテコステ派・カリスマ派・第三の波運動に関する私の一連のシリーズをお楽しみいただけるかもしれません。興味がある方はこちらをクリックください。このシリーズを始めるにあたって、わが国におけるペンテコステ派の最大教派の一つのリーダーからお話を伺うことにしました。本日、ウッド博士から福音主義のこの教派に関する話を聞いて、皆さんが何か有益なものを得られることを願います。


エド・ステッツァー(以下ES):他の福音主義の団体とあなた方の団体を分ける特徴とは何でしょうか?


ジョージ・ウッド(以下GW):アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(およびペンテコステ派の団体全般)と他の福音主義の兄弟姉妹を区別するものは二つあると思います。(1)私たちの核となる神学の組み立て方。(2)私たちの「これがあれだ」とする解釈学です。どういう意味かを以下に説明します。教父たちは聖書から正統的キリスト教の教理をまとめあげました。三位一体、受肉、贖罪などです。私たちはそれら全てを信じています。プロテスタントの宗教改革者たちはキリストの預言者、司祭、そして王としての三つの職能を説きました。私たちはそれも支持しています。しかし、福音書と使徒の働きの物語構造を考慮した上で、私たちは核となる神学的なメッセージを次のように組み立てましたーイエス様は救い主、癒し主、聖霊による洗礼者 、そして再臨の王である。この教えは通常四重の福音と呼ばれています(ウェスレーのきよめ派に属するペンテコステ派では、聖め主を加え五重の福音と呼ばれることがあります)イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです(ヘブル13:8)ので、私たちはイエス様が新約聖書の時代と同じように今日も引き続き働いておられると信じています。イエス様は、教会を通して、御国がすぐに来ることを宣言されます。また、御国の到来の顕現として、病人を癒し、悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出します。その贖いの死と命をあたえる復活によって、罪びとを救われます。そして信じる者に聖霊のバプテスマを授けます。このバプテスマ肉体的な最初のしるしが異言ですが、聖霊のバプテスマの目的は証する力を与えることです。「『これがあれだ』とする解釈学』とはどういう意味かというと、ちょうどペテロが一世紀のペンテコステの日にエルサレムにおいてヨエルの預言が成就したと関連付けたように(使徒2:16以降)、私たちも今起きている出来事(これ)をペンテコステの日に起こった出来事(あれ)関連付けるということです。この解釈学によると、伝統的なプロテスタントの終焉説は私たちにとってほとんど意味を成しません(そして終焉説は、あくまで学問的な構築によるものであって、明確な聖書的根拠を持ちません)


ES:あなた方の運動に関して、他の福音主義者たちがよく誤解することは何でしょうか?


GW:私たちの運動に関して福音主義者たちが犯しやすい大きな間違いが4つあると思います。(1)私たちは聖書の正典が閉じていないと信じている。(2)私たちがイエス・キリストよりも聖霊を強調する。(3)霊的エリート主義を実践している。(4)いわゆる繁栄の神学を説いている。

念のため申し上げますと、私たちは神様が、その聖なる御霊を通して、神様の教会に語り続けているということは信じています。しかし、この種の啓示が―それが預言であれ、知識の言葉であれ、解き明かされた異言のメッセージであれ何であれー聖書と同等のレベルにあるとは信じていません。正典-旧約聖書39巻と新約聖書27巻-は基準であり、啓示と推定される全てのものは聖書によって吟味されなければなりません。私たちが聖霊のバプテスマと御霊の賜物を強調するので、福音主義者の人たちが私たちが御子より御霊を強調していると考えるということは理解できます。しかし、私たちが(イエス様に焦点をあてた)四重の福音に基づいて聖霊について語っていることを知ると、私たちがイエス様を中心としていることが分かり始めるでしょう。聖霊のバプテスマによって私たちをキリストと一つとし、キリストは聖霊にあって私たちにバプテスマを授けます。それ故、私たちは地の果てにまでイエス様の福音を宣べ伝えることができるのです。また私は、なぜ福音主義者たちが私たちのことをエリート主義者だと考えるかも理解できます。私たちが異言を聖霊のバプテスマの肉体的な最初のしるしとして強調することは、他の人々に対して次のような冷やかしに聞こえるかもしれないからです。「私たちは聖霊を受けたぞ。そう、聖霊を受けたんだ。お前たちはもう受けたか?」と。これはもちろん私たちの真意ではありません。むしろ、異言を強調する目的は次の二つです。(1)聖霊体験には先があることを思い起こさせるため。(2)聖霊なしでは私たちは何もできないことを思い起こさせるため。私たちにとって異言は(「御霊が話させてくださるとおりに」(使徒2:4)とあるように)神様への絶対的依存を強調するものです。賛美と願い、そして認知を超えたとりなしをもって主を礼拝することを助けてくれるものです。初期のイエス様の弟子たちと新約聖書の記者たちが体験した賛美と祈りにおける主との親密な関係、それと同じ主との深い関係性を私たちももちたいと切に願っています。最後に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は癒しを非常に強調しています。これは信仰の強調と結びついていますが、いわゆる繁栄の神学は私たちの聖書理解とは一切関係がありません。繁栄の神学は、実際のところ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団といった古典的ペンテコステ派の団体を批判する20世紀半ばの後の雨運動から出てきました。

ES:あなた方の運動に関して、クリスチャンたちに知っていて欲しいことは何ですか?


GW: 地の果てにまで福音を述べ伝えるという私たちの情熱を知っていただきたいです。時に、私たちは情熱的過ぎると見られることがあります。確かに私たちの礼拝様式は熱狂的なものになることがあります。ですが、そうであってはならない理由があるのでしょうか?もし私たちがイエス様は今も人々を救い、癒し、聖霊によるバプテスマを授け、言うまでもなく、御国を打ち立てるために直ぐにでも帰ってくると信じるのであれば、私たちは信仰と希望と愛-そして熱烈さーに満たされていても不思議ではないでしょう、ねえ!?しかしこうした情熱が、イエス様がどのようなお方で何をしてくださるかということから自然に湧き出てくるものなのです。情熱そのものが目的であってはなりません。もし他のクリスチャンの方々が過去の熱気に満ちた礼拝を振り返ってみるならば、土着の教会を建設し、全ての国と地域と地方に住む貧しい人々の必要に憐れみ深く応えながら、福音を知らない人々に積極的に伝道している運動をみることができるでしょう。この福音に対する情熱こそが、魂の救いと土着の教会建設に対する意欲と相まって、最近「Christianity Today」誌が確認した事実を説明するのです。即ち、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団がわずか100年余りの間に(カトリック、正教会 、聖公会に次ぐ)世界で4番目に大きいキリスト教の教派に成長したという事実です。世界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団系の団体は現在、36万を超える教会数と6750万人以上の信徒数を誇ります。教団の歴史が(宗教的)実践にどのように影響を与えるのでしょうか?私は1980年代後半、私の仲間が(共産主義に入る前の)20世紀前半に開拓するのを手伝った中国のある教会を訪ねました。40年におよぶ迫害と対立の後、私の両親の同僚であったムン(Mung)牧師はその教会を再び建て上げることができました。彼は9年間投獄されており、75歳にしてその教会を再建することができたのです。私が彼と初めて会ったのは、彼が80歳の時でした。会話の途中で、私はムン牧師に教会員の数を尋ねました(これは教会成長運動の最中にあったアメリカにおける典型的な質問でした)5年前に彼が教会を再開したときは、主に高齢者ばかりで30名ほどがいたと彼は私に言いました。しかし私の質問に対して、彼は教会で洗礼を受けた大人の名前が手書きされた一冊の本を私に手渡しました。その本のページを次から次へとめくっていくと、ムン牧師の教会には現在1500名を超える人々が集うことが分かりました。私は驚いて尋ねました。「いったい何が起こったんですか?」彼は微笑んだだけでしたが、私が典型的なアメリカ人の質問をしたと考えたに違いありませんでした。つまるところ、私たちアメリカ人は教会成長の方法論にしか興味がありません。どんな本を読んだか、どんな集会に参加したか、どんな戦略を採用したか。私は彼のその答えを決して忘れません。「そうだね」彼は言いました。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。そして私たちはたくさん祈るんです。」それから彼は主がその町で何をしてくださったか、驚くべき癒しの御業も含めて、延々と語ってくれました。この出来事がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とその他のペンテコステ派の団体の歴史の本質を端的に表していると思います。20世紀の初めにその運動を開始したときは、多くの財産や立派な地位をもっていた訳ではありませんでした。しかし彼らがもっていたものは、イエス様が彼らに応えてくださるまで「祈り続ける」という決意でした。そしてそれは他の人々にイエス様のことを告げるのに十分な力を与えてくれたのです。彼らは、私たちが今日信じているように、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じだということを信じていたのです。


ES:なぜクリスチャンはあなた方のようになるべきだと思いますか?言い換えるならば、あなた方と他のクリスチャンたちとの違いを論証してください。


GW:もちろん、わたしたちは間違いも犯すし欠点ももっています。もし私の言うことを信じられないのであれば、私が過去数十年の間に犯した間違いの数々を喜んで列挙しますよ。しかしながら、私たちの大きな望みは、皆がイエス様に近づけられ、聖霊に満たされることなのです。聖霊の賜物は無限ですので、私たちも伸張性に富んでいます。聖霊が与えるものはまだたくさんありますし、私たちが受けるものもまだたくさんあります。私たちはただ、最初のクリスチャンたちが信じたものと彼らの行いにできるだけ近づきたいと考えているだけです。







by maranatha | 2015-09-12 22:11 | 繁栄の神学

教材で学ぶか、聖書で学ぶか

 弟子訓練では、弟子訓練の教材によって従順を学ぶ。牧師によっては、黒を白と言ったら白と言い張る牧師もいる。もし、牧師が間違っても、神が従った人を祝福してくださる、と断言する牧師もいる。弟子訓練には「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1)がよく用いられる。もし、信徒が弟子訓練の教材ではなく、聖書全体を学ぶなら、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」(使徒4:19)「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)を学ぶことになる。ペテロたちは最高議会の決定に従わなかった。
 
 弟子訓練は、従順を養うための聖句しか引用しない。権威への不服従を教えない。「上に立つ権威」は、直接的には当時のローマの支配であるが、弟子訓練では牧師に置き換える。よって、弟子訓練は牧師に従順な活動的な信徒養成に偏ることになる。牧師に限定された従順は、牧師を実体以上に大きくすることになり、弟子訓練を受けた信徒が何事も牧師に伺いを立てて従う構造が出来上がる。こうして、神の前に平等を教えるプロテスタントの中に、権威主義の教会が出来上がることになる。もし、善悪の判断を牧師に委ねれば、牧師が間違った時、教会そのものが悪い影響を受けることになる。終末には、にせ牧師やにせ預言者に信仰者が惑わされることが預言されてある。

 牧師の務めは、信徒を聖書の教えによって養うことである。そして、間違った教えが教会の中にはいり込まないように注意する。同じように、信徒も、もしも牧師が間違った教えを教会に導入しようとしていたら、それは間違っていますと言えるほどに成熟した信仰に至るべきである。信仰の依存から、自立した信仰による共存によって、教会は堅く信仰に立つことができる。

by maranatha | 2015-09-12 20:08 | 聖書

裁かれる牧師

 「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」(1ペテロ4:16~5:4)

 ここは、ペテロが終末について書いているところである。「さばきは神の家から始まる時が来ている」「まず私たちから始まる」「義人がかろうじて救われる」とある。ここは背教の教会と長老が裁かれている。とくに長老に警告している。「さばきは、まず私たちから始まる」とは長老たちからである。間違った長老は「強制」「卑しい利得」「支配」を用いる。御心に適う長老は「自分から進んで」「心を込めて」「模範」を示すことである。現代のクリスチャンたちがペテロの警告に耳を傾けるなら、終末に生きるどの牧師が裁きを受け、或いは栄光の冠を受けるかわかるであろう。私は繁栄の神学をしばしば批判してきた。彼らが強制と利得と支配を牧会の手段として用いているからである。

by maranatha | 2015-09-11 23:32

正義と自己義

 正しいことと正しいと思うことに取り組むことは違う。前者は正義だが、後者は自己義である。牧師によって、正しいと思うことが教会に次々と導入されてきた。牧師たちは、教会を成長させる方法、弟子を訓練する方法、悪霊を追い出す方法、苦い根を絶ち切る方法などをよい方法と思って取り入れた。しかし、私は、これらを取り入れた教会の信徒たちから、経済的に搾取された、精神的虐待を受けた、物理的な虐待を受けた、と悲痛な声を聞いている。方法論とは、自ずとそれに従うように造られたプログラムである。そこには強制力が働き、それになじめない人を疎外しはじめる。そこでは服従が常に求められる。信徒は、始めは良いと思ったから従ったが、次第に問題を感じ始めて、苦痛を感じ始める。しかし、従順が美徳のように語られるこれらの教会では、反対の意見が述べづらい状況が出来上がっている。こうして、プログラムによって、支配力と強制力を手に入れた牧師や信徒によって、方法論を受け入れた信徒がいろいろな虐待を受けるようになる。
by maranatha | 2015-09-11 18:29
宗教問題