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村上 密 Blog

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継承


福音は受け継がれてきたものである。イエスキリストから、どれだけの人を通して私たちに届いたのだろうか。私たちは、この福音を次の人に、次の世代に伝えていく責任がある。大切なものは、後継者を育てて、継承していかなければならない。

野球の投手には、完投する投手、先発投手、中継の投手、ストッパーなどがある。投手は完投することを目標にする。監督は勝利のために、完投する投手だけではなく、継投をする投手を必要としている。

重要なことに取り組むとき、人は最初から最後まで関わっていたいと思うものである。これをコミットメントと言う。重要であればあるほどで継続が大切である。そのためには、自分が受けたバトンを次の人に渡すことこに充足するようにしなければ、いつまでもおれがおれがとでしゃばってしまうのではないか。老害と言われるまで続けることは、晩節を汚すとも言う。後継者を育てることを怠る原因でもある。

ひとりの人をカウンセリングする時、交代した方がカウンセリングがうまくいくと思うときがある。性格的な問題を双方ともに持っているものである。頑張り通すことより、信頼できる人にクライアントを託すことも大切である。

教会を紹介してくださいと言われ、その人の住む町や都市に紹介する教会がない時、願った人もがっかり、私もがっかりするときがある。福音の継承が困難を覚える時代になっている。福音宣教と牧会に誠実に取り組む牧者を必要としているのは私たちだけでなく、神ご自身である。正しい福音の伝え手なしに真の教会はないからである。



by maranatha | 2016-04-28 22:15

痛みを負う

何が応えるか
肉体の痛みは、体を守るためであり、心の痛みは心を守るためである。子どもの頃、私は父にせっかんされた。私が悪さをしたからである。見かねた母が、父と私の間に入って、これ以上、せっかんしないように執り成した。父の手は、「おまえが甘やかすからだ」と、母へ向かって行った。母が、殴られ、蹴られているのを見て、私は心が痛んだ。父にせっかんされたときの痛みより、母が犠牲になってくれたときの心の痛みの方が、私には応えた。このことは私の心の痛みの原体験である。

福音理解の助け
キリストの十字架は、私の罪の身代わりであった。この福音理解の助けになったのは、私の原体験である。母が受けた痛みが、キリストが受けた痛みを理解する助けになった。厳格な父に涙を流さないようにしつけられていたにもかかわらず、私ははらわたゆすられるほど激しく泣いた。そして、私はキリストを信じた。

痛みが喜びに
教会のカルト化で、多くの被害者が痛みを体験している。その痛みをいやす者は誰だろうか。被害にあって叫んでいる時、神は助けてくれなかった。神はひとり子が苦しんでいる時でさえ、助けはしなかた。正しい人のために助けなかった神は、正しい人を信じた人も助けなかった。あなたの痛みを放置された。神は、被害者の痛みを、多くに被害者をいやすために用いられる。カルト化を克服するあゆみを、他の人の克服の道しるべとして用いられる。痛みの経験が、人の役に立つ時、痛みが痛みで終わらず、喜びにかえられる。

痛みを負う
私はカルト化の被害者の痛みをいやす働きをしている。私も傷つきながらである。痛みを負って、問題の解決のために歩いて来た。一般には理解されないこの痛みは、同じ痛みを経験したものが理解できる。誰かが自分のために追わなくていい痛みを負ってまで自分に近づいてくれたことで孤独からいやされる。祈っているでは傷つかない。その人に寄り添うとき傷つく。寄り添う人は、傷負い人である。その人は、ののしられ、さげすまれ、うとまれ、言葉のつぶてを身に受ける。それが痛みを負う人の十字架である。

by maranatha | 2016-04-28 00:13

叫びから希望へ

宗教被害者の叫び
宗教トラブル相談センター(略称宗トラ)には、諸宗教の信者から相談が寄せられる。宗トラは諸宗教からすると部外者である。その部外者に相談が寄せられるのは、諸宗教がその団体の宗教被害者の声をしっかり受け止めていないからである。宗教には、それぞれ規範がある。内規ではなく、公にされた規範に適わない問題を信者が犯したのであれば、その規範に基づいて裁くのは、規範に同意して入信したのであるから、信者はその裁きに服さなければならない。服したくなければ脱退すればよい。しかし、公にされた規範ではなく、利害関係で、裁かれる場合、その宗教の不正義は、確実に被害者の利益を損ない、信心を抑圧することになる。このようなことがまかり通るようになると、被害者は増加し、宗教内での問題は正しく裁かない団体の責任者たちによって二次被害を招くことになる。被害者は忍耐強い。しかし、その忍耐も、希望のある忍耐であるならばよいが、問題解決を先延ばしにする忍耐であるならば、苦痛を増すだけである。そこにあるのは言葉にならない叫びである。

希望のある忍耐
宗トラでは、被害者の声を受け止めて、加害者である団体と和解交渉をしている。和解に至らない場合は、問題によっては訴訟に至ることがある。できるだけ、団体の自浄作用を促すために、和解交渉を優先している。和解交渉は、代理人となって、無償で交渉している。訴訟の場合は、弁護士を被害者と協議して選定している。その弁護士に任せる場合もあれば、裁判の期間協力し合うこともある。宗教がその宗教内で問題を解決できない場合、すなわち、その宗教内の不正義によって、正しい裁きが妨げられた場合、司法の場に進むことになる。この時、宗教の暴力は、自分たちの不正義にもかかわらず、自分たちの権威を振りかざし、司法の場での決着を妨げようと圧力をかけてくることがある。その団体の名誉のために、いや、団体の責任者たちの自己保身のために、他の信者が情報コントロールされ、信者は団体の中で疎外さることがある。和解は自浄作用の結果である。訴訟は自浄作用がない結果である。和解には、疎外された人が帰って行く場があるが、訴訟の場合は、勝っても帰る場がないことがある。負けた側の心がかたくなで、訴訟で負けても、その結果を心から受け入れないからである。その場合、団体に帰る道を選ばないで、団体が自浄作用がないと公にすることで、被害者の拡大を防ぐことに貢献したことに慰めを見いださなければ気持ちの行き場がない。自分の身に起きた不利益を、他の人に役立たせる道には自己犠牲が伴うが、この道こそ、隣人愛である。闘っていく中で築かれる理解者たちこそ、神からの賜物であり、より問題を理解し、解決能力を身に着けたことは金銭にまさる財産である。このことは、被害者が、泣き寝入りで終ることなく、他の被害者を助け、効果的な情報と理解者を得たことによって、将来に希望を持って踏み出す力となる。

by maranatha | 2016-04-26 11:46

教会の病い

現代の教会は病んでいる
おかしいことを知らないで取り組む牧師
おかしくなっていく牧師
おかしくなった牧師を注意しない牧師たち
牧師にただ従うことが信仰と勘違いしている信徒たち
自分がおかしく変わっていくことを成長と勘違いしている信徒
おかしいと思ってついていけない信徒を除け者にする信徒たち
同じ考えの人の集まりになってしまった教会
誰も病んでいると思わなくなった教会


by maranatha | 2016-04-23 17:20

絶望

 ある人が教会の中で牧師からある被害を受けた。被害者は牧師に対して善処してくれるように訴えたが、牧師はそれを取り上げようともしなかった。その後も被害者は牧師に訴え続けたが、牧師は迷惑を被っている、自分こそ被害者だと言い広めた。牧師は被害者を装った。被害者は、自分と牧師だけでは問題の解決にはならないと判断して、役員会に訴えた。ところが、役員会は、十分な調査をしないで、牧師の主張を真に受け、正しい判断を誤ってしまった。被害者は教会で二重の被害、いや、多くの人から問題を起す人だと思われて、三重の被害を受けてしまった。もはや、被害者が教会に留まる状況ではなくなった。ある人が、牧師と被害者の経過を目撃し、その後の経過も良く知っていた。もし目撃者が被害者が不利になることを見過ごすならば、その目撃者は、牧師と同じ加害者とみなされる。被害者が被った不利益を黙って見過ごしたからである。どうすることが善であるかを知っていながら、それをしないことは罪深い行為である。牧師に加担したことになる。見ている人が、知っている人が証言を求められることがある。そのことを拒否すれば、その人は被害者を見捨てたことになる。もめ事に巻き込まれたくないからと言って、証言を拒否するならば、その自己保身が、教会の自浄作用を失くしてしまうことになる。被害者を救済できないばかりか、窮地に追い込むことにもなる。被害者が絶望するときは、知っている人が知らんぷりをするときである。だれも、私を助けてくれる人は、この教会にいないと思うときこそ、教会員は、教会の中で絶望を体験する。しかし、教会に絶望しても、神に絶望してはならない。正しい審判者である神は、教会ではなく、教会を超えて、被害者の申し立てを取り上げて、正しい裁きをされる。被害者は絶望してよい教会に絶望するのであって、それは間違いではない。もし、その教会に一人の正しい人がいたならば、絶望してはならない。そのひとりの証言によって、救われるからである。しかし、その一人の正しい証言者を弾圧するような教会であるならば絶望してよい。そのような教会に望みをもってはならない。望みを持つことが間違っているからである。
by maranatha | 2016-04-10 18:26

預言者の召命

預言者の召命
 王と祭司は世襲である。権力の世襲は必ず堕落する。神はこれを糾すために、預言者を遣わされる。預言者は世襲ではない。よって、彼らは自分が神に召させたことを人々に語る。預言者が召命物語をしばしば書くのは、血ではなく、油注ぎによって立てられたことを明らかにしたいからである。

パウロは使徒
 ペテロやヨハネは自分が使徒であることを手紙で書く必要がない。誰もが知っているからである。ところが、パウロはそういうわけにはいかない。かつては迫害者であった。それで、パウロは、彼の使徒性を疑う人々もいるので、彼の手紙の中で自分が使徒であることを書いている。

by maranatha | 2016-04-07 21:53

ロシアで「オウム真理教」は

モスクワ時事によると
「ロシア治安当局は5日、国内で「オウム真理教」の関係先計25ヵ所を一斉捜索したと発表した。」
ロシアでは「オウム真理教」の名称をまだ使っているのだろうか。
信者が拘束されたことも発表されている。

検索箇所
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040500772&g=int

by maranatha | 2016-04-05 22:57
宗教問題