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村上 密 Blog

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祝福について

「あなた(アブラム)を祝福する者をわたしは祝福し」(創世記12:3)さらに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創12:3)とある。祝福した人物を見て見よう。シャレムの王メルキゼデクである。彼はいと高き神の祭司で、「アブラムを祝福して言った。」(創14:19)それで「アブラムはすべての物の十分の一を彼(メルキゼデク)に与えた。」(創14:20)今日、「アブラ(ハ)ム」を「イスラエル」に置き換えて、彼を祝福する者は祝福されると言っている人々はどうだろうか。祝福された側から十分の一を受け取っていない。かえって、祝福して、献金をしている。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創12:3)とあるが、旧約時代にはそれは実現しなかった。パウロは「聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し『あなたのよってすべての国民が祝福される』と前もって福音を告げたのです。」(ガラテヤ3:8)と言っている。誰に対する信仰か、イエス・キリストに対する信仰である。その信仰によって、祝福は、異邦人である私たちが受けたのである。なぜ、イエス・キリストは十字架にかけられなければならなかったのか。「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり」(3:14)とあり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:14)書いてある。祝福はイエスの十字架を通して実現したのであって、私たちが今日のイスラエルを祝福することによって受けるのではない。もし、物質的な祝福を求めて、アブラハム(イスラエル)を祝福するものは祝福されるを行っている人は考え直さなければならない。。いや、祝福されたから、イスラエル祝福するのであれば、一国ではなく、すべての国民が祝福に預かるように、世界宣教をしていくべきである。
by maranatha | 2016-05-30 23:22

さばいてはならない

さばいてはならない。カルト化した教会でよく聞く言葉である。正しいさばきがないので、抗議すると、信仰的でないと言われる。口を封じるために用いられるのは、イエスの次の言葉である。「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイ7:1)ところが、イエスはさばきについて次のように教えている。「もし、あなたの兄弟が罪を犯しなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし、聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし、聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(18:15-17)イエスはさばきを禁じているのではない。さばきに必要なのは正義である。それゆえ、イエスはさばきのプロセスを教えている。段階を踏むことと証人の重要性を強調している。聞かない場合は、教会からの追放であるが、むしろ、兄弟を回復させる試みが最初の段階にある。
by maranatha | 2016-05-23 10:44

「イスラエルを祝福する者は、祝福される」の解説

「イスラエルを祝福する者は、祝福される」ということを聖書的原則のように強調する団体がある。団体は、祝福の根拠に次の聖句を引用している。「 あなた(アブラハム)を祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)しかし説明がない。パウロは「聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される。』と前もって福音を告げたのです。」(ガラテヤ3:8)パウロは、祝福を「神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださること」であると教えている。さらに、パウロは「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:13、14)と説いている。祝福は「信仰によって義と認めてくださる」(3:8)「信仰によって約束の御霊を受ける」(3:14)ことである。旧約の祝福に自分の概念(ご利益主義)を持ち込んではならない。イズムやムーブメントを持ち込んでもならない。大切なことは新約で取り上げられ、説明されてある。お題目を唱えるような信仰から卒業すべきである。今の「イスラエルを祝福する者は、祝福される」に取り組んでいる教会は、見当違いなことを実践している。すでに、イエスをキリストと信じる信仰によって、私たちクリスチャンは義と認められ、約束の御霊を受けている。その他の祝福を求めるのであれば、それは的外れである。祝福を求めるのではなく、祝福はもう与えられているのである。
by maranatha | 2016-05-17 23:19

特集3 リバイバル

後の雨とリバイバル

シオンの子らよ。
あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。
主は、あなたがたを義とするために、
初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、
前のように、初めの雨と後の雨とを
降らせてくださるからだ。
(ヨエル2:23)

後の雨運動は、自分たちの運動をヨエルの預言(2:23)の成就と解釈している。ところが、ペテロは、ペンテコステの出来事(使徒2章)を、初めの雨とは言わないで、ヨエル2章28、29節の成就としている。その他の使徒も、ペンテコステの出来事を初めの雨とは言っていない。後の雨運動は1938年にカナダからは始まった。彼らは、ペンテコステの出来事を初めの雨とみなし、自分たちの運動を後の雨とみなしているに過ぎない。雨は収穫と深く関わっている。それで、後の雨運動系の預言者たちは、終末には大リバイバルが起きると主張する。ところが、イエスの世の終わりへの言及(マタイ24:4~14)とパウロの終わりの日への言及(2テモテ3:1~4:4)は、大リバイバルを否定する内容である。
 
 
なぜ、大リバイバルが起きないのか。裁きは、人が神に立ち返るのではなく、神に背く人が増えるから起きるのである。イエスは「人の子の日には・・・ノアの日に起こったことと同様です。・・・ロトの時代にあったことと同様です。・・・人に子の現れる日にも、全くそのとおりです。」(ルカ17:24~30)そして、「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18:8)と語られた。これは、信仰が見られない状況である。エレミヤはバビロンへの捕囚を預言した。多くのにせ預言者は、平和を預言した。ユダ王国が堕落したからこそ審判の時が来たのである。聖書には、終末の大リバイバルではなく、惑わしと、困難な時代が預言されてある。後の雨運動が形を変えて広がりつつある。これに惑わされる人も増えつつある。世界中で「リバイバル」が起きているが、それは、健全な教えではなく、後の雨運動と繁栄の神学が結びついた増殖である。これは神からのものではなく、人からのものである。その証拠に、その指導者たちは、金銭欲、名誉心、物欲、性的不道徳、偽りの教えで多くの問題を起こしている。これこそ終わりの日の背教の現象ではないか。さばきは教師からとあるが、まさに教師が堕落して行くからこその言葉である。

by maranatha | 2016-05-16 23:01

特集2 リバイバル

リバイバルか背教か

後の雨運動の預言者たちは、キリストの再臨の前に、大リバイバルが起きると預言している。聖書の中には、そのような預言はない。自称預言者たちは聖書にないことを言っていることになる。聖書啓示に基づいてキリスト者が生きるか、にせ預言者に与えられた「直接啓示」(?)に基づいてキリスト者が生きるか、今問われている。イエスとパウロとペテロの代表的な教えを見て見よう。

イエスは、マタイ24章で再臨や世の終わりの前兆として、にせキリスト、にせ預言者の惑わしを予告された。ここにはリバイバルのことは言及されてはいない。むしろ、惑わしが告げられている。

パウロは、「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。」と警告している。困難な時代(2テモテ3:1~8)にリバイバルが起きるとは書かれていない。むしろ、パウロは「真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ3:4)と警告している。

後の雨運動は、イエスやパウロからはリバイバルを語らない。ヨエル書に「主はあなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」(2:23)「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日。わたしは。しもべにも、わしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(2:28、29)この教えから、初めの雨は使徒時代のペンテコステで、後の雨は20世紀に始まった聖霊運動であると解釈している。

ペテロは「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。するとあなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、あしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(使徒の働き2:17、18)と説教している。ペテロは「その後」を「終わりの日」とし、ペンテコステの現象は、ヨエルの預言の成就と言っている。ペテロは再臨前に大リバイバルが起きるとは一言も言っていない。

後の雨運動の信奉者たちは旧約聖書に書いてあることをダイレクトに20世紀に当てはめるが、イエスやパウロが予告し警告した明白な背教については言及しない。ここに大きな違いがある。後の雨に対する解釈は願望を持ち込んだ解釈にすぎない。むしろ、再臨前、終わりの日とも言われる時代に起きるのは背教である。イエスは「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるだろうか。」(ルカ18:8)と言われた。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」(マタイ24:37)ノアの洪水は、罪が満ち信仰が見られない時代への裁きである。信仰が見られないからこそ、人の子の日は突然に思われる。

弟子たちは、メシアがローマ帝国の圧政からイスラエルを独立させてくださる。そして王国を打ち建ててくださる、と思って従った。そして彼らの願望がイエスの言葉と行動への理解を妨げた。現代のクリスチャンは、再臨前に大リバイバルが来るとの願望で、足元に忍び寄っている偽りの教えに気付かないでいる。キリスト教史上、このように多くのにせ預言者が出て来た時代はない。これこそ再臨前の惑わしではないか。大リバイバルなら浮き立つ喜びである。しかし、背教ならば、だれにも惑わされないように、気をつけなければならない。

by maranatha | 2016-05-16 23:00

特集1 リバイバル

リバイバル

リバイバルについて誤った教えが広がっている。そこで、今までブログに書いた記事を若干訂正加筆して掲載することにした。

リバイバルの意味
リバイバルは、信仰復興と訳されている。第一義的には、信仰が再び活力を取り戻すことである。信じていない人が信仰を持つことは、「新生」、「新生体験」と言う。キリスト教が広く伝えられ、多くの人々に信じられてきた欧米の世界で、信仰が形骸化し、あるいは、信仰から遠ざかった人々が、再び、信仰に立ち返る現象に用いられてきた。英語のrevivalの「re」は「再び」で、「viva」は「生きる」である。第一義的な意味を押え、語源を理解して置くと、本来の意味から外れることはない。

願望としての名称
日本のキリスト教会の名称にリバイバルが使われている時、願望が込められている。それは、信仰復興ではなく、たくさんの人が救われてほしいと言う願望である。これは、本来の意味から外れている。地域名にリバイバルが付けた教会があるが、自分たちの地域からリバイバルを願っていることは分かるが、それは自分たちの教会を中心にした狭い考えである。

聖書から見る
世界の終末に、大リバイバルが起きると信じている人々がいる。イエス自身は次のように語っておられる。「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。」(口語訳ルカ18:8)弟子たちは「あなたが来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24:3)に対して、イエスは「人に惑わされないように・・・わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わす・・・にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:3、5、11、12)と語られた。終末の預言は、大リバイバルではなく、惑わしによる大いなる背教である。大切なことは、願望から終末を見るのではなく、聖書が終末について何と言っているかである。

リバイバルではなく神の正義を
リバイバル、リバイバルと叫んで、何らリバイバルらしきことは起きていない。反省もなく繰り返すことは慎むほうが良い。また、「預言者」が来て、北海道から沖縄までのいずれかの地域の名前を挙げながら<〇〇にリバイバルが来る>と預言している。しかし、一向にリバイバルは来ない。反省もない。このようなにせ預言者に惑わされないようにイエスは語られたのではないか。欧米では、キリスト教人口が減少している。アジアやアフリカや南米ではキリスト教人口が増加している。しかし、そこで語られる福音は繁栄の神学に毒されている。また、中国に置けるクリスチャン人口が取り上げられるが、人権問題や社会正義に関して十分な役割を果たしていない。これは韓国に類似している。韓国では、軍政下でキリスト教が拡大したが、プロテスタントは人権に対して弱腰であった。そして反共への防波堤としてキリスト教が政治的に利用されても来た。民主化して、キリスト教はさらに拡大して行った。その中で、繁栄の神学の種がまかれ、スキャンダルがやがて広がった。軍政下、民主化の中でも、キリスト教はいつもキリスト教倫理が問われてきた。韓国ではキリスト教の異端が無視できないほどに勢力を持っている。「神の愛」を語ることは大切である。同時に終末には「不法がはびこるので多くの人たちの愛は冷たくなる」とあるので、「神の正義」が説かれなければ、いよいよ愛は冷えていくことになる。

by maranatha | 2016-05-16 22:59

獣とキリスト者

獣は動物を捕食する。それも、動物の群れの弱いものを襲う。人も弱い人を食い物にする人々がいる。このような人々を人は「獣」と呼ぶ。キリスト者の中にも人を食い物にする者たちがいる。このような人々を聖書は「にせ兄弟」「にせ教師」「にせ預言者」「にせキリスト」と呼んでいる。にせ者とキリスト者の違いは「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。」(ローマ15:1)と書いてあるように、弱い人をになうことにある。ここに隣人愛の大切さがある。キリスト者の中に貧困ビジネスを手掛けている人がいる。人を食い物にするこの働きは獣性を持っている。黙示録には獣への裁きが書いてある(14:9~12)。

by maranatha | 2016-05-13 22:28

イザヤ書と私

私は、イエス・キリストを信じた頃から、イザヤ書の40章から66章までを愛読してきた。心にのこる言葉を励みとし、祈りの言葉としてきた。当初は聖書の文脈から聖句を学ぶことを知らなかった。それで、神が聖書を私にくださったので、私は単純に私に示された聖句を祈りの言葉として、取り組む力を与えてくださいと祈り、与えてくださると信じて歩んできた。これは、イザヤ書が私に与えた歩み(信仰生活)である。

1 「だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正も道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。」(40:13、14)ヨハネが「神がお遣わしになった方は、神の言葉を言葉を話される。神が御霊を無限に与えられるからである」(ヨハネ3:34)と書いているので、わたしにも主の霊をいよいよ与えてくださいと祈った。私は異端、カルト、カルト化した教会の問題を手掛けてきた。どれも先端的な取り組みであった。資料も十分にないなかで、主を顧問として歩んできた。

2 「見よ。わたしの支えるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」(42:1)私は神に召し出されて牧師となった。私に与えられた霊は公義をもたらすことを願っておられる。それで、公義をもたらすことが私の働きとなった。

3 「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(50:4)私に弟子の舌を与えてください。疲れた人を言葉で励ますことができるようにしてください。こうして私は今までにはなかったカルトカウンセラーの道を歩み始めた。

4 「義を知る者よ、心にわたしのおしえを持つ民よ。私に聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。」(51:7)異端、カルト、カルト化した教会から随分と非難されてきた。そんな中でこの言葉は私を支えてくれた。

5 「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。」(52:11、12)このことばが心に強く迫り、私は仕事を即座に辞めて、神学校へ行く準備を始めた。

6 「主はこれを見て、広義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」(59:15、16)宗教に惑わされて苦しんでいる人を助ける機関がないことに私は心を痛めた。ないなら私が始めようと、カルトカウンセラー、宗教トラブル相談センターに取り組んできた。

7 「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。」(61:1)主は私をカルトから搾取された貧しい人、カルトによって心を傷つけられた人のもとへ遣わされる。私はこの道を、信仰を持って40年、牧師になって35年歩んでいる。

by maranatha | 2016-05-07 18:02

特集 償い 1

償いについて過去の記事を訂正加筆して特集とした。

「赦しなさい」という人は多いが、「償いなさい」という人は少ない。被害相談者は、身近な人々から「赦しなさい」と強制され、赦せないで、苦しんでいる。時には「赦しなさい」が口封じの言葉として用いられている。聖書の中には償いについて書いてある。償いを請求するは悪いことではない。
1、自発的な償いについて
  加害者が被害者に対して自発的に損害賠償する場合、現物
  にその代価の20%を増し加えるように教えている。
  (レビ記6:2、民数記5:6、7)
2、強制的な償いについて
(1)加害者が現物未処理の場合は、現物の2倍をもって償う。
  (出エジプト22:4)
(2)加害者が現物を処分した場合は、現物の4倍をもって償う。
  (出エジプト22:1)
イエス・キリストを信じた収税人頭のザアカイは、盗み取ったものは、4倍にして償うと言っている。これは自発的なものである。強制的な償いが4倍だから、自らに厳しく対応しているわけである。また、自分の財産を半分は貧しい人々に分け与えることを宣言している。これも自発的なものである。これらの自発的発言によって、ザアカイが救いをどんなに喜んでいるかが分かる。カルト化した教会の牧師は、自発的な謝罪と償いをすることはない。「赦しなさい」を教会員に教え込み、神の立場に立って、赦さない人を裁いている。パウロはピレモンへの手紙の中で、オネシモの負債について、自分が肩代わりすると表明している。罪の肩代わりはできないが、償いの肩代わりはできることを教えられる場面である。カルト化した教会の牧師の肩をもつ友人の牧師たちは、償いの肩代わりをすることはない。問題は、聖書を自分の都合の良いように引用するが、正しく解くということをしないことである。

by maranatha | 2016-05-07 14:00 | 償い

特集 償い 2


『新改訳聖書 ハンディー・コンコルダンス』には「つぐない(償い)」は、「出21:30 レビ5:16 24:21 Ⅱサム22:25 詩18:24 箴6:35 」「つぐなう(償う)」は「Ⅱサム21:3 イザ40:2 ヨエ2:25」とある。「償い」「償う」は旧約ばかりで、新約にない。『新約旧約聖書語句大辞典』にも、「償い」「償う」は新約にない。牧師は、「償い」が新約にないから、赦すことが大切だと教えている。
『黒崎幸吉著 註解新約聖書Web版 マタイ伝』の18章を引用してみよう。「兄弟の罪を赦せ18:21ー18:35」の中に「償ふ」(25)「償はん」(26)「償へ」(28)「償はん」(29)「償ふ」(30)が出てくる。新改訳では「返済する」「お払いします」「借金を返せ」「返す」「借金を返す」である。このことから、「償い」が「返済する」と同じであることが分かる。
マタイでは、「それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」(マタイ18:26、27)赦したのは、ただ赦したのではない。ひれ伏して、猶予を乞い、全部お払いいたします、と言っ多から赦したのである。
「ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』」(マタイ18:21、22)この聖句に償いや返済が書かれていないから、赦すだけでいいと言ってはならない。22節の「イエスは言われた」から始まる「」は35節で終わっている。22節のペテロの質問に、イエスは23節から35節まで答えておられる。すなわち、謝罪と償いを申し出ている者へ、イエスは赦せと説いておられる。
カルト化した教会では、牧師がマタイの18章をよく用いて「赦しなさい」を強制する。実は彼らが一番「赦しなさい」と引用しているところが、反証の聖句となっている。これで、カルト化した教会の牧師が聖書の学びを良くしていないことが証明された。赦しは強制されてするものではない。謝罪し、償う人に対して、罪を赦し、償いを受けてもいいのである。また、罪を赦し、償いを免除してもいい。それは被害者の自由である。

by maranatha | 2016-05-07 14:00 | 償い
宗教問題