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村上 密 Blog

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謝罪と赦し

「謝ったでしょう。謝ったのに、いつまで、そのことについて言ってくるの。」これは、謝罪ではない。謝罪したと思わせて、責任逃れをしている。「あなたがそう思うのなら謝ります。」これは謝罪ではない。したことを謝っているわけではなく、思わせたことを謝っているので、問題を逸らしている。これでは、被害者意識をとがめられているような気になる。「私の謝罪をAさんがあなたに伝えたでしょう。」対面の謝罪を避けている。そればかりか、謝罪を済ませたと言って開き直っている。謝罪にならない。

謝罪が相手に届く方法はあるのか。それは加害者が罪を悔いて、損害を与えていたら賠償することである。それでも、被害者には赦せない思いがあるかもしれない。加害者の罪に対する対応は、罪を悔いて、謝罪し、賠償したならば、今度はそれを被害者がどのように受けるかが問題となる。赦す、赦さないは、被害者の自由であるが、赦すのが正しい対応である。なぜなら、赦せない自分を赦すことができるからである。

罪は、人間関係を破壊するが、罪を正しく清算することで、被害者も加害者も神の前では同じ罪人であり、神に赦されなければならない存在であることを学ぶ。自分を全く正しいと位置づけて被害と向き合うと、裁くことに思いやりを欠くことになる。自分を同じ弱さを持った人間として、加害者に対応すると、回復を促す心を持って取り組むことができる。
by maranatha | 2016-08-28 22:43 | 赦し

牧師の神格化

なぜ、プロテスタントの教会でカルト化が進んだのか。多くの善良なるクリスチャンがカルト化に抵抗しなかったからである。むしろ、カルト化教会が取り入れるムーブメントに対して積極的に参加し、その教えを実践した。牧師が良いと判断した教えを、自分も良いと判断して取り入れたため、途中経過で自己吟味を怠り、最初の思い込みを継続した。カトリックは、教皇と教会の権威を主張した。それに対して、プロテスタントは聖書の権威を主張した。ところが、カルト化教会の牧師は、自分の解釈を権威化し、自教会を権威化し、牧師自身を権威化した。これでは、教皇の権威に対して聖書の権威を主張したプロテスタントが、宗教改革の精神を失っていることになる。そう、カルト化教会はプロテスタントの教会ではない。なぜなら、プロテスタントの精神を継承していない。プロテスタントは、人物の神格化を否定する。しかし、カルト化教会は、牧師を神格化する。直接啓示を取り次ぐ牧師を神の代理人と見做している。これこそ神格化である。信徒は、牧師が罪を犯した場合、教会おいて裁かない。裁判が否定され続けているので、信徒が無力化されている。カトリック新教会法典第1404条に「教皇は、なにびとによっても裁判されない。」とある。カルト化教会内においては、「牧師は、なにびとによっても裁判されない。」と成文化されていないだけである。
by maranatha | 2016-08-19 22:25

医療否定

エホバの証人の輸血拒否は医療否定である。カルト化教会にも医療否定がある。カルト化教会は、すべての病は悪魔と罪の結果であり、祈りによって癒せると信じるあまり、医療行為を不信仰と考える。沖縄キリスト福音センター(美浜教会)の牧師は裁判で医療否定はしていないと証言したが、原告側は医者に掛かるのは不信仰と教えられたので、病院に行かず、深刻な肉体的苦痛と機能低下を招いたと告発している。ところが、牧師は自分の病を癒すためには、こっそりと医療機関に掛かっていた。病と罪を短絡的に結び付ける信仰観は、健康な人を自己義認へと誘う。信者は、一所懸命礼拝に通い、奉仕し、献金し、それを信仰的と勘違いし、自己満足する。だから、不都合なことが起きると、何が悪かったのだろうかと、自分を責める。神は、信者を教え、戒め、矯正し、義の訓練のために、病も用いられる。信仰義認によると、義人はいない。ひとりもいない。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」(ローマ3:24)そこにあるのは、自分と言う存在が赦された罪人にすぎない、生かされているのは神の恵みによる、この信仰である。それは、人の価値や功に少しも依存しない、ただ、神の一方的な好意である。聖書は祈りによってすべてのことが解決できるとは教えてはいない。自己義認は、自分の信仰と祈りで解決できると教える。それで、自分の信仰が正しいと証明するために、癒しを求める。お題目のように、毎日毎日祈る。病の中にも、苦しみの中にも神の恵みがある事を知らない。
by maranatha | 2016-08-19 20:26

今沖縄は

今沖縄は
ほぼ毎月沖縄訪問をするようになって、12年目を迎えた。奉仕の内容は礼拝、祈祷会、聖書の学び、セミナー、グループカウンセリング、個人カウンセリングである。訪問以前は、沖縄は日本で最も超教派の活動が盛んと言われていた。実際、毎年毎年、国内外から次々と年に何人も講師を呼んで、超教派の集会が開催されていた。招かれる講師が、実に問題のある講師たちであった。そのうち、招かれる講師たちの不祥事や不都合な真実が次々と明るみになり、次第に超教派の活動が下火となった。ここ数年、従来型の超教派集会は止んでいる。理由はいくつか考えられる。1つ、超教派集会の費用対効果が低くなった。2つ、招かれていた講師たちの問題が次々と明らかになり、講師を選定する運営側への信頼が崩れた。3つ、超教派の集会に参加していた一部の教会のカルト化教会の実態が明らかになり、協力関係が崩れた。4つ、教会のカルト化の被害者の抗議の声が浸透した。5つ、教会の経済がひっ迫し始めた。以上は個人的な感想である。

超教派とは言えない
超教派の集会が開催されなくなって、規模の小さな同じ傾向の仲良しグループの教会が集会を開いてはいる。このような集会は超教派と言えるだろうか。超教派とは教団、教派を超えていることを言う。例えば、ホームカミングはプログラムも講師も事前には分からない集会である。だれが、どのような話をするか予測もつかないこのような集会は超教派とは言わない。聖書は「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分たちにつごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:3、4)と言っている。
by maranatha | 2016-08-19 20:14

手を汚さないで殺す方法

殺したい人間を、自分の手を汚さないで殺す方法が聖書には書いてある。「サウルは、ダビデをぺリシテ人の手で倒そうと考えていた。」(1サムエル18:25)ダビデは「ウリヤを激戦地の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」(2サムエル11:15)とヨアブに命じた。

サウルに殺されかけたダビデは生きたが、ウリヤはダビデの計略で死んだ。ナタンはダビデに言った。「どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻とした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。」(2サムエル12:9~10)

聖書では、自分の手を汚さずに人を殺しても、自分の手で殺したことになる。ダビデはこの殺人によって、神の言葉の通りに家族の問題に終生悩まされた。

権力を手に入れた人は、それを失うまいとして、ライバルを追い落とし、権力をゆるぎないものにしようとする。ライバルを追い落とす材料は何でもよい。事実を脚色し、都合の良いようにことを運ぶ。人間の営みの中には、これに近いことがよくある。殺さないまでも、人を計略にかけて、その人を追い落とすことである。
by maranatha | 2016-08-14 15:27

カイロスの会 セミナー

カイロスの会主催のセミナーの案内です。たいせつな教えについて学んでいますか。復活という言葉はよく聞きますが、教えの内容については不十分な人が多いようです。説教ではなく、セミナー形式で充分に伝えたいと思います。

                  
          カイロスの会セミナー


             「復 活」


 「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(1コリント15:3~8)
 以上のパウロの言葉から、復活がどんなに大切な出来事であるかを知ることができます。キリストが「よみがえられた」そして「現われ」を6回繰り返しています。このように同じ言葉を繰り返しているところは他にありません。私たちはこのように大切なことを教会で繰り返し学んでいるでしょうか。
今回のセミナーでは不足している復活について共に学びます。


●講師 村上 密 牧師

●日時 2016年10月22日 土曜日 13時30分より

●場所 沖縄船員会館 第二会議室 (那覇市前島3-25-50 TEL 098-868-2775)
*お車でおこしの方は、とまりんの駐車場をご利用ください。

●参加料 1000円

①13:30~15:30   発題

②15:45~16:45   質疑応答

●お問い合わせ newlife0102@hotmail.com  090-9782-5892 (新垣)
by maranatha | 2016-08-11 21:37 | カイロス

えこひいき

聖書に「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」(ヤコブ2:1)とある。カルト化教会ではえこひいきが頻繁である。「あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、『あなたは、こちらの良い席におすわりなさい』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい』と言う」(2:3)金持ちを「you」として歓迎するのではなく「it」として歓迎するのである。その証拠に、金持ちが気前よく献金している時はもてはやし、そうでなくなると貧しい人と扱いが同じになる。往々にして、えこひいきは、交わりの中にいる時には気付かず、交わりの外にいる時に気付く。ヤコブの手紙の2章1節から9節までは、えこひいきについて書いてある。初めと終わりにえこひいきの文字がある。これを克服する教えは、「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。」(2:8)と書いてある。依怙(えこ)とは「私利」である。「もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」(2:9)
by maranatha | 2016-08-05 23:04

琵琶湖へ

琵琶湖へ行って、湖畔の喫茶店でくつろいだ。
散歩に出たら、見知らぬ猫と眼があった。
猫語でミャ~と声をかけたら、トントンと走り寄って来た。
警戒心なく、目の前でゴロンとなった。
あごをなで上げると気分よく何度も催促した。
コミニャ~ケーションは久しぶりだった。

ついでに、佐川美術館を訪ねた。
人口池に浮かんでいる建物に感動した。
池が建物を囲んでいる。
池の上を風が通り過ぎると、
キラキラと波紋が美しい。
建物の通路に面する大きなガラスが、
時には鏡のように、波紋を写す。
何を見に来たのだろうか。
水面を眺めている時間の方が長かった。

くつろごうとしたら、違うくつろぎが待っていた。
猫に会い、移ろう波紋を眺めた。
by maranatha | 2016-08-05 22:18

今、沖縄の超教派活動は

ほぼ毎月沖縄訪問をするようになって、12年目を迎えた。奉仕の内容は礼拝、祈り会、聖書の学び、セミナー、グループカウンセリング、カウンセリングである。訪問以前は、沖縄は日本で最も超教派の活動が盛んと言われていた。実際、毎年毎年、国内外から次々と年に何人も講師を呼んで、超教派の集会が開催されていた。招かれる講師が、実に問題のある講師たちであった。そのうち、招かれる講師たちの不祥事や不都合な真実が次々と明るみになり、次第に超教派の活動が下火となった。ここ数年、従来型の超教派集会は止んでいる。理由はいくつか考えられる。1つ、超教派集会の費用対効果が低くなった。2つ、招かれていた講師たちの問題が次々と明らかになり、講師を選定する運営側の信頼が崩れた。3つ、超教派の集会に参加していた一部の教会のカルト化教会の様子が明らかになり、協力関係が崩れた。4つ、教会のカルト化の被害者の抗議の声が浸透した。5つ、教会の経済がひっ迫し始めた。以上は個人的な感想である。超教派の集会が開催されなくなって、同じ傾向の教会が集会を開いてはいる。このような集会は超教派と言えるだろうか。超教派とは教団、教派を超えていることを言う。例えば、ホームカミングはプログラムも講師も事前には分からない集会である。だれが、どのような話をするか予測もつかないこのような集会は超教派とは言わない。聖書は「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分たちにつごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:3、4)と言っている。
by maranatha | 2016-08-05 21:01
宗教問題