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村上 密 Blog

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フェイクニュース              レインボーヒーリングハワイの体験記

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by maranatha | 2017-06-27 23:02 | レインボーヒーリングハワイ

指紋が盗まれる

宗教トラブルの相談を受けていると、こちらが教えられることがある。最近、ピースサインの写真から指紋が盗まれること知っていますか、と質問を受けた。それは知りませんでした。問題ですね、と返答した。それで、ネットを検索してみた。以下が有益である。

参考:ピースサインの写真から「指紋」盗み取られリスク・・・
どんな法的な問題に発展するか?
https://www.bengo4.com/internet/n_5584/

by maranatha | 2017-06-27 22:31 | 宗教トラブル相談

反知性主義

カルト化した教会には、反知性主義の牧師が多い。理由は、十分な学びをしていない人が牧師になり、信徒が自分以上にいろいろと学ぶことを嫌うからである。自分が学ばなかっただけではなく、信徒が学ぶことを心理的に妨げているわけである。信徒は、聖書理解が阻害されているので、牧師の語る説教からのみの聖書理解となる。キリスト教関連の本は牧師の許容範囲の中で購入されるだけである。それは体験談が中心の本であったり、牧師が取り入れたいテキストが主である。これでは、十分な聖書理解は育たない。信徒は、自分で理解できるレベルに達していないので、聖書理解の不足した牧師に依存することになる。牧師は、自分の聖書理解不足を補うために、ムーブメントに乗りやすい。教会ごと走る傾向にある。何かに取り組むことに時間をかけることによって、信仰の実践をしている錯覚に陥る。それは聖書的なものではないために、信仰は育たないが、自己満足をある程度得られるために、成長していると錯覚することになる。それは信仰もどきがはびこっているに過ぎない。その結果、人間疎外が家庭から、従来の人間関係が破壊されていくことになる。カルト化するとは、反社会的な集団に堕ちることだけを指すのではない。従来の人間関係の破壊によって、神を中心とした教会ではなく、牧師中心の教会を作り上げることである。非常識な集団の形成は、反知性主義の牧師を中心として成立する。そこでは、非常識が信仰的と誤解されて受け入れられ、問題が発生する温床となる。反知性が反倫理的になるのは当然である。人は、知性、情性、意思と堕落する傾向にある。
by maranatha | 2017-06-24 09:21 | 教会

「聖書用語検索」

「聖書用語検索」で「成就」を検索した。マタイは、旧約聖書からイエスがメシアであること、また、イエスの教えとわざが聖書の成就であることを書いている。このような伝え方はマタイのオリジナルではなく、ルカの言葉を借りれば次の次第である。「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自身について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(24:27)「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話した言葉はこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」(24:44)マタイは聖書の成就としてのキリストを伝えた。欄外注を見ればもっと旧約との関連が書かれてある。それも合わせて読まれることを勧める。何年も年々も作成されたテキストを購入しての学びから、自分で聖書を調べて学びに移行するためには、この「聖書用語検索」は良き助けになる。

「聖書用語検索」はとても有益である。読者の聖書の学びに用いられることを勧める。
http://www.tuins.ac.jp/~takao/cgi-bin/biblesearch.cgi
キーワード:成就
matt: 1:22
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
matt: 2:15
ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。
matt: 2:17
そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。
matt: 2:23
そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われた事が成就するためであった。
matt: 4:14
これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
matt: 5:17
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
matt: 5:18
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
matt: 8:17
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
matt:12:17
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
matt:13:35
それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」
matt:21: 4
これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
matt:27: 9
そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。

by maranatha | 2017-06-22 22:32 | 聖書

よりどころ

イスラエル人は、BC.586年のバビロン捕囚によって、国を失った。捕囚帰還後の第2神殿時代は、メド・ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配下で、大祭司による600年間の支配体制が続いた。大祭司は、ギリシャの支配下でサンへドリン(最高議会)ができたが、宗教的な最高権威者であった。大祭司は支配国との関係維持と権力の維持に力を注ぎ、世俗的な権力者となっていた。イエスは大祭司の権威に服しなかった。イエスは父なる神との関係と聖書(旧約聖書という名称は当時なかった)の権威を重んじた。それも、先祖の言い伝えではなく、ラビたちの文書でもなく、当時すでにできていた聖書をよく引用して語られた。使徒時代後300年間新約聖書はなかった。新約聖書のなかったキリスト教の時代があった。そのとき、キリスト教徒は、聖書からイエスはメシアであると教えた。そしてイエスの教えと使徒たちの文書を重んじて福音を伝えた。やがて、イエスの教えと使徒たちの文書が新約聖書となった。このことから、私たちが何をよりどころとして生活しなければならないかを学ぶことができる。権力は必ず腐敗する。世俗の権力と協力関係を結ぶ宗教はどんな宗教でも必ず腐敗する。変わらない権威の下に生きることである。私たちは時の体制下で生きつつも、神の国(神の支配)の下に生活をすることである。

AD.70年イスラエルは再び国を失った。大祭司を中心とするサドカイ派は神殿崩壊と共に亡くなった。その後、パリサイ派が中心となって、サンへドリンが形成され、旧約聖書を重んじ、シナゴーグを中心にしたユダヤ教の信仰生活が民衆の中に定着していった。

by maranatha | 2017-06-21 11:17 | 聖書

献金 2

クラウディウス帝の在位は紀元後41年ー51年である。アガポが「世界中に大飢饉が起きると御霊によって預言した」(使徒11:28)のは紀元46-47年に起きたユダヤの飢饉と思われる。この飢饉が起きたとき、アンテオケ教会の「弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。」(使徒11:29)バルナバとサウロをエルサレムの長老たちに遣わし、救援の物(献金)を届けさせた。

「献金」は力に応じてであって、強制ではない。律法にある十分の一でもない。コリント人への手紙の1と2に出てくる「献金」はすべて、エルサレムへ届ける救援の物である。今日のような宣教や教会運営のための献金ではない。それゆえ、パウロが言うところの「献金」は、紀元46-47年に起きたユダヤの飢饉以後に出てくる言葉である。それ以前は、「献金」ではなく「代金」(使徒4:34、37、5:2、3)という言葉が使われている。「献金」は諸教会からエルサレムへの救援の物であり、「代金」はエルサレムの中で「必要にしたがっておのおのに分け与えられた」(4:35)お金である。

「代金」は初代教会から始まったものではない。「『国のうちにいるあなたがたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」(申命記15:11)これは主の命令である。初代教会は、この教えを、当時のユダヤ教徒以上に実践した。それは憐れみ深い神が望んでおられることだと知っていたからである。そしてそれはイエスの教えでもある。「施しをするときには、人に褒ほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。・・・施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(マタイ6:2、3)教会の週報に献金者名と金額を書く教会があるが、何か間違っていないか。

「献金」と「代金」に共通することがある。それは貧しい人々への捧げものである。教会が「献金、献金」と強調して、それも旧約聖書の「十分の一」を引き合いにして「献金」を強調し、個教会の経済が潤い、繁栄を謳歌したり、高額な牧師給を支払うような教会の有り方は、全く聖書的ではない。「献金」は「平等」(2コリント8:13、14)を図ろうとしておられる神のご計画にたずさわる業である。

by maranatha | 2017-06-15 22:21 | 献金

苦い根 5

「苦い根」についてカトリックの注解書を引用した。

15しかし神への道は容易ではなく、その道を歩き始めた者は、途中で警戒を怠らないように注意しなければならない。「神の恵みをもらいそこなう」のhysterein apoとは熟語で、軽率に遅刻したために何か(ここでは神の恵み)を失うことを意味している。賢いおとめと愚かなおとめのたとえ話(マタイ25:1-13)参照。したがって、ここでの本当の意味は、キリスト信者はぶらぶらして気を散らしたり、わき見をして道からそれてはならない、ということを含んでいる。「にがい根が芽を出す」という句の要素は70人訳申29:18(マソラ本文29:17)にある。そこでは文脈全体が神なしに「歩く」と決心した人の先入観に関連している。この節の考えは、双方とも人生を歩くという考えによって選ばれたものであることが後でわかるであろう。「悩ませる」には実際にギリシャ語ではふたつの主語がある。すなわち、1)神の恵みを失ってしまった人、2)「にがい根」。道をぶらぶら歩く人および神なしで自己充足していると思っている人、このような人種は社会全体に悪影響を及ぼしている。なぜなら、そこには悪い手本と社会的な責任問題があるからである。

P.1571、1572『カトリック聖書注解書(改訂版)』(エンデルレ書店)

by maranatha | 2017-06-14 22:45 | エリヤハウス

苦い根 4

「苦い根」について、2つの注解書を引用した。

人を信仰の道の出発点に立たせるのも、またその道中の生活を支えるのも、<神の恵み>である。したがって恵みによりたのむことをやめてはならない。<神の恵みから落ちる>のは、恵みに欠けたところがあるからではない。神の恵みに満たされておりながら、生活の目標を聖なる神を見ることに置かず、「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々」(詩一七14)と同じ思いに支配されるとき、人は神の恵みから離れるのである。このような不信仰の心は<苦い根>であり、これが芽を出し、広がるのを放っておくと、教会全体が悪い感化を受けて、多くの人が同じ傾向に誘われてゆく。著者は、申命記のことばを思い起こしているようである。「万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない」(申二九18)そのような者が群れの中から出ないようにお互いに<よく監督>しなければならない。

P.280『新聖書注解 新約3』(いのちのことば社出版部)

第二は<苦い根が現れて・・・悩ま>すことのないようにということである。この句は申二九・一七の引用である。申命記では偶像礼拝者に対して言われているが、ここでは信仰から遠ざかる者、神に不住順な者に対して言われている。

P.386『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』(日本基督教団出版局)

by maranatha | 2017-06-14 11:31 | エリヤハウス

「苦い根」 3

「苦い根」についてのブルースの註解を引用した。

もし何か初期の段階の罪が人々の間に現れるなら、すぐに引き抜かなければならない。黙認するなら、必ず神の恵みを無にすることになる。なぜなら、全会衆が汚染されてしまうからである。そのような罪を、申命記29:18の表現を借りて「苦い根」と呼んでいる。その個所でモーセは、カナンの偶像礼拝に陥る傾向に対して、「あなたがたのうちに、毒草や苦よもぎを生じる根があってはならない」とイスラエル人に警告している。

P.515 ,516『新約聖書注解 へブル人への手紙』(F.F.ブルース 訳者 宮村武夫 聖書図書刊行会 いのちのことば社)

by maranatha | 2017-06-13 23:39 | エリヤハウス

苦い根 2

「苦い根」についてバークレーの註解を下記に引用した。

われわれは欽定訳が「苦い根」と訳していることに注意しなければならない。この言葉は申命記二九章一八から来たもので、外国の神々を自分が拝むばかりでなく他の人にも拝むことをすすめ、社会に害毒を流す人のことをさしている。著者はこのような悪影響を及ぼす人に注意するようにすすめている。いつの時代にも、クリスチャンの道徳的規準が不必要に高すぎるとか、厳格すぎるとか思う人たちがいる。また、クリスチャンはなぜ、この世が成功、快楽と呼ぶものに気をとられてはいけないのかと問う人がいる。また、クリスチャンの中には、この世の人と同じような生活をして満足している人たちがいる。初代教会においては、特にこの傾向が強かった。初代教会は異端の海に囲まれた小島のようなもので、教会の会員たちは回心してから長くて一世代であったから、容易に古い生活に逆もどりする危険があった。ここに書かれているのは、クリスチャンが神よりもこの世のことにより深い関心をもたないように、またクリスチャンの社会に意識的に、あるいは無意識的に広がるこの世の悪影響にくれぐれも注意するように、という警告である。

P.223、224『ウィリアム・バークレー著/聖書註解シリーズ13 へブル』(訳者 松村あき子 ヨルダン社)

by maranatha | 2017-06-13 23:23 | エリヤハウス
宗教問題