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村上 密 Blog

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道の光

私が語ることと聞くことの大切さを教えられた聖句はイザヤ書(50:4)である。

神である主は、私に弟子の舌を与え、
疲れた者をことばで励ますことを教え、
朝ごとに、私を呼びさまし、
私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。

キリスト教会でカウンセリングが重視される前に、イザヤ書から教えられたのである。

私が仕事を辞めて、神学校に進む決心したのもイザヤ書(52:11~12)であった。

去れよ。去れよ。そこを出よ。
汚れたものに触れてはならない。
その中から出て、身をきよめよ。
主の器をになう者たち。
あなたがたは、あわててでなくてもよい。
逃げようにして去らなくてもよい。
主があなたがたの前を進み、
イスラエルの神が、
あなたがたのしんがりとなられるからだ。

私は直ちに辞表を書き、上司に提出した。これからどうするのかねと聞かれ、牧師になるため、神学校に進みますと答えた。それは君に合っている。頑張りたまえと励ましを受けた。その夜、両親に報告した。大切なことを親にも相談しないで決めてと叱られた。私たちはいつお前がそんなことを言い出すかとハラハラして過ごしてきた。お前は一生の仕事を見つけたのだから、泣いて家の敷居を跨いではならないと言い渡された。神学校での3年間、両親は仕送りをしてくれた。

by maranatha | 2017-07-31 12:57 | 聖書

わたしのところ

50キロ位の人が相談に来た。重荷でつぶされそうですと心の重荷を語りだした。話を十分聞いた後で、今日問題が解決しても、あなたの体重は同じです。あなたは重さ0グラムの思い煩いによってつぶされそうになっています。私にたくさん話をしたことによって心が軽くなっていると思いますが、イエスにその荷を明け渡すなら、もっと軽くなります。100キロの重い荷を背負えば体がつぶされる。さまざまな思い煩いは心をつぶす。心は持ちようである。私は相談事を神に相談して取り組んでいる。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)ここには誰のところに行けば休息があるかを教えている。イエスのところである。
by maranatha | 2017-07-31 12:11 | 聖書

救いは神のわざ

私は真理を求めていたが、統一教会員から誘われて、三月ほど、統一教会に通った。その後、私が誘った友人が、ここは教会ではないみたいと言ったので、君が言う教会はどんな教会だと聞いた。すると、友人が友人からもらった手紙に、もし教会へ行くなら島崎のカトリック教会か島崎の熊本聖書教会へと紹介があった。さっそく、カトリック教会に足を運んだ。門が閉まっていた。熊本聖書教会へ足を運んだ。集会案内が門前にあったので、日曜日に足を運ぶことにした。牧師は準備していた礼拝説教を取りやめて、統一教会の間違いを織り込んだ説教をした。会堂の後ろの席に友人と座っていたが、牧師は説教を終えて、私のところに足を運び、「君は随分と本を読んでいるようだが、聖書を読んで見たまえ」と語りかけてきた。説教はこころに残らなかったが、その言葉が心に残り、聖書を以前にも増して読むようになった。そんなある日、私はイエス・キリストの声を聞いて回心した。私は教会を紹介した人の名前を覚えていない。全く面識はない。しかし、私が教会の門をたたいたのは、友人の「ここは教会ではないみたい」、その友人の友人が教会を紹介した手紙の一文がきっかけである。いずれ天国でその人と会う時が来る。お礼を言いたい。今も、ここは教会ではないみたいと言った友人は熊本聖書教会で信仰生活を続けている。伝道することは大げさなことではない。日常の生活の中での何気ない言葉を、神が用いて人を救われる。神は私を用いて多く人を異端から救われた。誰がこのような展開を思い描くことができただろうか。神のみがなせるわざである。
by maranatha | 2017-07-31 11:48 | 救い

わたしの荷

宗教トラブル相談センターには様々な相談が寄せられてくる。出張が多いので、電話での相談からメールでの相談に比重が移っている。時々大変でしょうと慰労のことばをいただくが、大変ではない。私が負っている荷は、イエス・キリストから委託された働きだからである。イエスは「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と語られた。もし、その荷が重たければ、それは人から負わされて荷か、自分が勝手に負った荷である。なぜ、イエスの荷は軽いのか。それはイエスが共にくびきを負ってくださるからである。くびきは2頭の牛をつなぐ役割を果たす農具である。力の強い牛の方により負担がかかるようになっている。もし、イエスの荷であれば、その荷の負担はイエスが負ってくださているわけである。これがわたしの荷か軽いの意味である。
by maranatha | 2017-07-31 11:10 | 聖書

京都観光

京都では外国人の観光客が多すぎて「観光公害」と言われるようになった。迷惑をかけるケースも増えている。今日、バスの中で、若い外国人女性が80代の女性に席を譲っていた。その後、若い外国人男性が70代の女性に席を譲っていた。見ていて清々しい気分になった。外国人のマナーが悪いとよく聞くが、良いマナーの人もいる。
by maranatha | 2017-07-25 20:16 | 京都

癒し

21歳の時、私は椎間板ヘルニアと坐骨神経痛を患っていた。歩くこともままならず、走ることはかわず、毎日毎日痛みの連続であった。背中を前後に曲げることすら、激痛でできなかった。医師が手術をしても治るかどうかは半々であると言った。私は手術を選ばなかった。選んだのは祈りであった。憐れみ深い全能の神に祈ることにした。毎日毎日祈り続けた。ある日、祈っているとき、私は癒された。全く癒された。歩き、走り、ブリッジをして癒しを確認した。私は生きて働く神に深く感謝した。このことが、その後の私の信仰生活を助けることになった。

痛みが続くと心が折れそうになる。希望が心の中に湧いてこない。将来の幸福を描くことができない。そんな中で支えになったのは、異端(統一教会)の中から神は私を救ってくださった。その神が、この病を癒してくださる力を持っておられると言い聞かせ続けたことであった。私は藁にすがっているのではない。生ける神にすがっているのだという私なりの信仰であった。神は本当に憐れみ深い神である。

私は医療を否定しない。23歳で発症した花粉症は今も続いている。このことで随分病院にはお世話になった。しかし、椎間板ヘルニアと坐骨神経痛は治るか治らないか半々と言われたので、医師の手に身をゆだねるのではなく、憐み深い神の手に身をゆだねたのである。

by maranatha | 2017-07-23 22:36 | 信仰

怒りを裁いてはならない

カルト化教会を脱会した信者が、新しい教会を捜して困惑するのは、被害に遭ったことを怒って牧師に伝えたとき、裁いてはいけない、と牧師から言われる時である。なぜ、被害に遭ったのに怒ってはならないのか。おまけに、赦しなさいと言われる。被害者は、牧師が訴えをじっくり聞くのではなく、牧師の価値観を押し付けてくるとき、ここは自分を受け入れてくれる教会ではないと判断する。私は、カルト化教会の脱会者が、教会不信、牧師不信に陥っているのを対応している。もし、受け入れ教会が本気で対応しようとするならば、被害者の訴えを聞いて、聞いて、それでも聞いて、断定的な判断をしないで、なぜ怒っているかがわかる怒りに対しては、怒るのがわかりますと認めることである。赦しなさいと決して言ってはならない。なぜなら、カルト化教会の牧師は反省しているわけでもなく、被害者に謝っているわけでもない。被害者が被ったことを現在も残っている信者に行い続けている。そのような牧師に対して何も注意をしないで、目の前の被害者を従来の価値観で牧師が対応すると、被害者からは牧師が加害者側に立ていると思われるからである。牧師が、私は中立です、と言ってはいけない。それは被害の事実を聞いていながら、何もしないことである。火事が起きているのに、ただ見ている野次馬と変わらない。中立とは体裁のいい言葉で、要は傍観者である。最も悪い対応である。
by maranatha | 2017-07-21 22:13 | カルト化教会の被害者への対応

聖書の学び会

聖書の学び会を続けている。今日、コリント人への手紙第2を終えた。12時半から15時まで、1時間ほど解説し、1時間ほど教えられたこと、気づいたこと、感想を語り合う、途中茶菓子をいただきながら15時までには終えるようにしている。説教とは違って、じっくり聖書を学べるのが、この聖書の学びの魅力である。旧約はほぼ終えた。新約はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒、ローマ、ガラテヤ、コリント、次は飛んでテサロニケである。京都にいる限りは月曜日と金曜日に取り組んでいるが、月に2回から4回、平均したら3回であろうか。この学びに参加する人は、聖書を学ぶ喜びを体験している。
by maranatha | 2017-07-14 19:24 | 聖書

石の本遺跡

1995年3月1日、熊本日日新聞の新生面に下記の記事が掲載された。この記事を切り抜いて長い間机の引出しに保存していたが、ブログに掲載することにした。石の本遺跡は考古学上の発見のニュースでは私にとって最もうれしいニュースである。それは故郷の託麻三山の小山山の東麓のことだからである。近くに父の生まれた家も先祖の墓もある。墓の北側が石の本遺跡である。祖母が畑仕事をした場所は果実連の北側にあるが、その付近には託麻水源地の取水井がある。健軍川のもう一つの最上流である。この付近から1.5キロ浅い谷を東に進んでいくと、六道塚古墳がある。この付近には、弥生式土器が散布している。また遺跡等が散在する。周りは畑であるが、地理院地図の治水地形分類図(1)を見ると浅い谷の微高地で、古くはこの辺りから水が流れていたと思われる。石の本遺跡の付近にも浅い谷がある。ここも同じように水が流れていたと思われる。というのは、六道塚古墳は辛川、唐川とも言われ、この少し北側から白川にかけて浅い谷を形成している。ここが昔川だった可能性がある。そうすると川がないのに唐川と名前がついた説明がつく。六道塚古墳の地下は白川から浸透した地下水が豊富に流れている。小山山西麓には小山神社があるが、ここから流れる水は藻器堀川に流れ、やがて水前寺公園に、それから健軍川に合流する。小山山から水前寺近くまで低地が続いている。この川沿いはよく氾濫する。小山山は健軍川の最上流でもある。小山山の麓は3万年前から人が住み着き、各時代の遺跡群が集まっている。地形と集落形成の鍵は水である。水がなければ人は住めない。しかし、水な無いような場所に古い時代に人が住んでいたのは、実は水があったからである。失われた水を捜すのに地理院地図の治水地形分類図は役に立つ。

「熊本市平山町の石の本遺跡から約三万年前の打製石器が出土した。「県内最古」と県文化課は発表したが、考古学関係者によれば、「まとまって出土した例では西日本最古」の大発見だそうだ▼いったい、三万年前昔とはどんな時代なのか、マンモスやナウマン象がまだのっしのっしと歩いていたころだ。ヒトでいえば、私たち直接の先祖となるホモ・サピエンスが出土した時期とも重なる▼出土した打製石器は約三千点。大きいもので十㌢ほど。大半は三、四㌢大で手のひらにのせたら、いかにもかわいい。安山岩を打ち割って薄片にしたあと、形を整えたものだ。肉を割いたり、皮なめしに使ったりとさまざまな道具として用いていたらしい▼火山国の日本列島は大量の噴出物が地層を造っている。その地層の絶対年代が分かれば、出土品の時代も分かる。発見された石器はシラス層の下から出てきた。このシラス層は鹿児島の姶良カルデラの火砕流によって造られたものだ。とすれば、この石器を使っていた人々の子孫たちは、すさまじい火山活動に巻き込まれたはずだ▼氷河期によっては朝鮮半島とつながっていた時代もあるらしい。シラス層の上から出土する石器は朝鮮半島のものに似ており、火山噴火を境に九州では大陸からやって来た旧石器人にとって代わられたという説をなす人もいる。▼古代のことになるとついロマンを抱いてしまうが、事実はもっと過酷なものだったに違いない。自然の厳しさにただただ翻弄され続けてきた。それは文明社会の今日もそう変わらない。しかし、したたかに生き続け、いま、私たちのいのちととながっている。

左上「情報」をクリック。全て>治水地形分類図>更新版(2007~2014年)

by maranatha | 2017-07-13 22:08 | 故郷

ブログのカテゴリ分け

今、ブログ記事のカテゴリ分けに取り組んでいる。これで、読者は、集中的に興味のある記事を読むことができる。書き続けてきた記事がかなりの量になってきたので、過去の記事を検索するのにも便利になる。
by maranatha | 2017-07-07 17:03
宗教問題