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村上 密 Blog

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什一献金は救いの条件ではない

ある牧師が、オリーブ熊本城教会のことで問い合わせてきた。物件を次々に購入している。どんな教会かホームページだけではよくわからない。牧師の経歴が書かれていないからである。それで関連する記事を捜してみた。「神さんの言うとおり」のブログに牧師のメッセージの内容が記載されてある。以下は2016年8月16日のメッセージの抜粋である。

https://ameblo.jp/kinoshita-kotoba/entry-12191034752.htmlより
【8月16日メッセージ】
4月16日の熊本地震から4ヶ月が過ぎました。
愛するおかんと兄弟姉妹のお祈り、ご支援に感謝と御礼を申し上げます。
私たちの教会は 真理と結婚して約11年前にスタートしました。
1万5千円の家賃の小さい丸太小屋からスタートしました。
祈りと断食するしか何もありませんでした。
この10年間、ヨブのようには大げさですが、夢みる者のように主は祝福して下さいました。
熊本城の近くに8階建と9階建の賃貸マンションを建て
1階がResurrection And Life Japan Churchです。
去年の3月にオリーブミルクロード教会も購入しました。
いつも 主の栄光の為に成るならください と祈ると与えられます。
主のしるしと不思議、奇跡をこの10年間見てきました。
携挙に残されたらいけないので、十分の一献金はメッセージしますが、
会堂献金等一切していません。
900坪【1坪は3.3㎡】、450坪、250坪、500坪の土地に4階建、7階建、8階建、9階建.10階建と新築賃貸マンションを毎年のように建てました。

神の祝福を受けた話である。何の問題もなさそうな話であるが、「携挙に残されたらいけないので、十分の一献金のメッセージします」と書いてある。これは什一献金をしない人は携挙に残されるととれる発言である。となると、祝福された話ではなく、携挙の時に残されたくないので、牧師の話を真に受けた人は什一献金をすることになる。これでは、救いに什一献金が付け加えられていることになる。これは福音ではない。いろいろな間違った救済論が語られてきたが、新しい間違った救済論が語られていることになる。

by maranatha | 2017-08-25 23:15 | 献金

理性と論理の大切さ

聖書の中のユダヤ人を一括りに見てはならない。テサロニケのユダヤ人は「ねたみにかられ」(使徒17:5)とあるが、べレヤのユダヤ人は「テサロニケにいる者たちよりもよい人たち」(使徒17:11)とある。そのよさとは「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日調べた」(使徒17:11)聖書に根拠を求める姿勢である。

今日、現象を追い求めるクリスチャンが増えている。体験主義、主観主義に陥って、そのことへの忠告を聞こうとしないクリスチャンがいる。聖書を調べ、聖書に根拠を求める信仰姿勢が必要である。歴史は、体験と主観に走る信仰者が惑わされることを教えてくれる。聖霊派の中に多くの問題が起きているのは、聖書と歴史から学ばない傾向が強いからである。ただ、一括りに聖霊派を見てほしくはない。聖霊の導きと聖書への真剣な取り組みをしている人もいるはずである。

パウロはどんな福音宣教をしたのだろうか。ヨーロッパ宣教においては「聖書に基づいて彼らと論じた。キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえなければならないことを説明し、また論証して『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです』と言った」(使徒17:2、3)。「論じる」「説明」「論証」は論理的で客観的な取り組みである。その取り組みは何に対してか、それは変わることのない真理の神のことばである。

by maranatha | 2017-08-20 23:10 | 聖書

油注ぎ

旧約聖書には油を注がれて就く職務がある。それは、王と祭司と預言者である。王と祭司は世襲であるが、預言者は神によって立てられ一代である。世襲による弊害が出てくるとき、預言者はモーセの教えに帰るように語りかけた。

油注ぎは、神の霊が注がれることの比喩である。神の霊が注がれて行動する預言者は歓迎されるよりも歓迎されない。それは、人が神に従うよりも自分の欲に従って行動することを求めているからである。

「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。」(141:5)という聖句がある。欄外には「頭にそそがれる油は」別訳では「最上の油」と書いてある。心から心配して、愛情を持って、私たちを正してくれる存在がいかに重要であるかを、この聖句は教えてくれる。

油を注いでくださいと祈る人々がいる。その祈りは神によって砕かれることを含めて祈っているだろうか。自己実現のために神の力と助けを求める利己的な信仰に陥ってはいないか。そのような信仰観を正す言葉に耳を傾けないで、油を注いでくださいと祈っても、それはむなしい。最上の油は、「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように」と祈る者の上に注がれる。私たちは神に忠実な信仰者を身近に持って、時に正してくれる人を必要としている。消費を煽る公告と繁栄を煽る説教に振り回されてはならない。

by maranatha | 2017-08-20 22:32 | 聖書

動物物語

書店で『その犬の歩むところ』(ボストン・テラン/訳 田口俊樹 文春文庫)を手に取り、流し読みをした。良かったので購入して読み始めている。内容には触れない。購読を勧める。

熊本の家では猫も犬も飼っていた。猫は時々いなくなり、母が猫山に行ったのだろう。やがて帰ってくるとよく言った。事実、猫は何回か帰ってきた。猫山があるかどうかは知らないが、猫は家につき、犬は人につくとも母が言っていた。記憶では猫は一度飼っただけである。犬は記憶にないほど小さい頃から飼っていた。初めの犬は、赤犬、白犬2頭である。小さいのに2頭を散歩に連れ出し、引きずられ、手を離さなかったので膝をすりむき、傷痕として残った。傷痕はあるがけがした記憶はない。この頃と今の性格は変わっていない。次に、コロと名付けた犬がいた。呼べば、飛んで来て、しっぽを強く振った。思い出深い犬で、私の性格形成に深くかかわっている。ある時、病気をして動きが鈍くなっていた。父がトラックをバックさせた時、いつもは直ぐよけるのに、その時はそのまま引かれて死んでしまった。私は泣き悲しみ、箱に入れ、自転車に乗せて家を出た。家の墓へ行き、スコップで穴を掘り埋めた。父がどこに埋めてきたと聞いたので、墓に埋めてきたと言った。父は怒らなかった。私があまりに悲しみ沈んでいるので、シベリアンハスキーをもらってきた。しばらく飼っていたが手放した。それ以来、犬を飼うことはしなくなった。私が犬好きなのを犬はわかるみたいであまり警戒しない。ある時、ある喫茶店に入った。猫がいて、私についてきた。お客さんたちが猫を呼び寄せ始めたが、猫は私の膝の上に乗った。驚きの声が湧きあがった。どうも、猫にも好かれている。動物たちには好かれているが、一部の人間たちには好かれていない。

琵琶湖の畔を娘と散歩したとき、トンビを草笛で呼び寄せた。一羽、二羽と集まってきて、最後には頭上高く十数羽が旋回し始めた。おとうさん怖いからやめてと言われた。富山でトンビが急降下して川原で跳ねていた。声をかけて、近づき、肩に乗せて宿泊先へ向かった。道々、土地の人が、トンビを肩に乗せて歩く人を初めて見たと声かけてきた。宿泊先に着いたとき、回復しているようだったので、飛べと言って放つと、元気に飛んで行った。トンビの恩返しはない。何もしてあげていない。ただ、止り木の代わりに肩を貸してあげただけである。どうも鳥からも好かれているらしい。

山の人が一番怖いのは、山道で動物に合うことではなく、道で人にすれ違う時と聞いたことがある。動物は先が読める。しかし、人間は何をするかわからない。人間ほど厄介な存在はない。私はその厄介な存在と関わり続けている。

ある時、お父さんは、鳥を飛ばなくできるよと子供に言った。やって見せてと言うので、公園に行った。鳩がたくさんいたので、エサを手に乗せ、その手に乗ってきた鳩の足を捕まえて、すばやく足をしごき、羽をたたみ、地面に横たえた。その鳩の目から線を地面に書いて、もう飛べないよと手を放した。鳩は飛べない。しばらく見てから、今度は飛ばしてあげると言って、手をパンパンと鳴らした。鳩は飛んで行った。子どもがもう一度と言ったので、今度は解説しながら金縛りにした。鶏でもどんな鳥でも金縛りにできる。何のことはない、関節技をかけているだけだから。コガネムシも蛇もカエルも金縛りにできる。それで牛にも挑戦してみた。モー嫌と鳴いたのでやめた。動物のことを語り出したら限がない。物語がたくさんあるのでこの辺で終わることにする。ちょっと追加すると、カウンセリングで、犬、猫、小鳥、ウサギを用いることがある。彼らは私の同労者である。私よりも早く人の心を開くことができる。人は人を警戒する。それは人から深く傷つけられた経験を持っているからである。

by maranatha | 2017-08-14 21:19 | 本の紹介

風は吹かず

超教派の大会が減少した。超教派の大会が増加したのは、日本の経済が成長し、教会経済が潤っていたからである。円の力で、諸外国から講師を招くことができた。近年は超教派の諸集会を運営した牧師たちが高齢化し、教会の教勢も減少し、教会経済も減少している。超教派の大会に招かれた講師たちの不祥事も明らかになり、魅力が薄れてしまった。「興行師」の役割を果たしていた運営たちの問題もいろいろなブログで明らかになってきた。そのような中でも、おかしな大会は行われている。それは従来の超教派の大会ではなく、仲間内の大会のようなものである。超教派の大会には到底及ばない。祭りが無くなってさびしい思いをしている人が村おこしをしているようなものである。あれだけ盛んだった超教派の大会が日本の教会に何をもたらしたのか。キリスト教は日本で減少している。超教派の大会と言う「祭り」がもたらしたあの興奮は、聖霊の働きではなく、人為的に作り上げた感動にすぎない。なぜそのように言い切るのか。それは教会の中にいのちの躍動がないからである。一部に活気のある教会があるが人為的である。聖霊の風は日本に吹いていない。ヨハネの福音書3章8節には、新改訳では「風はその思いのままに吹き」、詳訳聖書では「風は吹きたい所に吹く」と書いてある。今の日本は風が吹く好ましい状態ではない。聖書にこう書いてある。「不義ときよめの集会(口語訳では聖会)、これにわたしは耐えられない。」(イザヤ1:13)「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会(口語訳では聖会)のときのかおりも、わたしはかぎたくない。」(アモス5:21)好まれない大会ではなかったかという悔い改めと反省がないところに風は吹かない。参加者を多く集めて祝福された大会だった、これでは興行が成功したにすぎない。聖書にこう書いてある。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」(マタイ9:13)滅びゆく魂をあわれみ、救いを求める取り組みではなく、教会成長が目的であったら、そこにあわれみはない。そのような取り組みを神は好まない。風も好まない。

参考
感動創造研究所
www.kandosoken.com/report/cat7/

by maranatha | 2017-08-14 17:00 | 聖書

新しい手口

世界平和統一家庭連合の新しい勧誘方法が始まっている。誰もが願う「幸せな家庭」をキャッチコピーに使っている。一般の人は、合同結婚式につながるとは思いもしないであろう。キリスト教関係者も気を付けたほうがよい。霊感商法を止めているわけではないので、この被害にあう可能性もある。

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by maranatha | 2017-08-08 20:51

休暇

7日の夜、休暇で京都から車で熊本に到着した。台風を避けるように山陽道を走ってきたが、岡山と広島の県境辺りで激しい雨に見舞われた。その後は曇り空で、気温も低く快適なドライブとなった。以前は夜通し一人で運転して帰っていたが、最近は息子たちと交替で運転するようになったので楽になった。うれしいことに、息子が小山山に登ろうと言ってきた。サワガニも見たいと。妹が沢には蛇がいるから気を付けてと言ってきた。庭のように駆け回った山である。残念なことに近年竹が段々増え広がり、木々が立ち枯れるようになってきた。このまま放置していたら、椎の木の山が竹山になってしまうだろう。それは何とか管理している熊本市に対処してほしい。山にはクヌギがところどころにあって、クワガタがよくとれた。孫にとって見せたい。今日の午後か明日には登る予定である。
by maranatha | 2017-08-08 11:06 | 故郷

なぜ詩篇23篇が愛されるのか

旧約聖書において、「アドナイ・・・・」という表現は
七例ある。それらは次の通りである。
アドナイ・イルエ
「主の山の上には備えがある」(創二二1314)。
アドナイ・ラファ
「私は主、あなたをいやす者である」(出一五26)
アドナイ・シャロム
「主は平安」(士六24)。
アドナイ・ツィデケヌー
「主は私たちの正義」(エレミヤ二三6)。
アドナイ・シャマ
「主はここにおられる」(エゼ四八35)
アドナイ・ニシ
「主の御座の上の手」
あるいは「主はわが旗」(出一七8-15)
アドナイ・ロイー
「主は私の羊飼い」(詩二三1)
これらの七つの「アドナイ・・・・」という表現に
示されるすばらしい神の備えが、
この二三篇の中に集約されている。
感銘深いものである。
アドナイ・イルエ
(主の山の上には備えがある)
「私は乏しいことがありません。」
アドナイ・ラファ
(私は主、あなたをいやす者である)
「主は私のたましいを生き返らせます。」
アドナイ・シャロム
(主は平安)
「主は私をいこいの水のほとりに伴われます。」
アドナイ・ツィデケヌー
(主は私たちの正義)
「主は私を義の道に導かれます。」
アドナイ・シャマ
(主はここにおられる)「
「私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。」
アドナイ・ニシ
(主の御座の上の手、あるいは主はわが旗)
「私の敵の前で、
あなたは私のために食事をととのえてくださいます。」
アドナイ・ロイー
(主は私の羊飼い)
「主は私の羊飼い。」

以上は『旧新約聖書全解』(J・シンドローム・バクスター著 いのちのことば社)の中からの抜粋である。この「アドナイ・・・」を詳しく知ることのできる本がある。『神の御名とその意味』(ネイサン・ストーン/高見元訳 いのちのことば社)である。愛される詩篇23篇に織り込まれたヘブル語の七つのアドナイの表現を知るだけでなく、更に深く知る書があるのは、私たちの信仰の成長に役立つと考えるので、ブログに紹介することにした。

by maranatha | 2017-08-02 19:23 | 聖書
宗教問題