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村上 密 Blog

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諭しか虐待か

ある教会で、目に見えないスイトピーさんは信仰生活を過ごしていた。教会には彼女にいろいろと気に障ることを言ったり、ちょっかい出してくる子がいた。彼女は、我慢してきたが、牧師に、その子に対して注意してほしい、障害者を特別な目で見たり、ばかにしたりしないように教えてほしいと依頼した。すると、牧師は「なぜあなたは兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって『あなたの目のちりをとらせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち、まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすればはっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができす。」(マタイ7:3-5)というみ言葉を引用して、「あなたは人の欠点を見ているけど、自分だって人を傷つけたことがあるでしょう。」と言った。それから「神様はあなたをこんなにすばらしく作ってくれたのに、そしてあなたを愛しているのに、あなたが自分の存在を悲しんでいたら、神様悲しむよ」と言った。彼女は、この言葉を、神が障害に共感し、心を痛めておられるのではなく、神がこんなに自分を愛し、自分をすばらしく作ったのに、それを信じないで、トラウマに縛られて、いつまでも引きずっていることが、神を悲しませることになるという意味に受け取った。簡単に言うと、あなたの不信仰が、弱さが神を悲しませていると受けとめたのである。

子供は「目が見えない人だ。」と何度もはやしたてた。目の前に手をかざして見えるかどうかを試した。歩いているときわざと前に立ったりもした。牧師は、それに対してそういうことは見えないことへの好奇心から出たことであって、それをいやだと思うのは、考えすぎだと言った。牧師は、その場にはいなかった、その状況を見てもいない。彼女は、牧師に状況を話して「子供にきちんと教えてほしい。これから教会が大きくなって、人も増えたら、もっといろんな人が教会に来るから、その時、またこんなことが起きてもよくないので、今のうちからきちんと教えてください。」と頼んだ。しかし、依頼が受け入れられず、話はかみ合わず、悲しみをいだいたまま帰宅した。

彼女の教会では、互いに愛し合い、赦すようにと教えられた。しかし、今考えてみると、赦すこととは相手の欠点は見て見ないふりをするということであった。メッセージではそんな言い方はしないが、トラブルがあったり、傷付けられたと思って相談に行くと、「神様があなたを愛しているんだから、それを信じて、信頼して、そこに目を向けて強くなりなさい。」と諭された。牧師は問題に向き合うのではなく、問題に対して考えを変えるように教えてきた。嫌がらせを興味として赦すように言っていることになる。


彼女は、牧師との話し合いがあってから、子供に言われたことを嫌だと感じたのは、トラウマのせいであると思うようになった。そのトラウマは幼稚園の頃、彼女は弱視で、幼稚園で毎日ひどいいいじめに遭い、ある日の帰り道、数人の子に囲まれて殴られ、左目を網膜剥離で失明した。それから子供に対する恐怖感を抱くようになった。大人になってからも子供が苦手で、保育園や小学校など子供がたくさんいる所は怖くて学校の傍を通るのもつら思いをして過ごした。あのいじめを思い出してそんなトラウマを持ち続けているのは自分が悪いのだと教会生活で考えるようになった。つらいものはつらい、いやなものはいや、そのような感情がなくならずに、祈っても祈っても変われない自分を悲しく思うようになった。教会から離れて、カルトやマインドコントロールについていろいろ学んだ。そして牧師に言われたことは信仰の虐待ではなかったのかと思うようになった。なぜなら、牧師と話があったのは祈祷会が終わって午前0時までで、牧師だけではなく、4人の信徒に囲まれて攻撃されたからである。

by maranatha | 2017-11-15 20:39 | カルト化

堅く立って 動かされず 1

アッセンブリー京都教会は創立70周年を迎えました。

この日の説教をこのブログに掲載することにします。

多くの方々が礼拝に参加してくださいました。

説教は配信していますが、関心のある方々に文字でもお分かちしたいと思います。


創立70周年、おめでとうございます。

私たちの教会は1947年、戦後2年目にできた教会です。

この教会から東に70メートルほどに内村誠一牧師宅がありました。

そこで「味原教会」の名称で日曜学校が始まりました。

やがて、参加者の小学生、中学生、高校生16名が罪を悔い改め、

イエス・キリストへの信仰を告白しました。

そして、70年前の11月9日にキリストの名において正式に礼拝が始まりました。

最初の礼拝参加者は20名でした。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は1949年4月29日に創立されました。

この教団は13教会をもって始まりました。

その中に私たちの教会が含まれています。

教会創立時の牧師は内村誠一師です。

内村師は1928年(昭和3年)大阪市東区小橋元町に小川、沖と共に教会を設立しています。

内村師は、戦前、昭和4年にアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の前身である「日本聖書教会」加わっております。

味原教会とは、この小橋元町辺りに、味原があり、その地名がついた教会名です。

その味原教会名を京都転居後も使っています。

その後、名称が七條基督教会に変更されます。

この連続性を考えると、私たちの教会は70周年というよりも今年で創立89周年です。

アッセンブリーの前身である日本聖書教会に加盟して88年となります。

今日、米寿を迎える方が礼拝に参加しておられますが、

教会も米寿を迎えたことになります。

創立と創立前のことを話しましたが、何事もルーツを知っておくことはたいせつです。

突然教会ができたわけではないからです。

内村師が京都に住まいを構えるまでには、関東大震災、第2次世界大戦で大阪の教会の焼失、京都への疎開があってできているのです。

この教会は災害を通して設立されているのです。

災害や戦争は破壊をもたらします。

しかし、神は、災害や戦争を用いて、救いのご計画を推し進められます。


by maranatha | 2017-11-12 21:18 | 聖書

堅く立って 動かされず 2

さて、

創立70周年記念礼拝の説教に1コリント人への手紙15章58節を選びました。

以下のように書いてあります。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

質問:何の上に立って動かされず でしょうか。

答:それは福音です。「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。」(15:1)「立っている福音」とあります。この福音に立って、動かされず、です。

質問:福音は何をもたらしますか。

答:救いです。

「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(15:2)

質問:パウロはどんな福音を伝えましたか。

答:パウロは153節で十字架について語ります。それから復活について多くを語ります。

コリントの教会の人々の中に復活はないと言っている人々がいるからです。

コリントの1章18節から2章16節まで十字架についてしっかり語られています。

それは割礼を受けないと救われないと言うにせ教師が入り込んで惑わしているからです。コリントの教会は十字架と復活を否定するにせ教師たちに荒らされていたわけです。

その他にも教会は問題を抱えていました。

それで、パウロは自分が伝えた福音にしっかり立って動かされないように、

と書いたわけです。

この手紙は、十字架で始まり復活で終わり、その中で教会の問題を扱っています。

私たちはたいせつなことを押さえて、問題に取り組むようにしているでしょうか。

問題に目が行き過ぎてはいないでしょうか。

動くものに目を向けすぎれば私たちは揺り動かされます。

動かないものに立っていれば、揺り動かされることはありません。


by maranatha | 2017-11-12 21:17 | 聖書

堅く立って 動かされず 3

教会は70周年を迎えました。

何もこれまで起きなかったわけではありません。

いろいろ起きました。これからも問題は起きます。

何が起きるかが問題ではなく、どのように問題に取り組むかが問題です。

その労苦はむだに終わることはありません。

パウロは、ほとんどの手紙を、教会の問題を戒め、矯正し、解決するために書きました。

この手紙が、キリストの教会を建て上げたのです。

コリントの第2の手紙13章1節にこのように書いてあります。

「すべての事実は、ふたりか三人かの証人の口によって確認されるのです。私は二度目の滞在のときにも前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯しているほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。」

これはマタイ16章と18章に出てくる天の御国のかぎのことです。

パウロはコリントの問題に対して天の御国のかぎを使っているのです。

ふたりか三人かの証人はマタイの18章に出てきます。

教会が問題で倒れるか立てられるかは天の御国のかぎを使うか使わないかです。

私たちの教会にも天の御国のかぎが与えられています。

質問:パウロのような人が教会を建てても教会は惑わされるのですか。

答:誰が立てても教会は異端の教えに惑わされます。

ですから、しっかり立って動かされず、とパウロは言っているのです。

ADの50年ごろコリントの教会はパウロの伝道によって始まりました。

手紙は3年ないし5年たってからと思われます。

わずかな年数で教会は、パウロにつく、アポロにつく、

ケパにつく、キリストにつくと分裂しています。

さらには、世間にも無いような不道徳が起きています。

コリントの教会がなくならなかったのは神のあわれみです。

パウロの労苦は実を結びました。

15章58節に「主のわざ」とあります。

コリント人への第1と第2の手紙の中では、

主のわざは福音宣教と貧しいエルサレム教会を支援する献金を指しています。

このような献金を愛のわざとも言います。

あなたは自分の持っているお金を貧しい人のために捧げることをしていますか。

お金は、神と自分と他の人のために使うものです。

コリント教会の人は困窮しているエルサレム教会のために捧げました。

私たちもまた愛の業に励みましょう。


by maranatha | 2017-11-12 21:15 | 聖書

堅く立って 動かされず 4

最後に、この15章がなぜ書かれたかを語って説教を終えます。

コリント教会は、死者の復活を否定することによって深刻な問題を引き起こしました。

それは信仰の堕落と倫理的な退廃です。

復活がないなら、人は次のように言うでしょう。

「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。・・・」

コリント教会にはいろいろな問題が起きています。

その中で、最も大きな問題は、

最もたいせつなこととして伝えた復活を否定していることです。

パウロは問いかけています。

「どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか」(12)

「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。」(13

「そして、キリストが復活されなかったのなら」(14

「私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになる」(14)「私たちは神について偽証した者ということになり」(15

「神に逆らう証言をした」(15)ことになります。

「信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる」ことになります。

「そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまった」(18)ことになります。

死者の復活がないとすれば、ないことをあると言っているキリスト者は

「すべての人の中で一番哀れな者」(19)となります。

今日のキリスト教の問題は、このコリント教会のように、キリスト教の内部に死者の復活、キリストの復活を信じない人を抱えていることです。

そして、復活を信じない合理的な考えの人々が徐々に増えていることです。

その結果、教会はコリント化(堕落)しつつあります。

復活の否定は信仰の否定であり、倫理的崩壊を招くことになります。

パウロは断言しています。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20

私たちが立つべき福音は復活です。

どんな間違った教えの波がやってきても私たちの教会は福音の上に立ち続けましょう。

そして、救いをもたらす福音をこれからも宣べ伝えていきましょう。

私たちの教会が続くためには、十字架と復活の福音に堅く立って動かされず、です。


by maranatha | 2017-11-12 21:14 | 聖書

絶対と服従 相対と自由

牧師を神の代理人と考えている人は、牧師を絶対化していることになる。神に背くことができないように、牧師にも背くことができない。そこにあるのは服従だけである。背くことは背信の罪であり、死であり、地獄である。救われるために牧師に何でも従うことになる。そこにあるのは、イエス・キリストによる救いではなく、牧師に従うことによる救いである。牧師に対して疑問を持つことさえ、不信の罪となる。これが絶対と服従の関係である。もし、牧師が言っていることを、人間だから間違うことがあるかもしれない。書店で買ってきた本を読んで、この教えの方が正しいように思える。疑問に思ったことを、自分で調べ始めて、いろいろな人の本やブログを読んで見て、牧師に疑問を持ち始めたとしよう。牧師を相対化することによって、他の教えに耳を傾け、どれが正しいのだろうか、と考えて、自分で判断することが始まった場合、そこにあるのは、選択の自由である。しかし、その選択には責任が伴う。それが自己責任である。人は、考えることや選択することへの不安や悩みから逃れるために、自分より経験豊かな人、知識を持っている人に依存して、自分で考えたり調べたりすることを放棄しがちである。実はこれが自分を奴隷として他人に自分を売り渡す行為だと知らないでいる。考えるということをしない人は、権威主義の人の餌食となる。あるいは、いろいろな情報に振り回されて人生を過ごすことになる。絶対と服従、相対と自由、どちらにも危険が伴う。それでも私たちはこのことを意識の外に追いやるのではなく、日々の営みの中に自分で考えることを実践していかなければならない。
by maranatha | 2017-11-11 16:04 | カルト化

好物

私の好物はぜんざいである。母は私が帰省する度にぜんざいを作って待っている。おもさんたべなっせ、と言って進める。若い時は、2杯、あるいは3杯と食べたが、さすがにもうそんなに食べられなくなった。父が天に召されたとき、母は1年間ほど具合がよくなかった。帰省した時、おっかさんな、ぜんざい作らんかったね、と妹が語りかけてきた。長年続いた習慣が抜けたからである。1年過ぎて、私が帰省の度に、母はぜんざいを作り始めた。元気にならしたんごたる、と妹が話しかけてきた。ぜんざい作りは母のバロメーターである。

高校生の頃、母が夕食にたまねぎの天ぷらを揚げていた。揚げたてを、そばから私は取って食べた。そぎゃん食べたらあんたんのはなかばい、と母は言いながら、自分のものを私の食膳に回してくれた。あの頃、私は6食食べていた。7時、10時、12時、15時、18時、22時、それでも痩せていた。運動量と新陳代謝が活発だったからだろう。

開拓伝道を始めた頃、教会のわずかな敷地に茄子の苗を植えた。母親が茄子は花を咲かせたら必ず実をつけるといった言葉を思い出したからである。その通りに花は実をつけた。次から次に実がなる茄子は貧しい食卓を助けてくれた。焼き茄子、味噌田楽、味噌汁の具、茄子の天ぷら、いろいろ作って食べた。「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」その通りである。

私の好物は、ぜんざい、たまねぎの天ぷら、茄子、蓮根、小芋、豆である。

by maranatha | 2017-11-10 11:36 | 故郷

備忘録

昔、講演会には備忘録(ノート)を持って行った。テーマが与えられているので、いくつか語ることを考えてはいるが、演壇に立ってみると、語る内容を変えたほうがよいと思うことがある。そのようなとき、この備忘録は、ぱらぱらと捲るだけで、会衆に語るべきことを思い起こさせてくれる。今でも、備忘録に書き続けている。これは私の知的財産である。他人には価値がなくても、私には書いてある以上のものを思い出させてくれる優れものである。
by maranatha | 2017-11-09 10:44

手帳

来年の手帳を10月に入手した。教会は9月頃からクリスマスの準備に取り掛かる。来年の計画は、10月から考え始めて12月には決まる。机の引出しには10数年分の手帳が入っている。ときどき、手帳を開いて、日時、場所、誰、住所、電話番号を確認することがある。私にとって、手帳はひとつの財産である。その財産を数年前に、仙台駅の電話ボックスに忘れた。後で駅に問い合わせたが戻ってこなかった。数か月の予定が分からずに困った。手帳は、過去と未来を確認する道具で、なくてはならないものである。新しく入手した手帳に来年の12月まで決まっている予定を書き込み始めた。もう頭の中では来年が始まっている。
by maranatha | 2017-11-09 10:30

創立70周年記念礼拝

2017年11月12日、アッセンブリー京都教会(正式名称 七條基督教会)は創立70周年を迎える。当日の礼拝は、午後1時から、日本人会衆と外国人会衆の合同の礼拝となる。説教の担当は私となっている。通訳付きである。大きな区切りとなるので、教会がどのような始まったか。教会の問題をどのように取り組むか。教会は何に立っているのか。このようなことを、第1コリント人への手紙15章58節から説教題を「堅く立って、動かされず」として語る予定である。パウロが問題の多いコリント教会に対してどのように取り組んだか、手紙の構成から切り込んでみたいと思っている。
by maranatha | 2017-11-09 10:11 | 教会
宗教問題