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村上 密 Blog

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クリスマス

マタイ福音書とルカの福音書のキリストの降誕を比較してみよう。マタイは、当時の世界観で最も遠い地方から博士たちが礼拝をしに来たことを記している。ルカは当時のユダヤ社会で最も低い階層の羊飼いがみどりごを捜し訪ねてきたことを記している。神は、地理的に遠い、社会的に低い人々をキリストのもとに招かれた。一方、地理的にも近い人々と宗教的に社会的に高い地位にいた人はキリストを訪ねてはいない。本当にキリストを待ち望んでいる人は、地理的・社会的制約を乗り越えて行動している。私たちもいろいろな理由や理屈を乗り越えて、ただキリストを礼拝するためにクリスマスを過ごしたいものである。
by maranatha | 2017-12-19 23:03 | 聖書

最高の務め

クリスマスに最もふさわしいのは礼拝である。マタイの福音書2章から礼拝の大切さを学ぶことにする。東方の博士たちの長い旅の目的は礼拝である。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(2)異邦人である博士たちが当時の地理的に最も遠い地からやってきたのである。出発するまでの準備は多忙を極めたであろう。道中の危険もあったであろう。にもかかわらず、礼拝するために彼らは旅立った。彼らは「ユダヤ人の王」は言っているが、ヘロデは「ユダヤ人の王」をキリストと理解している。博士たちはそれを否定していない。彼らはキリスト(救世主、メシア)を拝むために旅立ったのである。彼らは学問的な興味から旅だったのではない。礼拝をする信仰の旅である。私たちはどのように礼拝に取り組んでいるだろうか。礼拝は最高の務めである。これを最優先にして生きているだろうか。それには犠牲が伴う。しかし、大きな喜びもまた伴うのである。王宮で教えられたベツレヘムへ再び星に導かれて、ある家まで来た。まだ、家の中におられる御子を見てはいないが、その家の前で「彼らはこの上もなく喜んだ」(2:9)とある。そして、旅の目的である礼拝を家の中に入ってしたのである。それも「ひれ伏して拝んだ」(10)とある。ここにおいて「拝みに来ました」という目的が「拝んだ」という結果になっている。願いは達成されたのである。ヘロデは博士たちに「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい、私も行って拝むから」(8)と言っている。これは敬虔を装った欺きである。彼は自分の地位を脅かす「ユダヤ人の王」を殺すため、ベツレヘムの2歳以下の男の子は皆殺しにしている。そして、彼はキリストを殺したと思って間もなくして死んだ。彼は長く王位に留まりたいと思ってキリストを殺したが、そのようにはならなかった。礼拝に偽りがあってはならない。真心からの礼拝こそが神に喜ばれる。

私はキリスト者となった頃、礼拝は日曜日の礼拝会と思っていた。やがて、礼拝は信仰生活そのものであることがわかってきた。そして、礼拝はこの地でだけではなく、天においても礼拝があることを知った。地方教会における礼拝があり、公同教会の礼拝がある。礼拝は続いている。これは終わることのないキリスト者の最高の務めである。礼拝を交わりと言い換えても良いだろう。なぜなら、私たちは日曜日の礼拝会に参加する時、また、普段の生活で礼拝をささげるとき、神と交わりを求めているからである。賛美をささげ、祈りをささげ、神の言葉を聞くために、臨在を求めて礼拝をささげている。

by maranatha | 2017-12-17 21:46 | 聖書

先行的恩寵

先行的恩寵(せんこうてきおんちょう)とは、救いに先立つ神の恵みである。この言葉で思い出すのは、高校一年生の時のことである。夏休みに友人と自転車で旅行をした。熊本を出発して、鹿児島、宮崎、大分を1週間で回った。宮崎の都井岬に向かう坂道、右は岩場、左は深い崖、坂道は緩く右に曲がり下っていた。用心のため、ブレーキを掛けたが、切れていた。速度が増し、足をブレーキ換わりに、ズズゥー、ズズゥーズッ、やっと止まった。もう少しで崖に飛び込むところであった。暑い日なのに冷や汗をかいた。これが本当の崖っぷちである。もし、あの時、崖を飛んでいたらこの世に私はいない。助かった。これが先行的恩寵である。私は助けてくださった神に仕える道を歩んでいる。見守られながら、今も歩いている。
by maranatha | 2017-12-14 14:45 | 救い

失う

何かを失う
失ってもいいもの
失いたくないもの
どれが大切か
失ってわかる

失うことは大切だ
失って
失って
何が残るか

つぶやきか
悔いか
喜びか

手からこぼれるもの
身についたもの
内にあるもの

大切なものは少ない
それを失わなければ
それでよい

*カウンセラーは喪失感を抱えた人と向き合うことが多い。
失った人への安易な同情は傷を広げる結果となる。
失うことは、失うだけではなく、大切なことを見つける機会でもある。
カウンセラーはその大切なものを一緒に捜す案内者である。

by maranatha | 2017-12-14 11:45 | 心理

今日

きょお と書いてぇ~
きょう と書く
きょお てっば~
きょう と書く
きょお
きょお と言って泣き始める
きょおではなくきょうだよ
きょお

まだ文字を書けないが読める6歳の子の訴えである。
京都(きょおと)はきょうとと呼ばない
日本語は書くことと読むことが違う場合がある。
子どもに説明しても子どもは分からない。

by maranatha | 2017-12-12 23:14

記憶は作られ 削られる

統一教会の研修に参加するため家を出た。その後、家は大騒動。父と兄と叔父が、私が匿われている場所を捜し当てた。父が2階にいる私を見つけ出し、私が死んでも帰らないというので、父が殺して連れて帰ると言って、殴る、蹴る、引き回す。2階から髪の毛をつかんで引きずりおろし、車で連れ帰された。

11月に熊本で兄と母と一緒に食事をしているとき、先の話をしていると、兄が、そるわ~、おとっつあんじゃなか、おったい。用心棒がおっと思ったけん、木刀ば持って殴り込んだたい。わっが、死っでん帰らんていうけん、うちくらわし、けたぐっ、ぞびきまわし、連れち帰ったたい。兄から記憶違いを起こしていることに気づかされた。私の瞼に浮かぶ、手をあげる父は実は兄だったとは。驚きである。そして、兄が、おまえがにぐっといかんけん、3日間、ロープでしばって、座敷にとじこめとったたい。おまえは3日間、めしもくわんでおったたい。この辺の記憶はない。母がそぎゃんだったたい、と言ったので確かだろう。私は兄に、その節は大変お世話になりました、とその場でお礼を言った。その場で私たちは大笑いをした。

ついでに、兄が、おまえはこまかっとき、おやじに梁からロープで吊るされ、竹ん棒でたたかれたこつば~あったたい。母が、あんたはなきもせんで、歯ばかみしめっ、引きつけばおこして気おとしゃせか~、しんぱいしたとたい。これも記憶にない。記憶は作り変えられ、消されるものだと分かっているが、自分のことでわかって驚いている。

一部を熊本弁で書いた。迫力ある場面、追憶する話し方、このような話し方はどれもなじみの言葉である。「その場で私たちは大笑いした。」つらい事、悲しい事、大変なことも笑いでくるむ話し方は我が家の話し方である。

by maranatha | 2017-12-12 22:55 | 心理

溶け込む

穏やかな風が吹いていた。公園のベンチに座り、草木を眺めるともなく眺めていた。どれくらい時間が経ったのだろうか。風景の中に溶け込んだ感覚である。誰かが通り過ぎて、私を認識するだろうか。忍法に気配を消す術があるという。気配を消すとは、自然に溶け込むことである。この経験はあまりしたことがない。何度もしたい経験である。

少年のころ、山でよく遊んだ。時には、枯葉が積もったところに潜り込み、かくれんぼをした。木の後ろに隠れ、木の上に隠れ、岩陰に隠れ、やぶの中に身をひそめる。うまく隠れると見つけてくれない。面白くするために石をいくつかの場所に投げて、鬼をかく乱する。これが鬼の霍乱ではない。鬼の霍乱とは、体の丈夫な人が珍しく病気にかかることを言う。

by maranatha | 2017-12-11 14:46 | 自然

教会

神学校を卒業して、高槻市で開拓をすることになった。教団の支援と関西教区の支援を得ることができた。踏み切りが近いアパートが最初の住まいである。電車が通るたびに、カンカンと音がする。狭いアパートで礼拝や祈祷会はできない。どこかいいところがないだろうか。そんな思いを持っていたとき、横浜の方から無料で家を使用してよいとの申し出があった。好意に甘え過ぎてもいけないので、相場の半額くらいの値段で借りることにした。築60年の二戸一であった。

二戸一の古屋は教会のイメージから遠い。訪ねて来られる方に、ここは教会ですか、とよく聞かれた。はい、教会です。教会は建物ではなく、神を信じる人々の者の集まりです。教会らしくない建物で開拓を始めたので、教会についてよく考えるようになったのは幸いであった。教会は建物ではない、と礼拝に参加者が加わっても語り続けた。もし、教会堂のある教会に派遣されていたら、教会について考える機会がなかったかもしれない。不足が教会の本質について考える機会を与えたのである。

by maranatha | 2017-12-11 14:08 | 教会

パウロは眼病?

パウロは、第2次伝道旅行中に病にかかり、ガラテヤにしばらく滞在した。その時、パウロの宣教によってガラテヤ教会は誕生した。そのことがガラテヤ人への手紙の聖句でわかる。「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。」(4:13)病がなんであるか具体的に書いていない。「そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。」(4:14)ところが、おおよそどのような病でかは、次に聖句でわかる。「それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。」(4:15)目の病と思われる。次の聖句も目の病でないかと推測できる。「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。」(6:11)

パウロはいくつかの手紙の中で最後のところに次のように書いている。「パウロが、自分の手であいさつを書きます。」(1コリント16:21)「パウロが直筆であいさつを送ります。」(コロサイ4:18)「パウロが自分の手であいさつを書きます。」(2テサロニケ3:17)「この手紙は私の直筆です。」(ピレモン19)それでは、手紙の全部を書いたかというとそうではない。パウロは口述筆記で手紙を諸教会に書いたことが次の聖句でわかる。「この手紙を筆記した私は、テルオも、主にあってあなたがたにごあいさつを申し上げます。」(ローマ16:22)「これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。」(2テサロニケ3:17)パウロの手紙はだれかに口述筆記をさせて、最後は直筆、それも大きな字で、なぜかというと目が悪いため、書き添えている。これがパウロの手紙の特徴である。

by maranatha | 2017-12-08 17:41 | 聖書

慰める猫

あるご夫人の話である。病気で寝ていたとき、飼い猫がそっと近づき、顔をなめた。猫は思いやることのできる動物である。また、得意げにもなる。トカゲをどこかで捕まえ、ご夫人のところに持ってきた。私は、猫にまつわる話や動物の話をよく耳にする。そして、私も動物の話をよくする。
by maranatha | 2017-12-06 14:37 | 動物
宗教問題