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村上 密 Blog

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教会がカルト化するとき

2002年12月1日に『教会がカルト化するとき』(ウィリアム・ウッド/いのちのことば社)が発行された。2005年に私はまえがきに登場する夫婦に会った。聖神中央教会の問題は、まず、ウィリアム・ウッド師とジャン・ドーゲン師に相談があり、2004年の年末にジャン師から私に電話があった。以来、私たちは協力し合い、聖神中央教会の問題に取り組んだ。ウッド師から本のことを直接聞いたのは2001年だった。題名を「教会がカルト化するとき」と聞いたとき、教会に起きていることを的確に表現する言葉と思った。しかし、多くの牧師たちには歓迎されなかった。私は現場で取り組む者と取り組まない者とのギャップを感じた。まえがきにある相談が2000年か2001年にあったとすると、2006年4月6日の牧師の逮捕で聖神中央教会事件が世間に知れ渡るまでは5、6年の年月がたっている。「教会がカルト化するとき」には反発があったが、今やこの言葉は広くキリスト教界に定着した。

2002年12月から『教会のカルト化するとき』が知られるようになり、2005年に『教会がカルト化するとき』が一気に広まった。2005年1月にアッセンブリー京都教会に宗教トラブル相談センターが設置されて、舞い込む相談は「カルト化した教会」の相談がますます増えた。私は1981年4月から牧師として異端問題を扱い始め、1995年3月のサリン事件前後からカルト問題が加わった。2005年はカルト化した教会問題がさらに加わった。聖神中央教会事件から13年がたった。あれからどれだけカルト化した教会の問題が世間を騒がせたことだろう。キリスト教会は教会のカルト化に対して効果的な対策を立て切れていない。その証拠に問題は起き続けている。宗教トラブル相談センターは灯の役目を担っている。

by maranatha | 2018-08-31 17:02 | 宗教トラブル相談

宗教トラブル相談センター

宗教トラブル相談センターは、2005年1月の教会総会決議によってアッセンブリー京都教会の中に設置された。2004年の年末に、聖神中央教会の主管牧師から性的虐待を受けた被害者とその親たちから相談があった。年明けて、多数の被害者からの相談があり、被害者の会を結成した。教会役員会では、国内における未曾有の事件に教会としてどのように対応したらよいかを協議し、宗教トラブル相談センターを設置することになった。教会では、1987年4月の村上赴任以来、統一教会、エホバの証人、モルモン教等の被害相談、新新宗教や自己啓発等の被害相談、カルトからの被害相談を受けてきた。宗教トラブル相談センターは一日にしてできたのではない。長年の宗教による被害や問題の相談に対応してきたことが背景にある。現在は、カルト化した教会やスピリチュアル系カルトによる被害相談が多数寄せられている。
by maranatha | 2018-08-31 11:39 | 宗教トラブル相談

カルトの後遺症

病気をしたら、その病気を扱う専門医にかかる。心が大きなダメージを受けたらどうするだろうか。心の治療らしきことはしないで過ごすことが多い。いよいよ何もできなくなって、周囲が心配してから病院を勧める。精神科には行きづらい。心療内科あたりにまずかかる。場合によっては、カウンセリングを受ける。これは一般的なことである。もし、カルトで精神的虐待、マインドコントロールにかかった場合、どうしたらいいだろうか。後遺症を抱えているのに、気づかないで日常生活をしていくと、いろいろと戸惑うことが連続する。社会生活に慣れないために、精神的な疲労が蓄積しがちになる。同じカルト団体から脱会した人たちが意見交換をしていたら、助け合えることがある。その中に、カルトに関するカウンセリングできる人がいたらもっと助かる。カルトの問題をもっぱら扱ている人がいたら、もっと回復の助けになる。大切なのは、病院を使い分けるように、カルトの後遺症も、対応する人を使い分けることである。
by maranatha | 2018-08-26 21:01 | カルト

声を上げる

宗教団体の指導者が違法行為をしているのに、なぜ信者は止めようとしないのか。「触らぬ神に祟りなし」「長い物には巻かれろ」などのたとえがある。指導者や指導者の取り巻きとは争わないで、従っていたほうが無難だ。口を出せば、めんどうなことになる。そこにあるのは、正義ではなく、自己保身に徹しようとする防衛本能である。たとえは人の心をうまく表している。

消防士は、耐熱服に身を固め、救助と消火のために、燃え盛る炎の中に飛び込む。消防士が本能に逆らって行動するのは、高い職業意識、使命感、度重なる訓練等の結果である。普通の人は耐熱服を着ても行動できない。消防士は耐熱服を着ていても、場合によってはやけどやケガを負うこともある。死亡する場合もある。危険度の高い職業である。いざ火事となれば、火事場に急行する。世の中になくてはならない職業である。

私は宗教問題を40年程扱ってきた。その中で、被害者がこれ以上他の人に起きないように、勇気を出して宗教団体の指導者に抗議や告訴することを見てきた。そして励まされてきた。犠牲の上にさらに犠牲を負うかもしれないのに立ち上がる姿勢こそ、名も知れない人への犠牲愛である。何かの信仰を持っている人はこのような人々の恩恵を受けているが、それを知ることはない。

by maranatha | 2018-08-25 20:38 | 宗教トラブル相談

雑感

見ているのに見えていないことがある。観察が足りないからである。ヒントがあるのに答えがわからない。読解力が足りないからである。自分だけの観察や読解力の不足を補うために、できる人と協力し合うことが大切である。「人」という漢字は二本の棒が支え合うようにできている。

年々忙しくなっている。忙しいので仕事の範囲を絞ったが、その絞った仕事の需要が増えている。今は断ったりして調整している。終わりのない仕事をしているので、自分で調整するしかない。

出張で京都を留守にすること多い。移動が多いので大変でしょうと聞かれることがある。大変ではない。移動中は何の相談もない。ゆっくり本を読むことができる。携帯を持たないので、読書が途切れることはない。

最近、いろいろな人との話の中で、「同意」の大切さを伝えている。自分だけの良かれと思って行う行為が時と場合によっては不快な思いを与えているかもしれないので、一方的にならないようにと話している。

時々、方角を確認してから、空の雲を観察することがある。いくつかの層になった雲をどの方角に流れているかを知るためである。どれもが同じ方角に流れているわけではない。雲を15分間みていると雲の流れが見えてくる。基点を作らないと流れはわからない。大切なのは起点である。

by maranatha | 2018-08-24 10:36

牧師像

クリスチャンが抱く牧師像はどんなものだろうか。信仰生活の中で出会った牧師、本やTV等で知った牧師がその人なりの牧師像を形成していくのが普通であろう。聖書からあるべき牧師像を形成し、それを目指して生きる牧師は少ないのではないか。キリスト教系のメディアで登場する牧師は、どちらかと言えば、人々が求めている牧師であって、聖書が教えている宗教的指導者像ではない。現代は強いリーダーシップが要求されている。世間的に成功したように見えるリーダーが人々に受けているように思える。しかし、聖書は仕える人であるように教えている。神に仕え、教えに従い、人々に仕えることを勧めている。

イスラエルの民は王を求めるときに他の国のような王を求めた。しかし、神は油注がれた王を民に与えられた。神は、王を求めることに対してイエスであるが、王の資質は神に油注がれた王であって他の国のような王を与えられなかった。現代の牧師像は油注がれた人であるだろうか。私は問題を起こす牧師をいつも相手にしているので、それが名の知れた教団の牧師であっても油注がれた人には見えない。騙されるクリスチャンと厳しく見てしまう私の間くらいでクリスチャンが牧師を見ていけば騙される人も少なくなると思う。神が求める牧師像とクリスチャンが求める牧師像に乖離がある。

by maranatha | 2018-08-21 18:43 | 教会

五次元スクールに関する問い合わせ

五次元スクール、レインボーヒーリングハワイに関する記事を非公開とした。現在まで多くの情報が寄せられている。今後も情報を受け付ける。この件に関して、情報を得たい方へは要望を確認の上で郵送する。これに掛かる費用は個人負担である。営利でないことを断っておく。又、だれに送ったかについては他人に伝えることはない。

問い合わせ先
宗教トラブル相談センター(担当村上密)
kyoto.murakami0gmail.com
0は@に


by maranatha | 2018-08-18 08:32 | 五次元スクール

王を求めることの誤り

1サムエル記8章から10章で、民は王を求めた。神は民がサムエルを退けたのではなく、わたしを退けたのであると語られる。それでも神は民の要求を受け入れられた。それは民へのイエスであり、ノーであった。というのは、民が望むような他の国の王のようにではなく、神は王の権利を定め、サムエルに王を立てよと語られた。サムエルはサウルに油を注いだ。そして、神は、外国の王のようではなく、主の霊を激しく下して王を立てられた。

信徒はどのような牧者を求めているだろうか。リーダーシップのある指導者を求める傾向にあるのではないか。聖書は仕えるものでなければならないと教えている。牧師のいない教会では、牧師が与えられるように祈り求める。できれば、リーダシップのある牧師を求める。しかし、その結果どんなことが教会に起きているだろうか。権威主義的な牧師の下で信徒はあえぐことにはならないか。牧師が仕える人で、信徒が仕える人であったら、教会はどんなに麗しいことか。そんな教会を私たちは目指さなければならない。

by maranatha | 2018-08-11 21:26 | 聖書

旅の途中

シンガポール・チャンギ国際空港のゲートエリアで知人に会った。10数年ぶりである。周囲の人の顔をじっくり見るわけにはいかないのでわからなかったが、いろいろ話して考え合わせるとジェット機の私の通路を隔てた隣におられたことがわかった。こんなところで会おうとは思いもよらないことであった。
by maranatha | 2018-08-11 21:00

外国に滞在中

ネット環境のない外国のある地方に滞在していたので、何も記事を書くことができなかった。7日には帰国する予定である。メール相談に応じできなかったが、やっと、今日返信したが、また帰国するまでまたネットが使えない状況となる。8月は出張が続いており、宗教トラブル相談センターへの電話相談は通じにくくなるので、メールでの相談をお願いしたい。
by maranatha | 2018-08-06 01:43 | 宗教トラブル相談
宗教問題