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村上 密 Blog

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サヴァン症候群

あるカルトに入信している女性が教会を訪ねてきた。応接室に入った彼女を見て、あなたはどうして私の話を聞いていないのに今カルトをやめたの、と聞いた。どうしてそれがわかるのですか。私がまだ話をしていないのに、と彼女は言った。あなたの目があなたの心を表わしているからです、と私は応えた。彼女はなぜやめたのか話し始めた。私は人を見ると色が見えるのです。私が入っていた団体には金色の人がいません。あなたを見たとき全身が金色でした。金色が一番優れている色です。それでやめました。女性はサヴァン症候群の人ではないか。サヴァン症候群には優れた記憶力の持ち主もいる。私は空海がそうだと思っている。彼は一度読んだ本を記憶することができた。優れた数学者の中にもサヴァン症候群に人がいると思われる。カメラアイの人の話を札幌の相談者から聞いたこともある。
by maranatha | 2018-10-30 11:53 | 宗教トラブル相談

見る目

ルカの福音書に、イエスとパリサイ人シモンと罪深い女が出てくる。イエスはシモンの心の思いと女性の行動が信仰の表れでことを知っておられる。女性もイエスがメシアであることとシモンがパリサイ人であることを知っている。しかし、シモンは二人のことを知っていない。「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」(7:39)イエスは彼の思っている預言者ではなくメシアである。また、女性は罪深い女ではなく、罪を赦された人である。この物語の最後の「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心していきなさい。」(7:50)は、女性がすでに信仰を持ってイエスのもとに来たことを教えてくれる。なぜなら、イエスと女性との会話はここにはない。女性はイエスのことを誰からか聞いて、シモンに招かれてはいないが、罪深き自分を救ってくれるお方と信じて、入りがたいパリサイ人の家に大胆に入った。シモンはイエスを客として招いたが、3つのマナーを省いている。これから書くのは私の想像であるが、もしかしたら、女性はシモンの失礼を知り、自分にできることをしたのかもしれない。イエスはご自分を信じた取税人や遊女たちと食事を共にしておられる。この交わりに参加した罪を赦された女性から、イエスのことを聞いたのかもしれない。
by maranatha | 2018-10-30 11:11 | 聖書

くつろぐ

最近の出来事である。あるお宅を訪問した。私が座った椅子の下で愛犬が寝そべり、私の足に少しだけ体を寄せてくつろいだ。東海地方から来客があった。教会の応接室にお客さんとウサギが待っていた。しばらくすると、ウサギが私の椅子の下にやって来て、寝そべり、くつろいだ。出かけた先で、今度は鳥がやってきて、椅子の下に来た。えさを求めてだろう。今度は何がやってくるだろうか。(9月8日の記事)

10月26日、愛犬と再開。しっぽを振って迎えてくれた。私が椅子に座ると、体を軽くすり寄せて、また私の右足に少しだけ体を寄せて寝そべった。前回も右足だった。ときどき痛める足に体を寄せてくれていたと思うと心が温かくなった。家族が私を温かく迎えてくれるので、愛犬も同じように迎えてくれる。他のお宅だが、ほぼ毎月13年以上も会っている愛犬がいる。元気な時は、近づいてにおいを嗅ぎ、ハフハフとあいさつをしてくれた。かなり高齢になったので、最近はフロアに寝そべって、ちょこっと目を開けて、やあ~とあいさつしてくれる。愛犬は人の年齢なら100歳を超えることになる。



by maranatha | 2018-10-29 09:00 | 動物

とんぼ

沖縄ブランチの礼拝後、琉球方言の話になった。とんぼは何といいますか。とんぼは『日本書記』で、あきつ、あきづ、と言われていた。琉球方言では、あーけーじゅ、と言う。古語が琉球方言に残っているとの話になった。それでは、蝶はどうかと質問があって、調べてみた。蝶は琉球方言では、はーべーるー、古語では、てふである。これは、はーべーるーとは関係ないようだ。はーべーるーは、侍る、蝶がとまっている姿を表現しているように思える。
by maranatha | 2018-10-28 21:21 | 沖縄

教会内での呼び方

教会内では、教会員は神の家族なので、〇〇兄弟、〇〇姉妹と呼び合うことがある。書くときは、〇〇兄、〇〇姉である。ところが、牧師も教会員であるが、牧師に〇〇兄弟と呼ぶ人はいない。反対に牧師から男性教会員に対して〇〇兄弟と呼ぶことはある。同じ教会員でありながら、牧師と教会員を同じようには見ていないとの質問を受けたことがある。確かにそうである。ある時、ある教会で、教会員が牧師に対して、〇〇牧師先生様と呼んだ。ちょっと敬称を重ねすぎではないか。〇〇牧師先生も重ねすぎである。〇〇牧師か〇〇先生で済ませればよい。兄弟姉妹間では〇〇さんが一番いいのではないかと思わされた。教会内での呼び方はキリスト教の文化である。その文化も時代によって変遷してきた。権威主義に傾かないためにも、牧師に仰々し呼び方をしてはいけない。神の前に平等であるとの思いを持って牧師も謙遜を心掛けるべきである。牧師、先生と呼ばれるから偉いのではない。牧師は機能職である。その職を誠実にこなしているから尊敬を受けるのであって、果たしていなければ、敬称さえいらない。

by maranatha | 2018-10-26 23:42 | 教会

心の思い

相手が話したいことを十分に話せるように耳を傾けると、話したいと思っていること以上に、思いもしなかったことを話すことがある。人は話したいことを聞いてくれる人を求めている。家族や友人と話をしても、話を途中でさえぎられたり、言い返されたり、否定されたりされる。言いたいことを言えないで中途半端で終わる経験を繰り返すと、だれも私の話を聞いてくれないと思い込むようになる。じっくりと聞いてくれる人に出会うことはなかなかない。話したいことを超えて話が出るようになるためには、親身に傾聴してくれる人が必要である。30分、1時間聞いてくれる人がいるだろうか。もし、90分、2時間聞いてくれる人が現れたら、心が軽くなることだろう。
by maranatha | 2018-10-20 23:13 | 心理

『半席』を読む

『半席』(青山文平 新潮文庫)を読んでいたら「どうせ、やらなければならぬなら、自分からやろうとしたほうが、疲れは少ない。」(P109)に出くわした。母が言ったセリフとよく似ている。「どうせやらなければならないことはさっさと済ませなさい。」確かにしなければならないことを先に済ませていれば気が楽だ。母は私の後回しにする癖をよくたしなめてくれた。牧師になって、しなければならないことを済ませていてよかったことは何度もあった。大切な言葉に出会ったとき、あるいは聞いたとき、言葉として記憶するのか、それを生活の中で生かしていくかで人生は変わっていく。『半席』を読み進めているが、人の心理をよく描いている。
by maranatha | 2018-10-20 21:13 | 心理

団体の危機

ある教会の牧師が所属する団体の教えを否定するようになった。前任者が私のところに電話をしてきた。ところが私は出張中だった。帰宅してから、前任者の電話番号を知らないので後任者に電話を掛けた。私はまだ問題を聞いていない。前任者に電話を掛けて内容を知った。私が解決のために動く前に、後任者は早々と辞表を出した。辞表は当然である。教えを否定したからである。

包括宗教法人の教えを否定しているわけではないが、包括法人が否定しているムーブメントに被包括法人の教会の牧師が参加している場合はどうだろうか。包括団体は自粛を勧告すべきである。それをしなければ監督責任を果たしていないことになる。その自粛に従わない場合は警告を出すべきである。従わない場合は処分すると。包括法人はその法人の信じるところを守る責任がある。被包括法人だけが責任を問われるわけではない。監督する立場の被包括法人も放置しておれば責任を問われることになる。

ある福音派の教団の理事長を長年務めてきた牧師に、「先生の団体は団体の特色がなくなりましたね。」と質問した。牧師は「変わりました。」と短く返答した。この団体は福音派だったのにカリスマに傾斜している。まだ福音的立場を守っている牧師もいるが、カリスマの牧師が増えている。団体の教えはそのままである。しかし、やっていることはカリスマである。

ある穏健なペンテコステの教団の中に繁栄の神学が流れ込んできた。段々それを取り入れる牧師が増えてきて、理事会や神学校でその人たちが多数になった。穏健な立場の人は段々責任ある立場から退かざるを得なくなっていった。その神学校には繁栄の神学を取り入れた教会の出身者が多数を占めている。もはや後戻りできないくらいである。

by maranatha | 2018-10-16 23:53 | 教会

見通し

ある宗教団体が基本財産の処分に関わることを規則に基づかないで進めたことがあった。それが私のところに伝わったので、関係者を通して撤回を勧めた。団体は撤回した。たとえ団体が撤回しなくても、団体の誰かが私を代理人にしてくれたら無効にできる。規則に基づかない決議は無効だからである。それを知らなければ大騒ぎであるが、知っていれば決着が見えている。問題が起きたとき、違法が明白であれば解決の見通しが立つ。時間がかかろうが、妨害があろうが、取り組みを放棄しなければ、必ず違法には勝てる。勝てないのは法を利用されている場合である。
by maranatha | 2018-10-16 22:52 | 宗教トラブル相談

宗教問題に取り組む

ある時、ある団体の長老と話したことがある。「系列の大学の裁判に詳しい人を紹介してほしい。ある国で裁判をしたい。」と伝えた。ところが、詳しい人が亡くなって、後任がまだいないとのことだった。私は彼に話しかけた。「あなたも団体の法について学びましたね。できませんか。」「できません。学んだこととそれを使えることは違います。あなたが取り組んでください。応援します。」彼は避けたのではない、謙遜にできないと言っただけである。宗教団体の規則を知っていることとそれを正しく使えることとは違う。

私はいろいろな宗教団体の責任者と話すことがある。キリスト教は宗教団体の中でもしかりしている団体と思われている。まれに立派だと思える人にも出会う。しかし、話にならない人物が責任者になっていることがままある。その場合は、話し合いに応じない。自分の任期が終わるまで扱わない。解決しようと取り組むが問題をこじらせる。解決できない。対応はいろいろである。彼らは牧師になったのであって、神学校で規則を学んでも、規則を用いて問題に取り組むことを学んでいない。私は宗教法人を持っている教会に遣わされて代表者になってからいろいろ学び始めた。また異端やカルトの問題を扱うために、法を守らないと逆襲されるので、法を守り法で扱うことを学んだ。

聖公会の審判廷のことを時々思い出す。相談があったとき、審判廷を用いるように進言した。まさか、それが一度も使われていないとは思いもしなかった。あれから10年、私にはどこの宗教団体も問題を扱う力を養ってきたようには思えない。

聖公会 初の審判廷:https://maranatha.exblog.jp/8364720/

by maranatha | 2018-10-16 22:17 | 宗教トラブル相談
宗教問題