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村上 密 Blog

<   2020年 01月 ( 14 )   > この月の画像一覧

驚くようなニュース

驚くようなニュースが飛び込んできた。あるカルトの指導者の犯罪と醜聞が宗教トラブル相談センターにもたらされた。内容をまだ書けないのが残念である。これを刑事告発に持っていけたらと思っているが、私だけでは進められない。情報提供者と弁護士と協議して、どのように対応できるか話し合いが出来ればと願っている。
by maranatha | 2020-01-31 21:27 | カルト

黙示録

黙示録は「この預言のことば」(1:3、22:7)とあるように預言書である。この同じことばは預言の始まりと終わりを示している。そして、黙示録は「幸い」(1:3、14:13、16:15、19:9、20:6、22:7、22:14)の書である。「この預言のことば」と「幸い」は関連している。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」(1:3)「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」(22:7)黙示録には7の数字がよく出て来る。祝福の数である。「幸い」は黙示録に7回出て来る。この「幸い」を受け取る方法は、朗読し、それを聞いて、心に留め、固く守ることである。そうする者には「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利が与えられる」(22:14)創世記3章でエデンの園から追放された理由は、いのちの木の実を食べないためであった。黙示録には、信仰によって罪赦され(自分の着物を洗って)、永遠のいのち(いのちの木の実)に預かる者の「幸い」(22:14)が書いてある。難しいと思わないで、朗読してみよう。朗読して、勧められている教えを守ろう。黙読ではなく、先ずは朗読しよう。


by maranatha | 2020-01-24 08:48 | 聖書

教会を訪ねて

昨年の12月だったか、旅行者が教会を訪ねてこられた。来訪の目的は、ある有名な俳優が京都教会で礼拝に参加されたことをネットで知って、どのような教会かを見に来られた、と言うことだった。その有名はクリスチャンの俳優は定期的に礼拝参加しておられるわけではない。撮影の合間に、こられたようだ。教会員はだれもその方に気付かなかった。忍者の役をしておられる方ではない。何組かこのような来訪が昨年あった。今まで、テレビの番組やパンフレットの背景にと問い合わせが何度かあった。建物は一目で教会とわかるような建物ではないが、建物の中は落ち着いた教会の内装である。

by maranatha | 2020-01-18 23:02 | 教会

裁判の悪用と活用

宗教問題を扱っていると、宗教団体の中だけでは解決できない相談が舞い込んでくる。何を信じてもそれは自由であるが、何をしてもよいわけではない。特に人権侵害はしてはならない。身体的な暴力より破壊力があり、長きにわたって被害者の心を蝕む。長年私は宗教問題に取り組み、カウンセリングで回復に取り組んできた。また、被害者に弁護士を紹介して法的な取り組みも勧めてきた。
最近新聞で報道された自己啓発団体の最初の相談は6年前だった。この間、娘が父親から性的虐待を受けたとして裁判を起こした。裁判は一審、二審とも父親の勝訴で終わったが、父親の精神的苦痛がどれほどひどかったことか。まさに死線をさまよい、何とか周囲の支えで乗り越えてきた。この団体はよく裁判を利用して、家族に圧力をかけて来る。この団体を何とか裁判にできないかと関係者が集まっては相談してきた。最近、弁護団の結成のめどが立ってきた。

by maranatha | 2020-01-18 22:38 | 裁判

オーストラリアの森林大火災

オーストラリアの森林大火災が大雨で拡大がひとまず抑えられた。しかし、保水力を失った森や原野は今度は大雨で大変なようである。京都教会はオーストラリアとの交流が長く、今回の火災でもメールのやり取りをして、教会では祈っていた。交流先のいくつかの教会は無事ではあるが、空を覆う煙と灰でうつうつした気分に多くの人がなっていると知らせてきた。有益な火と水が大きな災害のもたらす出来事に驚かされた。今後できる支援に取り組んで行きたい。
by maranatha | 2020-01-18 22:05 | 教会

アラームが鳴らない

目覚ましのアラームをセットして就寝した。朝、目が覚めたので時刻をみた。アラームの鳴る時刻を過ぎているのに、鳴らなかった。間違い探しをする余裕はない。シャワーを浴びて、ホテルを飛び出て、タクシーに乗り込んだ。運転手さん、急いでいます。どこどこまで行ってください。雨の日で道路は渋滞中。運転手さんがナビを見せながら、今日は雨で行き先までの道路は渋滞中です。商売っ気がない話ですが、急いでおられたら電車が早いですよ。私もそうですね。では近くの駅に降ろしてください。お礼を言って電車に乗り、定刻に間に合った。
by maranatha | 2020-01-15 20:32 | 心理

責任者の務め

今日、あるキリスト教団体の理事たちと、団体の本部で傘下の教会の問題を話し合った。文書を送ったときから、理事たちにできることに取り組んでこられた。自分たちが問題を起こしたのではなく、傘下の教会が起こした問題で対応しなければならない立場には同情の念を禁じえない。しかし、組織の責任を負っている以上、このような問題の対応は避けられない。団体の良いことも悪いことも責任をもって取り組まなければならないのが組織の責任役員である。問題が起きるのは避けられない。問題にどう対処するかが問題である。今のところ適切に対応していただいている。私としては、弁護士に相談を続けている。県庁にはこれから宗教法人取得を防ぐために文書を作成して送る予定である。理事たちには、要望を申し上げて3時間近い話し合いを終えた。

明日は、大阪の弁護士事務所に、スピリチュアル系の団体の件で相談に行く予定である。昨年の12月に読売新聞に大きくこの団体の問題が2回取り上げられた。新聞記事を読んで、報道関係各社から問い合わせがあったので情報を提供した。

by maranatha | 2020-01-15 20:19 | 教会

洗礼

「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3:14)原文には「着けなさい」はない。なぜ「着けなさい」を書き加えたのか。
第1に、ヒントは2節前にある。「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」(3:12)は置き換えれば「愛」である。それに「身に着けなさい。」が書かれてあるからである。愛は包括的な言葉である。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛はけして耐えることがありません。」(1コリント13:4~8)このように愛はいろいろと表現されている。愛は一言では言い表すことのできない言葉である。
第2に、3章10節にもう一つのヒントがある。ここには「新しい人を着たのです。」と書かれてある。この「着たのです」は本当に「着た、身に着ける」である。8節の「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨て」る行為は「着る」行為の反対である。「脱ぎ捨てる」のは何か。「怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて」(3:8,9)である。「脱ぎ捨て」は「肉の体を脱ぎ捨て」(2:11)にも出てくる。「愛を着けなさい」の「着けなさい」はこの「新しい人を着なさい」からも受けている。

さて「身に着なさい」(3:12)「着たのです」(3:10)の「着る」は洗礼と関連する言葉である。コロサイでは、パウロは洗礼の意味を「バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらされた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(2:12)と書いている。「葬られ」、言い換えれば、「脱ぎ捨て」るのは「古い人」(3:9)である。「よみがえらされた」、言い換えれば、「着なさい」は「新しい人」(3:10)である。「着る」が洗礼と関連する言葉として簡潔に書かれてあるのはガラテヤ人への手紙である。「バプテストを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」(3:27)パウロはエペソ人への手紙の中で「あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨て」(4:22)と書いている。これは洗礼以前の生活である。信じて洗礼を受けた後は、「あなたがたの心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(4:24)と書いている。「古い人」は「脱ぎ捨て」、「新しい人」を「着る」。それをいつするのか。洗礼の時である。実際このことが起きているときは、イエスをキリストと信じて受け入れ、キリストと結びついた時である。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」(マルコ16:16)と書いてある。

by maranatha | 2020-01-12 16:04 | 聖書解釈

全き人とは

「義人はいない。ひとりもいない。」(ロマ3:10)と書いてあるに、どうしてノアは「全き人」(創世記6:9)と書かれてあるのか。「正しい人」(6:9)とも書かれてある。ノアは「神とともに歩んだ」(6:9)ので「全き人」「正しい人」と書かれたのである。彼の生涯は「すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」(6:22)という言葉によく表されている。アブラムに対しても「全き」が使われている。神は「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(17:1)と語られた。神はアブラムに空の星を見せて「あなたの子孫はこのようになる」(15:5)と語りかけられた。「彼は神を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:6)義と認められたアブラムは、信仰の歩みを続けた。「全き者であれ」と語られた後、子孫を与えると契約をたてられた。そしてアブラハムには子が与えられた。義人はいない。ひとりもいない。しかし、信仰によって義と認められた人はいる。アブラハムである。それゆえ、「全き人」「全き者」とは神とともに歩む、信仰の人を表している。「全き」を、非の打ちどころのないとか、完全無欠なとか、道徳的にとらえるのではなく、信仰的にとらえなければならない。
by maranatha | 2020-01-09 20:29 | 聖書解釈

教会形成

ほぼ毎月の沖縄訪問を始めたのは2005年2月からだった。15年間訪問を続けたことになる。訪問の目的は、カルト化防止と被害者の回復のためのカウンセリングである。沖縄では超教派の集会が頻繁に行われていた。国内で最も超教派活動が盛んと言われていた。しかし、招かれていた講師たちは、いろいろなムーブメントの提唱者であったり、それを取り入れて「成功した牧師」と呼ばれる人であったが、講師の問題とムーブメントの問題性が次々と発覚してから呼ばれなくなった。それは沖縄だけの出来事ではなく、日本全体がそうであった。盛んに外来講師を招く時期は、日本のプロテスタント教会がまだ教会員が増加傾向で経済的に余裕があった。しかし、働き盛りの年代が定年退職を迎え始め、教会員の高齢化とともに、2010年代から教会の財政は減少傾向に陥り、対外的な活動に教会の資金をつぎ込む余裕がなくなった。影響力があると思われた牧師が長年勤めた教会では世代交代が進まず教会員の高齢化とともに教会の活力が奪われていた。2020年代は教会を維持していくことが出来なくなったところが、解散か他教会との合併による生き残りが試みられるだろう。維持費がかからない教会堂なき教会の在り方を模索しなければならない。公共の建物や教会員の家を利用したり、インターネットを用いた教会形成も考えられる。教会形成に欠かせないのは献身的な信徒による奉仕である。教会は牧師だけでは運営できない。たとえ教会堂がなくてもである。役割分担をして一部の教会員に負担をかけすぎないような配慮が必要である。教会とは建物ではない。信仰者の集まりである。そこに必要なのはみ言葉と聖餐、聖徒の交わりである。もう一度、最も基本的な要素にそれぞれの集会に必要なものを加えて、福音の前進のために教会活動に取り組んでいかなければならない。

*教会堂なき教会とは、自前の教会堂を持たないで公共の建物や教会員の家を利用した教会員の集まりである。

by maranatha | 2020-01-09 15:14 | 教会
宗教問題