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村上 密 Blog

なんね あん人たちゃ

聖書の中の話を熊本弁で書いてみた。なつかしい故郷の言葉。

なんば、そぎゃん、いそいどっとね。聖書んでてくるイエス様は走ったこつがなかとばい。
(どうしてそんなに急ぐのですか。聖書の中に出てくるイエス様は走ったことがないですよ。
なんであぎゃんやつたちと飲んだり食ったりすっとだろかね。
(なぜあのような人たちと飲んだり食べたりするのでしょうか)
そら、罪人ばってん、回心しとらすけんたい
(それは、罪人だけれど、回心をしておられるからですよ)
おるもあん人たちんごつなりとか
(私もあの人たちのようになりたい)
だっでんは入れるとばい。ばってん信心が必要たい
(だれでも入れますよ、けれども信仰が必要ですよ)
あん人たちは、とつけみにゃよろこんどるごつみゆ
(あの人たちはとても喜んでいるように見えますが)
そらそうたい。あら~ゆるさるったよろこびたい
(それはそうです。あれは赦された喜びですよ)
だっでん、連れてきてよかっと
(だれでも、連れて来ていいのですか)
だっでんよかとよ
(だれでもいいですよ)
そんならなかまばよんでくるたい
(それなら友人を誘ってきます)
そぎゃん、いそがんはしらんちゃよかよ
(そんなに急に走らなくてもいいですよ)

# by maranatha | 2025-07-10 11:38 | 故郷

シクラメンの白い花

本屋へ行く道のシクラメンの白い花が咲いた。いい香りだ。川沿いのザクロの実と青い柿の実も大きくなった。暑くても、15分以上は太陽の下を歩くようにしている。もちろん、散歩の時間が長ければ影をしたって歩く。どうして暑いのに太陽に下を歩くのと質問した人がいた。太陽のエネルギーを吸収するため、お日様の匂いがするように、と答えた。寒いより暑い季節がよい。今年はどういうわけか長く咳が続いた。気温が高くなってやっと止んだ。どういうわけか右肩を痛めてなかなか治らないでいる。少しガタが来ているのかもしれない。いつもだと痛みは自分で治すが、こればかりはなかなか治らない。
# by maranatha | 2025-06-28 21:50 | 自然

祖父の思い出

祖父(母方)を思い出した。祖父の隠居宅は、母屋がある敷地ではなく別の敷地にあった。その間に、大きなイチジクの木があった。熟す頃、よく食べた。祖父の隠居宅には池があった。池の水は山から流れてくるきれいな水だ。タニシがいて、砂糖醤油で佃煮にして食べさせてくれた。何のツルか知らないが、そのツルの中の虫を串刺しにして囲炉裏端で焼いて食べさせてくれた。蜂の子も食べさせてくれた。ご飯も食べたはずなのに思い出すのは普段は食べないものばかりだ。背が高く、男ぶりのいい祖父だった。祖父の死の間際、おばたちが「おとっつあん」と涙声で呼びかけていた。
# by maranatha | 2025-06-16 21:09 | 故郷

監督責任

教団に属する牧師が問題を起こした。役員会が牧師の問題を正しくさばくことができるだろうか。長老制の運営のしっかりしている教会であれば、それもできるだろう。牧師の権威を強調する監督制の教会や権威主義の教会形成をしている教会では、どの教団に所属していようがいまいが無理な話である。権威主義の教会では、役員は牧師に問題があってもしっかり意見を言う人はいない。意見を言えるような人はすでに教会を去っているか追い出されている。あるいは、問題を扱おうとした時点で追い出され始める。

今まで、私は牧師の問題に取り組んできた。問題の相談が私の所に来ること自体が教会に自浄作用がないからであって、牧師の権威主義による深刻な精神的虐待であったり、経済的な搾取であったり、時には性的虐待の被害者であったりする。被害者の話を聞けば、いずれも役員会が機能していない。牧師を支えることを使命と思い込んで、間違った牧師を支えることも使命と勘違いしている。正しい牧師と支えるのは問題ないが、正しくない牧師を支えると、時には犯罪のほう助となることもある。そうでなくても、牧師の問題が裁判で明らかになった場合、牧師の辞任で済むわけではない。辞任するほどのことを支えたのだあるから、役員たちの辞任してしかるべきである。ところが、辞任も責任も感じないほど役員たちが厚かましく留まる場合がある。外科手術は腐った部分の切開が遅れると体全体に壊疽が広がる。

# by maranatha | 2025-06-14 11:59 | 教会

興味深いもの

第1サムエル記にはサウルとダビデの油注ぎがある。油注ぎは神の霊が注がれることを形式化したものである。王は油注がれて王位に就くことができる。神の霊の助けなしに王の働きをすることはできないことを示している。サウルは油注がれて預言を語った。ダビデは竪琴に癒す力をいただいた。サウルのために竪琴を引くことになったダビデは、サウルの近くで王のすべきいことを学んだといってよい。預言者の集団が楽器をもっていたことが記録されている。ダビデは礼拝改革を行ったとき、祭司たちが楽器を用いるようにした。しかも、礼拝を指導していく祭司のリーダーたちはレビ人で預言者であった。宗教はしばしば音楽と切っても切り離せない関係になる。

興味深いことは、竪琴が癒すのではなく、神の霊が注がれた後のダビデが竪琴を引くときに力が現れている。近年、音楽がヒーリングに用いられている。特にモーツアルトの音楽が用いられている。彼の曲が出す周波数に注目が注がれている。絵本の世界では、セロ弾きのゴーシュが有名だ。セロの響きが子ネズミを癒す絵本だ。昔その絵本を読んだとき、そんなことがあるのかな、と思っていた。今は楽器に効果があることがいろいろ証明されてきて一般化してきた。

小さな砂粒を鉄板の上にのせて、周波数を出す装置を小さな砂粒を乗せた鉄板につなげる。様々な周波数で砂粒が動き、模様を描き出す。なんと不思議なことだろう。モーツァルトの曲が出す周波数はどんな模様を描いてくれるのだろうか。

私が興味を惹かれるのは、木、草、花、光、波長、磁気、生体磁気、雲、雨、気流、波、周波数である。

# by maranatha | 2025-06-14 11:57 | 自然
宗教問題