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村上 密 Blog

失う

何かを失う
失ってもいいもの
失いたくないもの
どれが大切か
失ってわかる

失うことは大切だ
失って
失って
何が残るか

つぶやきか
悔いか
喜びか

手からこぼれるもの
身についたもの
内にあるもの

大切なものは少ない
それを失わなければ
それでよい

*カウンセラーは喪失感を抱えた人と向き合うことが多い。
失った人への安易な同情は傷を広げる結果となる。
失うことは、失うだけではなく、大切なことを見つける機会でもある。
カウンセラーはその大切なものを一緒に捜す案内者である。

# by maranatha | 2017-12-14 11:45 | 心理

今日

きょお と書いてぇ~
きょう と書く
きょお てっば~
きょう と書く
きょお
きょお と言って泣き始める
きょおではなくきょうだよ
きょお

まだ文字を書けないが読める6歳の子の訴えである。
京都(きょおと)はきょうとと呼ばない
日本語は書くことと読むことが違う場合がある。
子どもに説明しても子どもは分からない。

# by maranatha | 2017-12-12 23:14

記憶は作られ 削られる

統一教会の研修に参加するため家を出た。その後、家は大騒動。父と兄と叔父が、私が匿われている場所を捜し当てた。父が2階にいる私を見つけ出し、私が死んでも帰らないというので、父が殺して連れて帰ると言って、殴る、蹴る、引き回す。2階から髪の毛をつかんで引きずりおろし、車で連れ帰された。

11月に熊本で兄と母と一緒に食事をしているとき、先の話をしていると、兄が、そるわ~、おとっつあんじゃなか、おったい。用心棒がおっと思ったけん、木刀ば持って殴り込んだたい。わっが、死っでん帰らんていうけん、うちくらわし、けたぐっ、ぞびきまわし、連れち帰ったたい。兄から記憶違いを起こしていることに気づかされた。私の瞼に浮かぶ、手をあげる父は実は兄だったとは。驚きである。そして、兄が、おまえがにぐっといかんけん、3日間、ロープでしばって、座敷にとじこめとったたい。おまえは3日間、めしもくわんでおったたい。この辺の記憶はない。母がそぎゃんだったたい、と言ったので確かだろう。私は兄に、その節は大変お世話になりました、とその場でお礼を言った。その場で私たちは大笑いをした。

ついでに、兄が、おまえはこまかっとき、おやじに梁からロープで吊るされ、竹ん棒でたたかれたこつば~あったたい。母が、あんたはなきもせんで、歯ばかみしめっ、引きつけばおこして気おとしゃせか~、しんぱいしたとたい。これも記憶にない。記憶は作り変えられ、消されるものだと分かっているが、自分のことでわかって驚いている。

一部を熊本弁で書いた。迫力ある場面、追憶する話し方、このような話し方はどれもなじみの言葉である。「その場で私たちは大笑いした。」つらい事、悲しい事、大変なことも笑いでくるむ話し方は我が家の話し方である。

# by maranatha | 2017-12-12 22:55 | 心理

溶け込む

穏やかな風が吹いていた。公園のベンチに座り、草木を眺めるともなく眺めていた。どれくらい時間が経ったのだろうか。風景の中に溶け込んだ感覚である。誰かが通り過ぎて、私を認識するだろうか。忍法に気配を消す術があるという。気配を消すとは、自然に溶け込むことである。この経験はあまりしたことがない。何度もしたい経験である。

少年のころ、山でよく遊んだ。時には、枯葉が積もったところに潜り込み、かくれんぼをした。木の後ろに隠れ、木の上に隠れ、岩陰に隠れ、やぶの中に身をひそめる。うまく隠れると見つけてくれない。面白くするために石をいくつかの場所に投げて、鬼をかく乱する。これが鬼の霍乱ではない。鬼の霍乱とは、体の丈夫な人が珍しく病気にかかることを言う。

# by maranatha | 2017-12-11 14:46 | 自然

教会

神学校を卒業して、高槻市で開拓をすることになった。教団の支援と関西教区の支援を得ることができた。踏み切りが近いアパートが最初の住まいである。電車が通るたびに、カンカンと音がする。狭いアパートで礼拝や祈祷会はできない。どこかいいところがないだろうか。そんな思いを持っていたとき、横浜の方から無料で家を使用してよいとの申し出があった。好意に甘え過ぎてもいけないので、相場の半額くらいの値段で借りることにした。築60年の二戸一であった。

二戸一の古屋は教会のイメージから遠い。訪ねて来られる方に、ここは教会ですか、とよく聞かれた。はい、教会です。教会は建物ではなく、神を信じる人々の者の集まりです。教会らしくない建物で開拓を始めたので、教会についてよく考えるようになったのは幸いであった。教会は建物ではない、と礼拝に参加者が加わっても語り続けた。もし、教会堂のある教会に派遣されていたら、教会について考える機会がなかったかもしれない。不足が教会の本質について考える機会を与えたのである。

# by maranatha | 2017-12-11 14:08 | 教会
宗教問題

by maranatha