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村上 密 Blog

イエスの弟子

弟子訓練、弟子つくりには、だれの弟子かが明確でなければならない。聖書には、「あらゆる国に人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)とあるが、それはイエスの弟子であり、牧師の弟子ではない。イエスの弟子を作るために必要なのはイエスの教えである。こう書いてある。「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らに教えなさい。」(マタイ28:20)

弟子をクリスチャンより上に位置付ける考え方は間違いである。「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者(英語:クリスチャン)と呼ばれるようになった。」(使徒11:26)教会には階級は必要ない。必要なのは役割である。キリスト者は万民祭司であるのに、牧師を特別な役職として扱うのはおかしい。牧師は教会で真理を語り、真理を守り、キリスト者の世話をする(牧会)役割である。牧師を弟子の上の置くのも間違いである。共に、イエスの弟子になるからである。

# by maranatha | 2017-05-05 18:04 | 弟子

愛するか

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)

ペテロが心を痛めたのは、イエスが三度もしつこく「あなたはわたしを愛しますか」と言われたからと思っている人がいる。また、イエスは大祭司の庭でペテロがイエスを三度も否んだことを間接的に指摘しておられ、悔い改めに導かれたので、心を痛めていると思っている人もいる。さらに、イエスの三度目の「愛しますか(フィレオー:師弟愛、夫婦愛、家族愛等に使うことば)」は、一度目と二度目の「愛しますか(アガパオー:犠牲的な献身的な愛)」から変わったことに心を痛めたと指摘する人もいる。私はヨハネの21章はイエスの弟子たちに対する牧会の箇所であり、弟子たちへの牧会の委託であるとみているので、2番目と3番目が含まれていると思っている。イエスはペテロの現状にまで下って彼の告白を受けとめてくださった。そして、年月をかけて、ペテロの愛をフィレオーからアガパオーに引き上げてくださったことを、ペテロの手紙を読むことによって知ることができる。とくに、1ペテロ5章1節から4節は牧会のあるべき姿を示している。ペテロの最後は、ローマで殉教したと言い伝えられている。イエス・キリストへの献身的な愛(アガパオー)、教会への献身的な愛(アガパオー)に至っている。

# by maranatha | 2017-04-30 20:43 | 聖書

主の命令に教会として取り組む

教会では、総会議案の活動報告を、礼典部門、宣教部門、牧会部門、教育部門、教会運営部門に分けて報告している。

礼典部門は、礼典である聖餐とバプテスマ関することで、主の命令である聖餐(マタイ26:26~29、1コリント11:23~26)とバプテスマ(マタイ28:19)への教会としての取り組みである。厳密には、礼拝と諸集会にも言及しているので、礼典・礼拝部門とすべきかもしれない。

宣教部門は、復活の主の宣教命令(マタイ28:19、マルコ16:15)に対する教会の取り組みである。

牧会部門は、復活の主の牧会の委託(ヨハネ21:15~17)への教会としての取り組みである。

教育部門は、復活の主の「教えなさい」との命令(マタイ28:20)への教会としての取り組みである。

教会運営部門は、宗教法人としての財産管理と重要な事項に言及している。

以上のことからわかるように、教会運営部門を除くほかの部門は、いずれも主の命令であり、聖餐に関すること以外は、「いっさいの権威があたえられて」いる復活の主からの命令への取り組みである。復活の主は、公生涯の業を、教会が継承するように求めておられる。信徒ひとりひとりは、復活の主の命令にどのように応じたらよいのかわからないことがある。しかし、教会が命令と委託されたことを理解して取り組めば、役割を担えるようになっている。

# by maranatha | 2017-04-30 20:05 | 教会

通り名

最近、母の実名を知った。実の母である。実名だと思っていた名前が通り名であったとは、驚いている。昔、実名を知られるのを避けるために、通り名が用いられた。自分の母の実名を実の息子が知らないのだから、他人が知るわけがない。せっかく、実名を使わないでいるのだから、これからも、通り名を私は使い続けることにする。ひょっとしたら、母の姉たちや妹たちも通り名かもしれないと思うと確かめるのもおっくうなのでそっとしておくことにする。

血のつながりはないが、私の子守りをしてくれた「ばあちゃん」が私の名前を正確に呼んだことがなかった。私は「ひそか」であるが「ひそこ」と呼ばれた。人によっては「いとか」「ひとか」、さすがに「ふとか」と呼ばれたことはない。広げられた名前は「ひそこ」。女の子の名前のようであんまり気持ちはよくなかった。初めて出会って「密」を「ひそか」と呼ばれることはまずなかった。ほとんどの人が「みつ」と呼んだ。このようなことを思い出していると、私にも通り名のようなものがあったことになる。


# by maranatha | 2017-04-27 21:27 | 故郷

りっぱな信仰

ペテロはイエスの弟子であるが、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と叱られた。ペテロは信じて水の上を歩み始めたが、途中で疑った。カナン人の女は「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」とほめられた。女は疑わなかった。助けてくださると信じて「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」「主よ。助けてください」と大声でうるさいほど一生懸命懇願し叫び続けた。イエスは憐れみ深い方、ダビデの子(メシアの別称)と信じて、断られてもなお身を低くして願った。下記の聖書箇所からは信仰を教えられる。予めイエスは語っておられた。「求めなさい(直訳 求め続けよ)。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)これがイエスが教えた信仰、マタイが伝えたい信仰、私たちが受け継ぐ信仰である。

イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:29~31)

それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。(マタイ15:21~28)

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:1~4)


# by maranatha | 2017-04-27 18:44 | 聖書
宗教問題

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