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村上 密 Blog

今、沖縄の超教派活動は

ほぼ毎月沖縄訪問をするようになって、12年目を迎えた。奉仕の内容は礼拝、祈り会、聖書の学び、セミナー、グループカウンセリング、カウンセリングである。訪問以前は、沖縄は日本で最も超教派の活動が盛んと言われていた。実際、毎年毎年、国内外から次々と年に何人も講師を呼んで、超教派の集会が開催されていた。招かれる講師が、実に問題のある講師たちであった。そのうち、招かれる講師たちの不祥事や不都合な真実が次々と明るみになり、次第に超教派の活動が下火となった。ここ数年、従来型の超教派集会は止んでいる。理由はいくつか考えられる。1つ、超教派集会の費用対効果が低くなった。2つ、招かれていた講師たちの問題が次々と明らかになり、講師を選定する運営側の信頼が崩れた。3つ、超教派の集会に参加していた一部の教会のカルト化教会の様子が明らかになり、協力関係が崩れた。4つ、教会のカルト化の被害者の抗議の声が浸透した。5つ、教会の経済がひっ迫し始めた。以上は個人的な感想である。超教派の集会が開催されなくなって、同じ傾向の教会が集会を開いてはいる。このような集会は超教派と言えるだろうか。超教派とは教団、教派を超えていることを言う。例えば、ホームカミングはプログラムも講師も事前には分からない集会である。だれが、どのような話をするか予測もつかないこのような集会は超教派とは言わない。聖書は「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分たちにつごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:3、4)と言っている。
# by maranatha | 2016-08-05 21:01

恐れるな 畏れよ

恐れ
「イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。イスラエルの人たちは言った。『あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。』ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。『このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。』民は、先のことばのように、彼を殺した者には、このようにされる、と答えた。」(1サムエル17:24~27)

恐れに立ち向かわせる
「この男」とは身長6キュビト半(約2.9メートル)のペリシテの代表戦士ゴリアテである。この男になぶられても、この男に戦いを挑むイスラエルの戦士はいなかった。すべての戦士たちが彼を恐れていた。サウル王は、恐れを乗り越えさせるために、兵士たちに約束した。それを聞いた兵士はダビデに言った。「あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」サウルの約束を3つである。

1つ、大いに富ませる。
これほど人の心を動かす物はない。しかし、いのちを失ったら手に入れることはできない。冨といのちのどっちを選ぶかと言われれば、だれでもいのちを選ぶ。

2つ、自分の娘を与える。
富と権力を得るための近道は、富と権力を手にしている人の娘と結婚することである。部族社会では、娘は政略のために利用される。後の話だが、「サウルの娘メラブをダビデに与える、という時になって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。」(1サムエル18:19)「サウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。」(1サムエル18:27)その後「サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリムの出のライシュの子パルティに与えていた。」(1サムエル25:44)サウル王亡き後「ダビデはサウルの子イシュ・ボシェテに使いをやって言わせた。「私がペリシテ人の陽の皮百をもってめとった私の妻ミカルを返していただきたい。」(2サムエル3:14)と要求している。(補記1)

3つ、義務を負わせない。
神に仕えるレビ人を支えるために什一がイスラエルの民には義務付けされていた。この什一に更に什一が加わることになる。イスラエルの民が王を求めた時、神は「王の権利」を定められた。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。」(1サムエル8:11~17)ゴリアテが言った「おまえらはサウルの奴隷ではないのか。」(17:8)はその通りである。「エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出て行った。戦いに行った三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャマであった。」(1サムエル17:13)更に七男ダビデもサウル王に仕えることになった。(補記2)

人や獣を恐れず
「ダビデはサウルに言った。『あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのぺりシテ人と戦いましょう。』」(1サムエル17:32)勝利の根拠は、神の助けを羊飼いとして経験した。ゴリアテとの戦いにおいてもあると確信している。「『しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。ついで、ダビデは言った。『獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。』サウルはダビデに言った。『行きなさい。主があなたとともにおられるように。』」1サムエル17:34~37)

主を畏れる
「ダビデはぺリシテ人に言った。『おまえは、剣と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。』」(1サムエル17:45~47)

補記1
羽柴秀吉は、浅井長政の亡き後、その妻お市を娶ろうとした。彼女が天下人織田信長の妹だからである。豊臣秀吉は後にお市の娘の茶々を側室にした。徳川家康はお市の娘の江を秀忠の妻に向かえている。江の遺伝子を受け継ぐ者は、その後今日に至るまで多数が支配者階級に属している。閨閥による冨と権力の世襲が古今東西に見られる。

補記2
憲法9条が改正されたら、、国民の負担は確実に増加する。息子娘はやがて兵士となる。残る息子娘は大学進学を文系から理系に切り替え、卒業後は軍事産業に務める。兵士の戦死と心身の負傷に伴う遺族・傷病手当は増加する。仮想敵国との軍拡競争が繰り広げられる。軍事費は増加し、他の予算は削られる。少子化社会で実子の息子娘を戦争で失う。少子社会では養子縁組は困難を増す。老後を見る子もなく、貧困社会を招く。遺族は、わずかな国家からの戦没者遺族年金に依存的となり、声なき羊となる。
# by maranatha | 2016-07-27 00:00

祈り

何でもお祈りで話を終わる牧師がいた。
ある時、ある人が牧師に相談した。
相談を終えた後、牧師はお祈りしましょう、と言った。
相談に対する具体的なアドバイスは何もなかった。
ある時、教会を訪ねた。牧師館から煙が出ていた。
それで牧師に、牧師館から煙が出ています、と伝えた。
牧師は言った。お祈りしましょう。(水をかけに行かんかい!)
# by maranatha | 2016-07-23 21:56

熊本弁

『苦界浄土』でよく知られる作家の石牟礼道子は熊本県生れである。『月刊ウェンディ』(1)の中に彼女の記事があった。その中で、彼女は彼女の父が敬語で祖母に「夕飯のご膳でござい申す、膳をつけ申せ」「いただき申しやす」と語り語りかけているのを書いている。家族のことも書いてあり、興味深い記事である。記事を読んでいて、私も熊本県生まれだが「申す」は使わない。気になって調べて見た。「ぜーたの熊本弁講座~「申す」系の敬語・尊敬語~」(2)に「これは『球磨郡』で使われる言葉です。」とあった。記事を読んで熊本の母の言葉をいろいろ思い出した。母はよく敬語や尊敬語を使っていた。「~なはる」はなんとも上品である。

(1)月刊ウェンディ九州版2016年7月15日(第326号)
(2)http://minkara.carview.co.jp/userid/499612/blog/37897454/
# by maranatha | 2016-07-22 21:51

女の愛にまさる愛とは

女の愛にまさる愛
ダビデは、ヨナタンの訃報を聞いて、悲しみの歌を作った。その一節に「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。」(2サムエル1:26)とある。「女の愛にまさって」はどんな愛だろうか。

女の愛にまさる愛を知る手掛かり
1、「ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」(18:1)「ヨナタンの心はダビデの心に結びついた」は「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」と同じような意味である。
2、「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。」(18:3)「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した」が再度出てくる。
3、「ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。」(20:17)「ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していた」は、これで3度目である。
4、「ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。」(20:17)なんと、「ヨナタンは自分を愛するように、ダビデを愛していた」が4度目である。このように繰り返し、繰り返し、同じ言葉が出てくる。
以上のことから女の愛にまさる愛は、新約聖書に出てくる律法の要約である「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マルコ12:31)となる。ヨナタンはダビデを友愛ではなく、犠牲的な愛、新約で言うところのアガペーの愛で愛した。

ヨナタンの犠牲的な愛
ヨナタンはダビデとの契約に基づき、ダビデを殺そうとした父サウルの手から一計を案じて逃れさせた(1サムエル19章20章)。これはいのちを掛けた行動である。また、ヨナタンは王位継承権を持っているのに、王になるのはダビデと言っている。「彼はダビデに言った。『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。』」(1サムエル23:17)ヨナタンは血統ではなく、ダビデのような人こそ王になるべき人と心から思っているのである。
# by maranatha | 2016-07-14 22:45
宗教問題

by maranatha