カルトは、指導者への服従を強調している。服従について、最近興味深い本、『服従』(ミシェル・ウエルベック/大塚桃 河出書房新社)が発売されている。それを読みながら、聖書が教えている不服従を思い出した。
イエスは、議会に引き渡され、総督や王の前にも連れて行かれた(ヨハネ18章)。
イエスは弟子たちを派遣する時に次のように語られた。「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すうなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(マタイ10:16~20)
ペテロとヨハネは議会で取り調べを受けた(使徒の働き4章)。パウロも又議会で、更に総督たちや王の前に連れて行かれた(使徒の働き22章~26章)。彼らは、いずれも父の御霊の助けによって彼らの前でイエスを証ししている。
イエスとペテロ、そしてパウロは、その時の宗教的最高権威や世俗の権威に対して反論している。当時、キリスト教(そのような名前はまだない)はユダヤ教の一派と見做されていた。そのような中での反論が迫害を招くであろうことは当然予想された。しかし、彼らは真実を語らずにはおられなかった。
権威主義の牧師は、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ13:1)を自分の権威づけのために利用するが、聖書は無条件で従うように教えているわけではない。代表的な聖書の箇所から、私たちが模範としなければならない不服従を取り上げて見た。